ナギサ特有の歩道橋から、が駆け降りて来るのを、オレはぼうっと見ていた。
雨が昼過ぎに上がり、ちょうど雲の切れ間から光が差す空をバッグに、段差をリズミカルに蹴って、は無邪気で子供っぽい笑顔をこぼす。揺れる、髪の毛との横顔。服が一瞬浮き上がって、一瞬だけ見通せる鎖骨の奥。なぜか、それら全てに光が宿っているような感覚に襲われて、オレはぼうっと目を奪われていた。
「あ!」
階段を降りきったが、オレを見つけて、目を輝かせる。
片手を上げ、まっすぐにオレを目指してくる。高鳴る心臓をさらに追いつめるように、は軽い駆け足で、オレに向かって笑顔をあふれさせる。
相手は幼なじみだというのに「よお」とかける言葉が僅かに震える。らしくないぞ、オレ。動揺が手にまでいかないよう、細心の注意を払って、彼女に応えようとした、時だった。
目の前まできたが、急にひざを曲げる。
はオレの前では止まらなかった。そのまま体をかがめ、オレの足下に寄り添っていたレントラーの毛並みに埋もれていった。
「レントラー! 元気だった?」
「………」
「んー! よしよし、今日も良い抱き心地……」
「おい……」
「んー?」
レントラーの毛並みに鼻まで潜り込んだが上目遣いでオレを見る。
「あ、デンジだ」
それだけ言って、はまたレントラーを愛で始める。
「あー、ひなたぼっこの匂いがする……。お散歩だったの? ちゃんとご主人様を紫外線消毒できた? そっかぁ、偉いねレントラー」
紫外線消毒とはひどい言いぐさだ。オレがまるでいつも日が当たらないところにいるみたいな言い方だ。
レントラーはオレが苛立っているのに気づいて、困ったようにこちらを見上げている。だがの指が的確にイイトコロをひっかくようで、そのしっぽは素直すぎるくらに甘く揺れていた。
またレントラーに埋もれたまま、がオレを見る。
「うん、ご主人様の顔色、いいね。いつもより数倍健康的じゃん。よくやった!」
思わず大きなため息が出る。
「……、帰るぞ」
階段を駆け降りる、まだオレに気づいていなかったへ、不覚にも抱いてしまった自分の感情。それらも胃から吐き出すようにレントラーにそう言い放つ。レントラーなら何もしなくともオレについてくる。オレは後ろを見ないまま歩きだした。
家の前に着いて、また、ため息が出た。振り返るとそこにいるのは、オレを従順に見上げるレントラーと、だ。
「なんで来るんだよ」
「むしろなんでデンジがいるのよ、わたしはレントラーについてきたのに」
「レントラーはお、れ、の。オレのポケモンだ」
「そうだったね。おじゃましまーす」
「おい……」
「ちょうどお菓子買ったところだったんだ。明日デンジのところに持っていこうと思ってたんだけど、今日になっちゃった」
やったね、これ焼きたてのお菓子だよ。そう彼女は電気のついていない、オレの家の中から笑った。
デンジのところに持っていこうと思ってた。その言葉がオレの中で何度も響きわたる。あいつ、明日、オレの家に来る気だったのかよ。それも自主的に。
「あー、くそ……」
はいつもこうだ。一体オレを何だと思ってるんだと怒りたくなるような、ひどい言い草をすぐに口にする。
と同時に、言い訳やフォローのためじゃなく、ごく自然にオレを思っている風な口をきく。それがの質の悪いところだ。
さっきの言葉も同じだ。オレがいつもより顔色が良いからと、レントラーを褒めた。
は直接の優しさは向けてくれないくせに、何かとこちらを気にかけてみせ、オレに期待を抱かせるようにしっぽを見せてくるのだ。
オレは気落ちした、けだるい手を精一杯動かして、家のドアを閉めた。
室内に響く彼女のととと、という軽い足音を聞くと、せっかく散歩で巡り始めた血液が、どろりと動きを鈍くしていくようだった。
ようやくリビングにたどり着くと、は焼き菓子の袋は机に放って、すでにオレが買い貯めた缶コーヒーを開けていた。
かまってもらえてレントラーも嬉しいんだろう。が床に座り込むと、レントラーも寄り添うように膝を曲げた。
オレも横に座るが、はレントラーだけを一心に見つめる。
「ほんとに良い子だねー。いつもお疲れさま」
そういってが焼き菓子のかけらを手に乗せて出すと、レントラーはの手ごと舐め尽くすように大きく舌を出した。オレはひどくのどが乾くような心地だった。
「うーん……。こうして見るとデンジに似てるなぁ」
「そうか?」
「見てよ、こうやってもみあげつくると……」
の手櫛がレントラーの黒い毛をかき集め、オレの髪型の真似をさせる。
「ほら、似てない?」
オレとレントラー、似ているだろうか? ポケモンとして、トレーナーとして気が合うと思っている。けれどそれ以上にオレとレントラーを形づくっているものに、近いものがあると言うならオレはいっそレントラーになりたい。
「がう」
「は? 何それ」
