※マツバさんが盗みを働くお話なので、イメージが崩れる!という方は読まないでください。






 雨の日は憂鬱だ。水に打たれるエンジュの姿や洗い流される空気は快いと思うのに、その雨だれに結びついて離れない嫌な記憶のせいで、気分は否応無く憂鬱の中へ落とされる。

 家の戸を開ける。空から落ちる粒の水。外はざあざあ降りだ。幼い頃から一緒のわたしのロコンも、わたしの足下から不安げに雨雲を見上げた。
 この家を出ずに済むならそれが一番良い。雨傘を差さずに済むのならば。


「……ロコン、ボールに戻って。もう行かなきゃ」


 ほのおタイプのこの子を雨の中連れ歩くつもりは無い。不安げにしっぽを揺らす彼女を、わたしは強引にボールの中へ戻させた。


 いくらわたしが雨の中歩きたくなくても、今日中でなければならない用事がいくつかあった。同じエンジュに住む知人への届け物、今晩と明日必要なもののお買い物。それと、ポケモンセンター。

 わたしはロコンにあまりバトルをさせない。バトルで強いかどうかより、彼女がどれだけ長く一緒にいてくれるか。そちらの方がわたしにとっては重要だった。けれど昨日、家の周りに迷い込んだゴースとロコンの間でバトルになったのだ。
 いつもわたしに着いて歩くおとなしいロコンは性格を変えたようにゆうかんに立ち向かい、無事にロコンはゴースを追い払った。勝利を勝ち取ったロコンは得意げであったけれど、決して無傷だったわけじゃない。それにポケモンが勝手に戦ってしまった、こんなのはトレーナーとしては恥ずべき事態なのだろう。
 雨の中出かけるのは嫌だ。けれど未熟だとしてもトレーナーとして、ロコンを一刻も早く直したいという気持ちだった。


「それではロコンをお預かりしますね」
「はい、お願いします……」
「大丈夫、すぐに元気になりますよ」


 ジョーイさんの微笑みに、わたしは深く頭を下げた。
 いつもと変わらず運営を続けるポケモンセンター。でも、そこにいる人々も物静かな様子が、雨天であることを物語っていた。

 元気になったロコンを一番に迎えたい。わたしはポケモンセンターのソファに腰かけ、持ってきていた本を開いた。窓越しにかすかに伝わってくる雨粒が砕ける音を聞きながら。

 待ち時間はそう長くはなかった。すっかり元気になったロコンの入ったボールを握り、これでようやく家に帰れると息を吐く。
 ロコンが元気になって良かった。ジョーイさんにもう一度お礼を伝え、出口へと向かう。雨はまだ降り続いている。傘を手に取ろうとしたそこで、わたしは気づく。
 傘立てに置いたはずの、わたしの傘はぽっかりと、消えていた。






 この町、エンジュシティのマツバさんと言えば有名人だ。エンジュに住んでいて彼の外見や肩書きを言えない人はいない。千里眼の持ち主でありながらこの町のジムリーダー。この地方一番のゴーストタイプの使い手。
 ゴーストタイプのポケモンに囲まれているのだからどんな気味の悪い人かと思えば、マツバさん自身は、垂れ目が顔立ちに優しい甘みを加え、立ち姿に不思議な色気のある。彼の纏う泣きたくなるような線香の香りが、死の存在を思い出させる。そんな美しい人である。そういった意味でも、マツバさんはエンジュ内外で有名人らしかった。

 ただわたしにとってのマツバさんは、特別なトレーナーでも特別な能力の持ち主でも何でもない。エンジュシティのマツバさん。彼は幼い頃から、わたしの傘を盗む人であった。

 見知らぬ傘ばかりが並ぶ、ポケモンセンターの傘立て。消えたわたしの傘。それはここにマツバさんが立ち寄ったという証拠である。


「来てたんだ、マツバさん……」


 そこに置いたはずの傘がいなくなる、一番古い記憶はななつの頃だ。気づけばもう10年以上も続いて、彼に傘を盗られてしまうのにはもう慣れっこだ。
 わたしは自分の鞄から使い古した折りたたみ傘を取り出し、差して雨の中に出た。








