私の仕事が終わった頃に。そう時間指定されたて、フロアの人間から届けられたメッセージ。内容はこうだ。「エントランスで待っている」。
「それだけ言われても……。誰から?」
そう問いただしたのだけれど、メッセージの運び手は口を割らなかった。それも指定をされているらしい。発信者の情報はいっさい伝えないように言われたと、フロアの彼は、発信者から握らされたというチップをチラツかせて笑った。
仕事終わりに人と会うのはあまり好きでは無い。朝からキッチンに立ちディナーまでやり切れば、髪は乱れるし汗もかく。そんな状態で何の用件か分からない相手に会いに行くなんて面倒極まりない。こっちはヘトヘトなのだ、相手によってはすっぽかしてしまおう。そう思いながらホテルの正面に回りエントランスをのぞき込み、発信者の正体を知り、驚いた。
エントランスのソファに深く沈んだ様子のズミがそこにいた。ソファの中に体の大部分が隠れた細身の男の目は虚空、あるいはエントランスの装飾を見つめていた。
しかしそこはズミ。黙っているだけでも眉間にしわが寄り、近寄り難いオーラを放っている。しかも以前会った時のものと同じ灰色のコート、その襟がズミの口元を隠して、眼差しの恐ろしさばかりが際だっていた。
今夜わたしを呼び出したのがズミであるなら話は早い。無視してさっさと帰ろう。あの夜のことは無かったことにしたい。くるりとターンをしてミアレの冷ややかな夜風に身を投じた。働いた後の熱はまだ体を巡っている。その熱で夜の中を強行突破するつもりであったのに、気づけばズミが、私の後ろに立っていた。
「貴女がそこまで冷たい人間だとは思いませんでした」
差し込まれた冷水のような言葉。そろそろと振り返ると、非常に険しい顔をしたズミが立っていた。ホテルの光を背負って威圧的に言われると、ズミが柄にもなく支配者のように見えた。
先ほど遠くから見たあのしかめっ面にはまだ余力が残されていたらしい。まだ、顔の溝が深くなる。
「わあ、ズミじゃん」
気づけば狙った以上にわざとらしい声が出ていた。
あの夜のことは、無かったこと。私は自分の家に帰り自分のベッドでヒノヤコマを抱いて寝た。それ以外の場所で寝た夜なんで存在なんかしてない。そのつもりで私は続ける。
「久しぶり。元気だった? どうして来たのよ」
「………」
眉尻がつり上がって崖のようだ。
そのまま引き締められた唇が歯をむき出してこちらを罵倒してくるかと思いきや、ズミは嫌に冷静に目を細めた。
「なるほど覚えてないと」
「何の話? 覚えてないってなんのことー?」
「良いんですか? 最後の一回は避妊しなかったのに」
「ちょっと!」
今、なんて言った? ズミは嫌いだ、大嫌いだ。けれど今の言葉は聞き流せるほど軽い言葉じゃない。現実に及ぼす影響が大きすぎる。
指先、いや全身が冷たくなっていく中、ズミは先ほどよりは眉を緩めて言った。
「嘘です」、それから「やっぱり覚えていましたか」と。
その後のズミは、私の少し後ろを付いて歩いた。位置取りとしては私が前を歩いていたが、主導権が私にあったわけではない。ズミは私へプレッシャーをかけ追い込むように私を誘導して、ひとつのお店へ誘導した。牧場で、トリミアンに追われて小屋に戻るメェークルになった気分だった。
大丈夫。このお店は22時まで。朝まで飲ませるようなお店じゃない。店頭の看板で閉店時間をチェックし、私はズミに追い立てられるまま、誘導されたカフェに入った。
向かいの席に座ったズミは、難しい顔をしたまま何も喋らない。それどころか表情は思い詰めていて、ここが水の中なら真下に沈んでいきそうだった。
対する私は怒りでふつふつと沸いている。それでも、口火を切ったのはズミだった。
「どこまで覚えているんですか?」
「あの日のこと?」
「はい」
あの日、ズミが冷たい手を重ねてきた日。彼を皮肉って早々にさよならをした後の記憶は、断片的ながら残っている。
あの後、振り切ったと思ったら夕方にまたズミと再会したこと。何かとひどい言葉を浴びせるも後をついてきて、私が折れて一緒に食事をしたこと。料理が美味しく、いつの間にか互いに研究目線で味わっていたこと。相手がズミと言えども、共通の知り合いや思い出話をするのは楽しかったこと。だけど早朝起きればああなっていた。
怒りで、テーブルクロスの上に置いていた手が震えてしまう。
「思い出したく、なかったのに」
「それで。どこまで覚えているんですか」
「お酒、飲み初めて、メインの料理は覚えてる、デザートも出てきたところを覚えてるけど、何だったか覚えてない……」
