自らへ無数に寄せられる関心と好意の中、例外的に、それだけは良しとしてしまったものがある。たったひとつという子から発せられるそれだけは、後にも先にも無い、僕にとって特別なものだった。
 が気まぐれに僕へ問いかけたり、関心を持つ。気遣いも、かけられる言葉も特に奇をてらった所はなく人並みのそれだった。なのに僕の内側へ巧みに入り込んで繋がってくるのだから、彼女のものだけは他とは違う、ひとつ秀でたものに感じられた。

 理由は単純で、分かりきっている。彼女が、何かとタイミングの良い女性だったからだ。
 些細なことは食べたいものがよく重なること。出かけたい場所の話題を同時に持ち出したこと。肩肘張る出来事の最中での、一息入れるタイミングとか。くしゃみが重なったこともあった。漠然と苦手なものも同じだった、それに見切りをつけて体よく逃げ出すタイミングも。
 あれ、それ、これ。時には何も言わなくても互いの求めるものが手に取るように分かった。

 その重なりに、例外は無かった。
 持って生まれたもの、僕が僕自身の力で手に入れたもの。様々な部分で人より秀でた、そんな僕であるが故に、いつだって他人は、僕の細かな気分の浮き沈みを笑ってすます。けれどそれも、ならば決して軽率に扱わなかった。
 むしろ僕が考えごとをして表情を忘れていると、世の終わりのような青い顔をしながら、けれど繊細に、彼女は距離を詰めてきたのだった。
 どうでも良い悩み事には大して反応しないのに、いつの間にか体中を緊張させてしまうような悩みを持った時は、めざとく見つけだされるのが、いつもすごく不思議だった。けれどあの少し爪の出た指先はいつも間違えなかった。何度も教えられるようにつつかれたんだった。あまり隙は無いと自負する僕の四肢にも、弱点はあるんだよと。

 説明のつけられない彼女の能力に飲み込まれるのは、不思議と嫌じゃなく、心地良いとさえ思っていた。付き合い始めてからは、彼女が僕の深くに入り込んでくる度に驚きを新たにしたものだった。
 自分勝手、自由人。ものすごく強いのにあまりポケモン勝負しないで珍しい石を探してばかりいる。陰口にしろ褒め言葉にしろ、散々指摘されてきた自分のどうしようもない性質は彼女には通用しなかった。僕が揺れ動く時、も何らかのかたちで同じように揺れ動くのだから。ふたり一緒になって揺れてしまえば、そこに違和感なんて生まれない。
 そうは、生まれも育ちも性別も違うのに僕と同じリズムで生きていた。彼女の前では自分勝手は存在していられなくて、ごく自然な二人三脚へ変えられていた。だから彼女といると自分のペースが保たれて、その度に僕は思っていた。他人といるはずなのに、って。

 決してひとつになれない、他人なのに。彼女が僕へ抱く全てはいつでも、するりと僕の奥深くへ入り込んで僕の心を大きく脅かした。全てというのは、思いやり、疑い、信頼、好意、軽蔑、ひっくるめて全部。まるで繋がっているみたいに、彼女が揺れ動くと、僕も揺れ動く。
 運命めいたものを感じるのは簡単だった。死に際に誰か横にいるとしたらこの人しかいないのではないか、と。人生に二度も望めない、幸運な出会いに違いないとまで考えた。

 だから、さすがだな、と思った。
 もう別れて数ヶ月が経つというのに。彼女からの連絡のタイミングは完璧だったから。

 僕がほどほどの収穫とともに洞窟から出て、手持ちぶさたになった瞬間にその電話はかかってきた。都合良く、あたりには誰にもいなかった。僕の表情を見ているのは、草木と空と岩壁のみだった。
 雑然とした町の中じゃなく、ひとりでいたい洞窟の中でもない。僕が少し気を張るリーグともかけ離れていて、たったひとりだけど世界ともちゃんと繋がっている。そんな僕でいた、これ以上ないっていうタイミングを捕まえてのコールだった。


「はい。僕だけど」


 考える間もなく、通話に出てしまった。出てから失敗したな、と後悔した。彼女はそういう人だったなとすぐに想いがぶり返した。は考えたり、抵抗の隙を与えない、自然さという武器を持つ女性だった。


「もしもし、ダイゴさん? 突然ごめんなさい。久しぶり。元気……?」


 耳元に響くデータ化された音。けれど彼女の声だ。過ごした時間とともに響き方に愛嬌を見つけた、彼女の白いのどまで思い出せる声だった。


「あ、うん」
「……ねえ、ちょっと」


 意識が別のところに反れた返事が、かんに障ったらしかった。電話越しの声が急に色を悪くする。


「気まずいのは分かるけど、元気かどうかくらい教えてくれても良いんじゃない?」
「そういうわけじゃないよ」
「もう、いいよ、別に。答えたくなかったらそれで」


 弁明したのに、容赦なくつっぱねられてしまう。たった数回のやりとりなのに、もう会話がかみ合わなくなってしまった。にわかに胃がムカついた。彼女は僕に悪意があるものだと決めつけている。ひどい偏見だ。
 かけ違えたボタンという表現は、今の僕とにふさわしい言葉だろう。余ってしまうボタンホールに、片方だけはみ出てしまう服の裾。お互いの些細な、それも悪い部分が目に付く。
 少なからず存在した信頼はもうここにはなくって、相手には悪意があるものこちらを嫌悪しているものと互いに疑っている。終わってしまった関係のテンプレートだなと僕は思った。