 ほぼ同年代で同じ町で生まれ育ったというのに、わたしとマツバさんの面識はほぼ無い。町内会では彼は何かとかつぎ上げられるし、同じ町で暮らしていればすれ違うことくらいは度々ある。マツバさんもわたしの顔と名前と、どの家に住んでいるかくらいは知っていることだろう。
 けれど幼い頃から、わたしとマツバさんが交わることは無かった。
 まず、同じ町に住んでおきながら、わたしとマツバさんは一緒に遊んだことが無い。お家の修行に打ち込むマツバさんと、近所のこどものわたしは、草むら散策、裏山探索、川遊び、ポケモンバトル。そんなことから始まって、エンジュシティの季節の移り変わりすら、分かち合ったことがない。マツバさんは、不思議なくらい縁の無い人で、やがて大人になった今もそれは変わらない。

 けれど、それに気づいたのはいつだっただろうか。家以外の傘立てにふと置いた、わたしの傘がよく無くなってしまうのだった。わたしが傘を無くしてしまう回数は友達と比べ、明らかに多かった。友人たちの傘に紛れるように置いても例外なく、わたしの傘だけが忽然と姿を消してしまうのだ。
 傘だって安くない。無くして、新しい傘を手に入れて、また無くして。そんなことを繰り返せば両親は眉をしかめ、なぜ物を大切に出来ないのだとわたしを叱った。だから雨期は毎日、傘が無くなることに怯えていた。

 エンジュの町で、一番特別なこども。マツバさんがわたしの傘を盗んでいると知ったのは偶然だった。
 まいこさんのところで舞を習っていたわたしは、その日、お母さんからのお稽古中にも関わらず家へと呼び出された。親戚のおばさんが急に倒れたらしい。中途半端な時間に稽古場を抜け出すと、傘立ての前にマツバさんは立っていた。

 とても静かな動作だった。マツバさんは、無数に傘の刺さる中にまっすぐに手を入れ、わたしの傘を抜き取ったのだった。
 ほとんど言葉を交わしたことのないマツバさんがわたしの傘を盗む現場、わたしは息を飲んで固まっていた。驚いたことに、その時、マツバさんと目が合った。マツバさんは気持ちの読めない静かで暗い紫の目で、わたしを一瞥した。今持っている傘の持ち主がわたしであると気づいていないのかもしれなかった。ぱんっ、と傘の骨が延び、開かれた布地からわずかな水滴が跳ねる。言葉は交わさなかった。マツバさんは表情を変えず、そのまま私の傘を差して、雨の中帰っていってしまった。

 傘が無くなってしまう理由を知ることが出来て、納得は、空しさと共に訪れた。
 むしろわたしの心を支配したのは、およそ久しぶりに間近で見た、マツバさんの姿だった。
 わたしの傘を盗んだのは、同年代の中では、一番大人からの評判の良いマツバさんだった。それを知った夜の、心臓の音がうるさかったこと。マツバさんのことをほとんど知らないまま、傘を盗むという、多分どんな大人も知らないマツバさんをわたしは知ってしまったのだ。そのことが、頭の中を占めて止まなかった。


 マツバさんはただ無差別に傘を盗んでいたわけでなく、わたしの傘を狙っていたと確信したのは、12才の時だった。よく覚えている。少女でしかないわたしには渋いけれど、ロコンの毛並みによく似た、えんじ色の、お気に入りの傘がマツバさんの手の中にあった。わたしは、盗まれた時のために用意していた折りたたみ傘を差していた。

 雨の中、わたし達は、道のあちらとこちらに立っていた。
 マツバさんはわたしを見て、少し驚いた風に表情を変えた。恐らく傘を盗んだのに、わたしが傘を差していたからだろう。わたしはそんなマツバさんに、驚いていた。何に驚いたかと言うと、マツバさんはわたしを知っていた、ということだった。村人Aや町娘Aじゃなく、紫の瞳はエンジュシティのを確かに見留めた表情をしていたのだ。
 それはわたしの傘だ。そう凝視するも、道のあちらで、マツバさんは微笑した。そこに罪に意識や謝罪の気配はなく、優しげな彼に似合わない、危険な香りのする笑みだった。わたしは恐ろしい気持ちで立ちすくんだ。彼の手にあるのは確かにわたしの傘なのに、それもお気に入りの傘なのに。こうして何も言えなくなる情けないわたしだから、マツバさんの嫌がらせの標的になったんだろうと思えた。
 大胆不敵にもマツバさんはわたしの、ロコン色の傘を差し、堂々とわたしの横を通り抜けていった。