「そうですか」
「男として最低だと思うけど。お酒、どれだけ飲ませたのよ」
「止めなかったらどんどん飲んだのは貴女です」
「信じられない。……今日は何のよう? なんで来たのよ」
「貴女がお金を置いていったから」
「はぁ?」
あの部屋を出る時、お財布からいくらか出して置いていったことを言っているらしい。
「お金を置いていくとは。あんまりです。とてつもなく腹立たしかった」
「なんで? もらっておけば良いじゃない。ズミにとってははした金だろうけど」
「あそこは私の家です。ホテルじゃない。それに貴女のことですから、縁切りのつもりもあったんでしょう」
もちろん、そのつもりだった。変な言いがかりをつけるなよ、どうやら私は間違いを起こしたらしいけれど次はないぞ。言葉を添えないで残したお金はいくらか牽制になると踏んでのことだった。
「貴女は昔から私を嫌悪している」
「よく分かっていらっしゃる」
「……忌まわしい思い出として貴女に残りそうなら、それで私は満足したんだと思います。すっかり忘れ去られるのだけは、我慢なりません」
「そんなの私の勝手でしょ」
「忘れさせない、と思うのも私の勝手です。あの後、デザートを食べ終わった後、まあ貴女はずいぶん酔っていましたが」
間髪入れずズミは私が捨ててしまった記憶の先を語り始めた。私は汚物を見る目でズミを睨んだがこちらの気持ちなどどうでも良いらしい、ズミは淡々と語り続ける。
「いろいろ話してくれて。結構、上機嫌で、目の前にこのズミが座っているのも分からない様子でしたが、貴女、あんな可愛らしい笑顔も出来るんですね。様々な会話の中で貴女は、私の店に着ていく服が無いと言いましたね。
じゃあ私が買いますよ、一着くらい買って差し上げますよと提案したら貴女は一体何歳なんだというくらい嬉しそうな顔をして、私を引っ張っていったんですよ、ブティックに。アルコールの匂いさせて、私達は悪い客でしたね。でも悪くは無かった、貴女の服の趣味や好きな色を初めてきちんと知りました」
耳を疑うような言葉が、次から次へと発せられる。
中でもズミが私の笑顔を可愛らしいと言ったことが驚きだ、私がズミにそう言わせるような笑顔でいたことも。記憶を無くすレベルだとは認識していたが私は相当酔っていたらしい。
「私もいろいろ語りました。覚えていないだろうから言います」
「いいよ、言わなくて」
「言います」
制止は軽く流されてしまう。
「久しぶりに見かけた貴女がショーウィンドウをのぞき込んでいて、それが男へのプレゼントを見繕っているように見えたから、私は焦って、手を触ってしまった。
貴女が私を有名人だ優等生だと嫌みを言うので、私が名をあげればあげるほど、貴女にとって忘れられない人間になっていくかと思われた。私や私のお店が有名になった方が、貴女に忘れられずに済むとそんな下心もあったんだと教えました。
元から貴女が好きだったということも伝えましたよ」
「嘘!」
さすがにそこには強く口を挟まずにはいられなかった。
「全く良い反応ですね。あの時は“私はズミのこと嫌いだけど”と一蹴されたのに」
「いつから……?」
「元から。かなり初めの方から」
「っなんで? どこにそんな、好ましい要素があったのよ?」
「貴女は私を毛嫌いしていましたが、遠ざけたり、つまらない蔑みはしなかった。食ってかかってきて面倒でしたが、暗に私の実力を認めているんだと思えました。真正面から堂々と私を嫌ってくれたのは貴女だけだった。清々しかったですよ。あの時代、修行は辛かった。けれど私は楽しかった」
「ズミの楽しそうな顔なんて見たこと無い……」
「真剣でしたから。だからこそ楽しかった。それに、特別な偶然など無くとも視界に貴女が入り込む状況が幸せだったと、今なら分かります」
「まあよくそんなこと恥ずかしげもなく言えるね」
「今は怒りの方が勝っていますので」
「何よ、怒ってるの? お金を置いていった事がそんなに気に食わなかった?」
「違う。貴女が忘れるから。お金もそうですが、服まで置いていって全てを台無しにするから!」
今まで不機嫌ながら静かであったズミがいよいよ声を荒げる。ズミから垂れ流される情報に私はすでに萎縮済みだ。ズミの瞳孔が開いていくのを恐ろしい気持ちで見守るしかできなかった。
「ヤったとかヤらなかったとか、そんなことつまらない話じゃない! 酔った貴女はふらふらと酷い足取りで、水路に落ちそうになるのに、脳がないみたいな笑顔を振りまいて、あの日のこと、忘れられては困ります……」
「ご、ごめん」