「……、ごめん。嫌な言い方して」


 うんざりしたこちらを、すぐに察したのもさすがと言うべきか。電話越しに深呼吸が聞こえた。


「気にしないでよ」


 僕の返答はとても社交辞令的なものだ。そして僕は、いつの間にか自分自身が守りの姿勢をとっていたことに気づく。

 僕は言葉に、自分の感情を反映させないようにしている。
 数ヶ月ぶりだけれど僕への勘の良さは失っていない。相変わらずな彼女を前に、僕は意志を含んだ言葉を発するのが怖くなっているようだった。
 のことだから、そんな彼女に臆する僕の内面すらも伝わっているかもしれない。顔の見えない彼女が、今どんな表情をしているのか。知りたいような知るのがまた恐ろしいような。どうにか恐怖は好奇心に勝てている。


「あの、それで、今日なんで突然連絡したかというとね」
「うん」
「あのね、最近家の中を色々整理しててね」
「そう」


 相づちは1ターンをごまかすためのもの。ああ本当に僕らしくない。弱気になっている。


「そしたらダイゴさんの持ち物が出てきたんだ」
「……、僕の?」
「うん。置きっぱなしにしてたもの、あるでしょ?」


 そう言われても、が見つけた僕の持ち物というものが、僕にはどうにも思い出せなかった。別れてから幾度かはのこと、の家にいた時のことを思い出した。けれど彼女の家に置いていってもう取りに行けないものを思い出し、惜しんだ覚えは特に無かった。

 しかし。元恋人の荷物のため連絡をくれるとは。別れた男にも向けられるの律儀な一面を新たに知ってしまった。


「別に捨てても良かったのに」
「わたしも最初はそう思ったんだけど。でも捨てにくいものもあって、勝手に捨てたら後味悪くなる気がしたんだ。だからどうにかして返したいなって、思って……」


 ぎこちなくなってしまった間柄の人間に連絡をとって、面倒じゃないのかなぁと思う反面、の気持ちは理解できるものだった。

 今はこの有様でも、彼女と僕はきちんと恋人同士だった。もう元には戻らないとしても、未だ愛着のようなものは確かに存在している。
 もし僕の持ち物の中にの所有物があったなら、僕は割り切って捨てたりはできないだろう。決して相手への思いやりではなく、単に僕の心が整理されていないために。
 そしてそれがたとえば自分を勇気づけたり、生活に便利なものだったら、そのまま手元に残しただろう。


「ダイゴさんの家か、どこかに送っても良いんだけど」
「取りに行くよ」


 僕の心は片づいていやしない。だから気づけばそう答えていた。


「いいの? 面倒かな、と思ったんだけど」
「ちょうど暇してるんだ」
「うん、分かった。でもわたしの方がちょっと忙しくて。時間合わせられそうにないんだ。だから家の鍵、開けておくね。勝手に入って良いから」


 は家へ入ることをごく軽く許可してくれた。それが彼女にとって特別な意味を持たないとしても、何気なく直接会わないでいられる方法をとられてはいるとしても。僕は口元がゆるむのを抑えられない。


「ありがとう」
「こちらこそ。じゃあ分かりやすい場所に置いておくね」


 そう最後に伝えてきた呼吸。
 それだけは壊す前の僕たちがそのまま続いてるみたいだった。一瞬息を忘れた僕の心をは知らないだろう。

 彼女の声が切れると急に鼻がつんとした。涙の気配というより、ひどく懐かしい匂いを思い出したからだった。声だけで、僕の感覚にしみこんだ彼女が簡単によみがえる。ポケナビを握る僕の手首。そこから、なぜか彼女の匂いがした気がした。手首から彼女が香っても、決しておかしくない距離にいた人だった。

 すぐ駆けつけるのはかっこわるい気がして、2日という時間を置いてから、僕は彼女の住むシダケタウンに向かった。






 シダケタウンの風は相変わらず柔らかい。上から下までスーツをちゃんと着ていても、頬に風が当たれば、あらがいようもなく当時を思い起こされた。

 数ヶ月前、別れの契機を作ったのは僕だった。もう元の他人に戻ろうと僕が言い出したのだった。
 関係に最初のひびを入れたのは、些細なことだった。僕なしの時間も平気どころか友達と心底楽しそうに過ごしていた彼女を、知ってしまったからだった。
 笑顔を弾けさせていた彼女。特に僕は彼女にとって必要不可欠でも何でもないことに気づき、それどころか、彼女の本来在る居場所というものを見てしまった気がしたのだ。


