※マツバさんが盗みを働くお話なので、イメージが崩れる!という方は読まないでください。






 僕の中にある歪み全てを吸い取ったかのような恋だった。

 同じエンジュシティに住む少女——恋に落ちた時、僕は少年であり、同じく彼女はまだ少女だった——を遠くから見つめ、優しい笑顔を自分にも向けられたいと思った時から、恋は始まった。

 話をしたことはほとんど無かった。両親に連れられて彼女が挨拶をしに来たことはあったけれど、言ってしまえば挨拶以上の言葉を彼女と交わしたことが無い。
 僕と彼女は、同じエンジュシティに生まれ、育ちながら、天と地のように交わらない関係であった。僕は同年代の子供と遊ぶことよりも優先すべきものが多くあったし、僕自身、一時の楽しさより未来でホウオウに認められることこそが命題だった。そんな風に僕から地域の子供とは積極的に混じることは無かったし、そんなよそよそしい僕の空気を読みとって、誰かが僕を遊びに誘うことは無かった。

 僕には優先すべきことがあるのだから、僕なしで盛り上がる子供の集団に焦がれたことは無かった。けれどその集団に、ひときわ優しい笑みを添え続けるに、気づけば僕は目を奪われていた。
 僕はなんとよく、を観察していたことだろうと思う。丁寧に頷き話を聞く様子、やせいのポケモンの気配を感じるとどちらかと言えば恐怖で動けなくなってしまうところ。話したことは無いけれど、それでもという女の子は嘘の無い人柄で、見ているだけでも彼女についての多くが掴み取れた。
 気は弱いみたいだけれど、底抜けの優しさ。僕は彼女と何がしたいわけでも無いけれど、笑顔を向けられたいという憧れだけははっきりと、持ち続けていた。

 は人間の中で唯一焦がれる存在だった。年上を敬う気持ちや、後輩を見守る気持ちと全く違う。他の人々にここまでの関心を示すことなんて無かったからか、僕のに対する執着は、他の人が抱くそれより黒く、醜いものだったように思う。
 同じエンジュシティという空間で、同じ空を見上げ息をしている。訪ねようと思えば訪ねられる位置に彼女と彼女の家族の家はある。そうは分かっていても、僕はいつも日陰から日向を見つめる心境でのことを思っていた。いつか僕達が友達になるだなんて絶対にあり得ないとしか思えず、叶うはずがないと思えば思うほど、気持ちが恐ろしく濁っていくのを感じていた。そしてそんな僕は決して彼女に好かれることは無いのだろうと確信した。
 けれど関わることなど無いのだから、僕の気味の悪い心を彼女が知ることはない。その事実ばかりは僕を救った。

 けれど、僕の幼さ故だろうか。およそななつの頃、僕は初めての盗みを働いた。
 無数に刺さる傘の中から、彼女のものを見つけるのは簡単だった。僕の能力が囁くのだった。これは、彼女が触っていたものだと。に触れて見たかった。その気持ちがねじ曲がって、彼女の持ち物に触れたいという気持ちになっていた。
 そっと手を滑らせたプラスチックの持ち手。雨天の寒気で、彼女のぬくもりは無いに等しかった。それでも今までで一番を近くに感じ、その時に僕の中でくすぶる心が少し溶けだして、空に消えていくのを感じた。
 気づけば、僕は傘立ての中からそれを抜き出していた。

 それを屋外に持ち出せば、盗んだことになると、頭では分かっていた。盗めばどうなるか、それも頭の中には浮かんでいた。
 傘立ての前に戻ってきたあのは、きっと困るのだろう。自分の傘が無いと。それで、見間違いかもしれないと必死になって探すんだろう。探しても探しても見つからない、見つからない限り帰れない彼女は、直に情けなく顔を歪めるだろう。涙も、こぼすかもしれない。結局傘を見つけられなかった彼女はどうするんだろうか、雨の中、傘を差さずに帰るんだろうか。

 僕は気づけばその傘を差して、自分の家へと帰り道をたどっていた。

 傘を盗むこと。それが行けないことだと自分に言い聞かせるために、困り果てる彼女を想起したというのに、むしろ想像の中の彼女は僕を駆り立てた。
 僕が傘を盗んだせいで、雨に濡れて帰るのだと思うと、心がすく思いだった。
 欲しいと願ったの優しい笑顔も、僕に向けられないのならば、失われても構わないと、その時の僕は思っていた。ポケモンのこと、ホウオウのことばかりに支配されていたその頃の僕の倫理観は、他との関わりが薄かったために、お世辞にも褒められたものではなかった。