前回ズミが私に謝ったことは相当珍しかったのだけれど、私がズミに謝る。これもまたものすごく珍しいことだった。
「少しでもそう思うなら、これを」
怒りを震える息で吐き出し、ズミは鞄からビニールの包みを出した。包みのなかはクリーニング済みのタグがついた洋服だった。私のものではないが見覚えならある。
あの早朝、ズミが脱いだ衣服とともに床に転がっていた。冷たさを覚えるてろっとした素材でできていて、切り替えしから下はすとんと落ちる悩ましい曲線を作る、あのワンピースだ。
「これを、持っていってください。一応、嫌いじゃないデザインのはずですよ。酔ってるとはいえ貴女自身が選んだんだから」
「でも……」
「私の家にあるのは耐えられない。捨てても、かまいませんので。ただ、どうか私の見ていないところへ持っていって欲しい」
威圧的で、嫌みったらしくて、やたら厳しくて、顔が怖い。そんなズミに、懇願されたのは初めてだった。叩いても叩いても折れやしない男が、今自ら背中を丸めている。哀願と言っても良いズミの様子にようやく私は、おぼろげながら、この人が私を好きだといのが陰謀やからかいではなく、事実であると気づけたのだった。
休みは少ないのに、その休みの夜をズミのお店で過ごすことになろうとは、思いもしなかった。いや、これから出てくるのは美味しいと評判の料理なのだから、料理人としての経験値になるのよ。そう自分に言い聞かせるが、どうしようもなくお尻がムズムズする。あの、てろっとした素材の裾が足を擦るのもたまらなく落ち着かない。ズミが買ったというこのワンピースを素面の時に着るのは初めてだった。
ズミの哀願から、一ヶ月は経っていた。彼の店に相応の、着ていく服が今は手元にあり、ダメもとで予約の電話をいれたら通ってしまったのだ。
年単位で予約で埋まっていると聞いていたのに、予約がとれないと聞いていたのに! いよいよズミのお店に行く予定が固まってしまい、私は幸運なはずなのに憤慨してしまった。
飲み物がグラスに注がれ、まもなくズミが現れた。驚きはしなかった。予約で名前が割れているのだ。来るだろうと思っていた。
「2年は予約がとれないなんて嘘じゃない。あっさり入れたわよ」
嫌みを投げかけた先のズミは、すっかり元通りになっていた。あの夜哀願した気配などない、鼻につく男に戻っていた。
「それは貴女が名前を言ったので」
「名前しか言ってないのに?」
「ヒノヤコマを連れてくるという女性から予約が入ったら私に連絡するように言っていたんです」
確かに、連れていくポケモンのことは電話口で伝えていた。ヒノヤコマ持ちのなら、カロスにはそう多くないだろう。
「……あのくそまじめで、中途半端な他人とは関われない。そんなズミが、料理して、ポケモンを育てて、成績を残して、お店を作って、恋までしていたなんて。その器用さが今でも信じられない」
「料理は奥深さが、ポケモンにはブロスターやガメノデスたちが。恋愛へ私を巻き込んだのは貴女です」
「ズミには責任が無いってわけ」
「ええ」
ほんの少しの沈黙。ズミも私も苦々しい顔をしている。彼は何を思っているのだろう。私は、あの日ズミが言い放った言葉を思い返していた。
あの夜は、憎い相手から信じられない言葉ばかりを投げかけられた。だけどズミが吐き出したあの告白。“真正面から堂々と私を嫌ってくれたのは貴女だけだった”という言葉だけはやたら脳裏に焼け付いた。
辛い修業時代の風景の中に私がいたことを、ズミは幸せだったと言った。
私も。幸せとは思わないが、精神的にも肉体的にも厳しい、しかし乗り越えなければいけない時期に、常にズミがすぐ近くにいたことは自覚していた。
「ズミのこと、嫌いな人、そんなにいないの?」
「怖がられることは多々ありますね。堂々としてたのはくらいでした」
「そっか。ズミは寂しいやつだな」
「ええ。……それでは」
ズミが私を好きだと言ったことは、ゆっくりとだが私の中でしっかりとした存在感を放ち始めている。その記憶が放つ、光のようなものが私の視線を縫いつける。厨房へと戻っていくズミの強がりな背中に。
通過儀礼の中で睨んでいたあの背中は、あんなにも痛々しかっただろうか。
我ながら嫌なことに気づいてしまったなと思う。だがもう手遅れのようだ。
若々しくハネたズミのブロンドや、あのよくも知らない部屋で目覚めた早朝、霧の立ちこめる知らない町をヒノヤコマ頼りに歩いた時の混乱。ここに至るまでの様々な記憶が優しい色に染まり始めている。
ズミが「忘れられては困ります」と願った言葉の魔法に、私が捕らわれている。その事実がたまらなく悔しくてくすぐったかった。