 そこに置いたはずの傘がいなくなる。一番古い記憶はななつの頃だ。気づけばもう10年以上もわたしは、マツバさんに傘を盗られてきた。その度に、持ち物が無くなったことを悲しみ、落胆した。大した繋がりの無いマツバさんに、なぜか嫌われてしまったことが心に重くのしかかっていた。

 ポケモンセンターからの帰り道。気づけば、道の向こうにマツバさんが立っていた。偶然だ。偶然でもなければ顔を合わすことは無い、マツバさんとわたしはその程度の間柄だ。
 マツバさんは、先ほどわたしがポケモンセンターで無くした傘を差していた。一応柄も骨の数も女物なのに、マツバさんは気にせず、わたしの所有物で雨をしのいでいた。

 12の頃の記憶と重なる状況で、またもマツバさんは微笑した。子供の頃は恐ろしいと思えた笑みが、今は、その甘みのある顔にしては苦い笑顔に思えた。
 堂々とわたしを通り過ぎようと近づいているマツバさんに、わたしは声をかけた。


「マツバさん」


 彼に自分から話しかけたのは初めてのことだった。マツバさんとの会話と言えば、子供の頃、両親に言いつけられて挨拶したくらいのものだ。そうでも無ければ天と地のように、交わることのない人だ。
 雨足は午前に比べればだいぶ弱まっていて、震えたわたしの声でも、無事にマツバさんに届いたようだった。
 マツバさんは立ち止まった。傘から見上げた、彼の顔。そこに笑みは無い。立ち姿はそのままなのに、マツバさんの顔は仮面がぽろりと落ちたように、表情に急に子供っぽさを醸し出していた。急に、わたしは彼とわたしの幼少を思い出した。

 同じ町に住んでいたのに彼と分かち合うような思い出は無い。それでも心の中には数えるほどだがマツバさんの記憶があった。遠くから見たマツバさん、大人に囲まれしゃんと背を伸ばしたマツバさん、わたし達とは明らかに一線を画す笑い方を身につけたマツバさん、傘立てからわたしの傘を抜き取ったマツバさん、わたしの傘を隠しもせず使い続けるマツバさん。

 こんなこと、おかしいと思われるかもしれないけれど。わたしはこの盗人に、心を奪われていた。
 どうして傘を盗むのか。なぜわたしが嫌いなのか。たくさん考えた。マツバさんのことなら知らないことの方が多いわたしに答えは出せなかった。
 けれど、嫌なことがあって、傘を盗むことでマツバさんが鬱憤を晴らしているのならそれで良いと、いつしか思っていた。目に障る女の子へ嫌がらせをする、それが他者からどう非難されようとも、マツバさんがしたいことなら、良いと思っていた。

 同じ町で彼の存在を感じ取れば動悸は生まれ、そして私の傘を堂々と盗んだ記憶の中の彼は、寝ても覚めても、頭をぐるぐると駆け巡った。彼に悲しい思いばかりさせられてきたというのに、マツバさんはわたしの心を支配していた。

 なぜわたしの傘を盗むのと四六時中この人のことばかり考えてしまう苦しいこの気持ち。それは、恋とそう遠くないと思えた。


「わたしはマツバさんのこと、好きですよ」


 伝えたのはなんてことの無い、おろかな告白だった。

 傘を盗まれることはもう、辛くなかった。マツバさんのことを好きになってしまえば、彼に捧げられるのなら、傘くらい何度だって買おうと思えた。
 大人からは絶賛を受け、町の皆から、いや多くのポケモントレーナーから尊敬の眼差しを受け、その千里眼の為に畏怖を集めるこの人が、わたしの傘相手には手癖の悪さを見せ、弱みになり得るような悪事を働いてしまう。恋心か何かよく分からないものに狂ったわたしには、そんなマツバさんこそが、顔立ちよりも甘いものに思えた。

 けれど、長年狙って傘を盗み続ける、いやがらせの対象に、彼が好意など抱いているわけがないのだ。そればかりは胸に冷たく凍みて、わたしは傘を握りしめ、彼の横を過ぎ去った。

 雨の日は憂鬱だ。雨だれに結びついて離れない、この町で一番きらめく人に恋をしたという悲しくも狂おしい感情が、わたしを染めあげるから。