「がうがう」
「もしかして……レントラーの真似?」
「がうがう」
「あはは、デンジがレントラーになってどうするの? あんま似てない。しかもやる気なさげだし」
「がうがう」
「……実は、わたしと会話するのがめんどくさくてやってる?」
「がうがう」
そろりと目だけ横に向けると、同じく目だけをこちらに向けたがいた。
「………」
「………」
「ちょっ、やめ、レントラーはそんなことしないから! もー! っぎゃー!」
服の上からわき腹に噛みついたら、それがくすぐったかったらしい。は女らしさの無い叫びをあげて笑った。
そのまま体重をかけても、はオレのおふざけの一環だと思いこんで、笑い転げるだけだった。オレは、のけぞる首筋や、床に無造作に散らばる髪の毛や、ひいひいと息吐く唇が、目に入って仕方がないのに。
力に入らない手で、オレの頭を押し返そうとする。彼女のわき腹に噛みついたまま、フーッ、フーッと息を吐いた。
「ちょっとデンジ! 服濡れてる! あんたのよだれで服濡れてるから!」
当のレントラーの、動じない瞳と目が合う。とたんにオレはすっと気持ちが冷めて、の体から口を離した。
笑い、騒ぎ過ぎて起きあがれないと、頭から冷や水かぶったようなオレと、何を考えているのか分からないレントラーが、その部屋の床にそれぞれうずくまっていた。
オレはよく考えていた。レントラーになれれば良いのに、と。体が成長して、彼女と体格の差が出て以来の思いだ。オレがレントラーであれば、オレはがうなんていう鳴き声しか出せなくなる。それが良いと思っていた。
そうすれば、「好きだ」とか気持ちが口に出るような間違えは、しなくて澄むと考えていた。
オレが言葉なんかを使えるから、毎日、どうしようもない想いで苦しくなる。気持ちを伝える方法なんて無くなれば良い。
その時のオレはまだ、決定的な言葉が無い限り、との関係を壊さずに澄むと思っていたんだ。
あの日、の腕の中にいられなくなったライチュウが床に落ちて、雷型のしっぽを揺らしながら去っていった後。
ゆるすぎる部屋着のまま二人で会ったり、めんどくさがってお互いの部屋に寝泊まりしたり、それこそレントラーになったつもりでわき腹に噛みついてみたり。今までさんざんそんなことしてきた。けれどついさっき、怒りにまかせて一回した、キス。その行為でさすがのにもことの重大さが伝わったらしい。見下ろした顔は幼なじみのではなくなっていた。
『なんで、こんなことしたの……?』
は、大きく見開かれた目を泳がせていた。
誰よりもオレの体は正直で、体中が熱くなるのを感じていた。
『なんだよ、こんなことって』
『今、デンジがしたことだよ。こういうことしたら、だめだよ……』
『だめって、なんだよ』
『デンジにとってはだめじゃないかもしれないけど。でも、わたしにとっては……』
その続きをは言わずに去った。いや、の内には答えが無かったのかもしれない。オレがにキスをしたらいけない理由に値する答えが、あのふざけた幼なじみは持っていなかったんだ。
考えごとからオレを引き戻したのは、家の前でたたずむ人影の気配だった。部屋に入ってくる光は弱々しい。昼間では晴れていたのにどうやら雲が来てしまったらしい。遠くでかすかに、雷の音がした。
たたずんだまま、動く気配のない人影に、オレからドアを開ける。そこにいた人物を見て、なぜオレの意識が引き戻されたのかが分かった。だった。
「や、デンジ」
は笑顔を作り、軽く片手をあげる。
「起きてたんだ。てっきりまた床で寝こけてるかと。床で寝るのは良いけど、もうちょっと雑巾がけとかした方が良いよ思うんだよね。頭にほこりつきそうじゃない」
一方的に、ごく明るくしゃべり倒しながら、はオレの横をすりぬけて家に入る。
家の奥に入っていくの手には包みがある。どうせ何かお菓子が入っていて、オレの分まで買ったと言うのだろう。
つきあいが長いせいで、こういう時の考え方や、行動の理由を読めてしまう。だからがなぜ今、オレの前にいるか。明るい声でしゃべるか、なぜお菓子を持ってきたか。痛いほどに分かってしまう。
だからオレはその背中に投げかけた。
「オレは元に戻るつもりなんて、無い」
たった一言で、とたんに泣き出した背中。華奢で小さいそれを慰めることは、オレには出来ない。
開けっ放しだったドアの外は雨が降り出していた。それと雷光、だいぶ遅れて雷鳴。何時間後にオレは自分の家に帰れば良いかな。一晩ジムにこもってもいいや。そうぼんやり考えた。
家の中のは肩を大きく揺らしてしゃくりあげている。声を出さないのは彼女らし強がりだと思った。
そんな震えた体で帰ること無いよな。オレがいるよりは一人の方がいいだろう。どうしてオレはまだを気遣っているんだろう。
自分自身もも、もうなんだか面倒で、オレは雷雨の中に出ていった。