 その後、「もう傘を無くしたら次は買ってあげないからね」と両親に叱られ、目を赤く腫らしたを見かけた時は、僕の行動が行き過ぎであると自覚した。
 けれど、一度盗むことを覚えてしまった僕の手は、もう止まることはなかった。僕は傘を盗むことでしか彼女へ関わる術を知らなかったのだ。

 そう僕は傘に興味があったわけじゃない。傘を盗まれたが少し惨めな目に合うのが、心地良かっただけだ。全くの逆恨みだが、決して手に入らない彼女へ、小さな仕返しが目的だった。
 だから盗んだ傘は、しばらくは家の中に隠しておいて、ほこりが被さる頃になればまとめて捨てた。
 女の子にしては渋い、えんじ色の傘だけは、ゲンガーが気に入って差して遊んだので今も家に置いてあるが、その他はもう、処分済みだ。

 僕が傘を盗む現場を彼女に直接見られたことがある。彼女が舞のお稽古を何時から何時まで行うか知っていた僕は、雨の日と彼女のお稽古が重なると、必ず出かけて、彼女が稽古に勤しむ中、傘を盗んだ。
 けれどその日は、いつもより早く帰ることになったらしいが、ちょうど傘を引き抜いた僕を見つけた。
 不思議なことに、見つかったからやめようとはならなかった。それどころか、が知ってしまったことに心地良さを感じていた。という子はほとんど僕を知らないと思うけれど、これで覚えることだろう。傘泥棒の男の子、と。

 どうせ叶わない気持ちなのだ。彼女から向けられる感情が嫌いでも、大嫌いでも、この恋心が叶わないという点では変わらない。
 だから僕は今日まで傘を盗み続けた。


「マツバさん」


 こうして、僕を目の前に名前を呼ばれたのは、ほとんど初めてだった。たまたま通りがかったポケモンセンターで久しぶりに彼女の傘を見つけたので、さっさと盗んでしまった帰りだった。僕とは道のあちらとこちらで対峙した。
 でも今更隠すことも、臆することも何もない。僕は笑みを貼り付けて、道のあちらに立つ彼女の横を通り過ぎようとした時、呼び止められてしまった。

 もう何年も、僕からの嫌がらせを甘んじていた彼女が行動に出るのは初めてのことだった。
 何も恐ろしくは無かった。幼さ故に抱いてしまった恋は未だに僕の胸で息をしている。どうせ叶わないその気持ち故に傷つくことにはもう慣れた。
 だから彼女に何を言われようとも、なんと罵倒されようとも、平気だと思っていた。


「わたしはマツバさんのこと、好きですよ」


 響いた声。雨傘の下には、少し歪だけれど、笑顔があった。僕がずっと、手に入れたいと思った頬の赤さがそこにあった。

 彼女はいったい何のつもりで、そんなことを言ったんだろう? そして彼女はいつから僕の気持ちを知っていたんだろう。だってそうとしか思えない。
 耳がおかしくなっていなければ、彼女は僕を好きだと言ったけれど、彼女の言葉をそのまま信じるほど僕は愚かじゃない。
 彼女は僕の恋心を知った上で、僕への復讐、長年傘を盗まれたその恨みから、僕の気持ちを弄ぶために「好き」と言った。それ以外の理由なんて考えられない。

 だって、この恋は叶わない恋だ。信じられるわけが無い。こんな僕を好きだなんて。
 恐ろしく好きだけど、知らない部分も多いが、こんなやり方で復讐してくるなんて、思いもしなかった。

 折りたたみ傘を握りしめた彼女が、僕の横を通り抜けて行く。
 彼女の傘から跳ねた僅かな水滴が、僕の頬を濡らした。

 彼女の去っていった後で、僕は雨のなか呆然と立ち尽くし考えた。仮に、たとえ、の言葉が本当だとしたら、その方が悲しい現実だった。
 どうして僕なんかを好きになったんだろう。気持ちが叶わないならいっそ嫌って欲しくて、僕は傘を盗んだというのに。