「もう、やめようか。最近一緒にいる意味が感じられない。君は自由にやりなよ。僕も、自由にやる」


 伝えたのは、こんな言葉だったと思う。

 なんとなく“そういう時期”にさしかかっていたのはも感じていたと思う。実際に、僕の提案を彼女ははね除けなかった。反論すらしなかった。
 妙に聞き分けがよくて、あっさりと了承までされてしまったので、僕たちってこんなものかと驚いた。僕の一言であっさりと、恋人関係は解消されたのだ。
 そのあっけなさを思い出しては今も考える。彼女にとって僕はなんだったのだろう。懐かれている自覚はあったけれど、それ以上の感情を分かりきる前に、結局終わってしまった。

 そうして驚くほど簡単にを手放すことになった僕へ、ミクリは言った。相変わらずだなと。
 人が羨む完璧に近いものを手に入れているのに、ほんのちょっとのことで全て台無しにしてしまうところが、僕らしいと。


 二度と来ないと思われたの家のドアノブ。触れてひねる時は、心臓が縮こまって痛かった。けれど彼女の言葉通りちゃんと鍵は開いていた。


?」


 念のため呼んでみた。しばらく待ったけれど返事は無い。安堵のため息をついたけれど、残念な気持ちもあった。
 別れた後のがどう変化したか。純粋に気になっていた。古典的に髪を切っているのか、清々したという顔をしているのか。たとえ悲しげなでも晴れやかな笑顔でも、ひとたび、見てしまえば、僕はますます頭を重くもたげるだけだというのに。

 僕宛の荷物と思われるものは玄関のすぐ横い置いてあった。しっかりとした紙袋が置かれていた。
 入ってすぐ。確かに分かりやすい場所だ。それを見下ろし、僕はなんだか悔しい気持ちに見舞われていた。
 本来なら、僕はその荷物を手にとって今すぐ回れ右をしなければならない。だからこそが紙袋を置いたその位置が、まるで境界線のように感じた。これから先は入るなと、限定された気がしたのだ。僕は紙袋を持つと、彼女の領域を犯す意志を持って、奥の部屋へ踏み入った。

 主人不在の彼女の家は暗く、ひんやりとした空気に満ちていた。僕は、いやな汗をかいていた。なぜなら久しぶりに訪れた彼女の家はがらんと整理されていたからだ。整頓の範囲を越えて、ここじゃ生活できないまでに。

 積み重なった段ボールと、空になった棚たち。フローリングの日焼け後が家具のあった場所を教えてくれている。
「あのね、最近家の中を色々整理してね」とは言っていた。その真の意味を僕はようやく理解した。引っ越し、旅立ち。どちらだろう。両方の可能性もある。確実なのはがシダケを出て別の場所へ移ろうとしていることだ。

 まだ残されているイスへ腰掛けた。さみしい部屋で、なぜか僕の咽頭は笑っていた。

 虚しさが襲ってくるその時間の中で、本当はは、ものすごくタイミングの悪い子なんじゃないかと考えた。
 僕に旅立つことを知られたのは良くないことだった。彼女なりに知らせないつもりでも、結果的に僕は気づいてしまった。

 僕の荷物を捨てなかったことも。間違いだったと思う。
 紙袋の中身が何なのかは持ち上げた時に気がついた。日用品と、そして石だ。僕が集めて、彼女の家にあるのが似合うからと貯め込んだ石を、は捨てられなかったらしい。

 無関心では無かった。けれどどんなに石を見せても、それほどの興味を示さなかったが石を大切にとっておく理由が僕には分からない。日用品だってまた新しいものを買えば良いだなんて、思わなかったんだろうか。

 君は、僕の細かな気分の浮き沈みも、決して軽率に扱わなかった。ずっしりと重い荷物はその結果なのかなと思うと、笑いはさざなみのように引いていった。

 僕の持ち物に、どんなものでも代わりが無いことを彼女は知っている。
 僕は分かっていなかったなと思う。それを切り離すことで起きる事柄について。彼女の代わりがいないことは知っていたというのに。

 うっかり運命を信じるような不思議な力で僕の中に入り込んで、弱い部分が僕にあると教えた。そんなが物理的にも別世界の人になったなら、僕はついに独りになる。漠然とそう思う。
 僕は分かっていなかった。彼女の代わりがいないことは知っていたというのに。

 落ち着きたくて、僕は自分の指輪をさする。

 やっぱり。旅立ちを悟らせた君を初めて、憎らしいと思った。かわいさを揶揄するわけじゃなく、本気で恨めしい。今なぜ、こんなに隙だらけなのだろう、彼女は。
 僕さえ逃げなければ彼女に会って、声をかけることが出来るじゃないか。そして僕は逃げないだろう。このがらんとした部屋の中から。

 次に会えたら、今度は僕から繋がっていけるだろうか。歩み寄って、隣に座って、彼女を抱き寄せて僕の揺れの中に引きずり込めるだろうか。
 大丈夫。決してひとつに交われないことに、意味がある。互いに生きている世界や居場所を越えてしまうことに、価値がある。
 僕の持ち物を捨てなかったのだからと、どうしても期待してしまう。はまだあの不思議な力を僕に向けてくれるだろうかと。その時はどうかまた、あの少し爪の出た指先を使って、僕を一人の人間に落とし込んで欲しい。