冷たい廊下で呼吸すると、家の中だというのに息が凍えるのが白いもやとなって見えた。着込んでもったりと重い上着の中くすぶる熱に、冷気の刃が差し込まれる前にナマエちゃんの待つ部屋へ入ろうと、僕は足を早めた。
そっと戸を開けると中はすでに寝るための支度が整っていた。天井の灯りは落とされていて、代わりに枕元で包めた紙を通した光が小さくとも橙色に光っている。
部屋は眠気を促すべく、ぬるく暖まっていた。蒸籠の中みたいに湿気たぬくもりには、ほのかな匂いがついている。そうしゃれた香りでは無い。僕の家の匂いと、それから僕が眠れない時に度々焚く香の残りと、彼女の生きるがゆえに出てしまう匂い。そういったものの混ざりものが、僕の鼻を通って額のあたりで渦を巻く。
「ナマエちゃん」
呼ぶと、彼女は待っていたと囁くように首を傾げた。けだるそうな瞬きに、彼女にも睡魔がまつげの先まで回っているのが分かった。
「寒いね」
この部屋は充分に暖かい。僕が言ったのは、この部屋の外のことだ。明くる日には蹴散らかされているであろう、外部の夜闇のこと。もう朝まで、関係の無い場所のこと。
「はい……」と小さくナマエちゃんは返事をくれたが、僕もナマエちゃんも、それ以上しゃべりたいことも見つからなかった。もう寝る時間だという、直に訪れる眠りの時間に対する、降伏に似た気持ちだけは合致していた。
ナマエちゃんは上に羽織っていたものを一枚脱いだ。それから、壁にかけた。寒い朝を想定して、起き抜けにすぐ身につけられるように。
僕はナマエちゃんに比べれば寝ている間に体が冷えやすいので、そのまま布団を被った。
僕が体を横たえると、すぐにナマエちゃんが近寄る。そしてそっ、と僕と布団の間に割り入った。薄い寝間着だけをまとった体が、僕の体に沿うようにつま先を滑らせる。
僕の鎖骨の下に彼女の額が当たる。逆に膝小僧は、布団の底でもかち合うように同じ高さにあった。ただ、足の長さの差異で、彼女のつま先は僕のくるぶしに僅か当たる。
彼女がそれ以上布団の底に落ちていかないように、僕は体の前でうずくまる彼女に腕を回した。二度、三度、彼女がもぞもぞと動く。骨と肉によるでこぼこの、良い咬み合わせを探す。互いを確かめ合い、互いの体の上や下に自分の落ち着く場所を探し合った。やがて、双方ともに動かなくなった。
今までの一連の動きが僕に抱きしめられて眠るための動作だと思うと、少しだけ感情が波立つが、息をしているうち、すぐに紛れた。
彼女を抱きしめて眠ることへ生まれるのは、安堵ばかりだ。
こうして抱き合う時、温度が二人の間で落ち着くのが、本当にひとつに解け合った気がして好きだ。
ああ、夜が好きだと思う。目醒めている間は、光の時間僕はどうにも落ち着けない。暗い空間で、あの光の中で覚える不安を追い払うための時間がやってきたんだと、僕には思えてならなかった。
ナマエちゃんが手中にある内にと、この腕が考えていること。それは夜に相応しく後ろ暗い。僕の魂のいくらかがこの体に乗り移らないかだなんて叶いそうにない企みもあれば、溶け合う感覚を探り当てようとする企てもある。そして、鼻孔をかすめる彼女の匂いを感じながら、そこに僕の匂いが染み込んだらと考えている。
思考や感覚が鈍るような温度の中で幼い子供のように彼女の体に体を擦りつけている僕は、少し獣じみているなと思う。匂いをつけたいという願いがあるのだから尚更だ。
匂いを焚き占めるのに、夜眠る時間は何よりうってつけだった。
こんな時はナマエちゃんの小ささが僕を慰める。僕が塗りつぶしたくなる彼女はそう大きくないのだと。
目線を下に動かすと、すでにナマエちゃんは目を閉じていた。
一方僕の目はまだ、物を見ている。さぞ硬いことだろう、彼女のなだらかな背に沿う僕の手は。僕の息する音や、脈拍の音だとかが煩わしく無いんだろうかとも考える。けれどすでに丸く閉じられたまぶたはその心配を軽く溶かすようだ。髪の毛の感触が僕の頬を滑る。途方もなく愛しい。
ナマエちゃんの旋毛越しに、僕は少しだけ朝を想った。いくらか眠れば、窓ガラス、そして雨戸の外に訪れるであろうもの。東から昇った太陽の光が、色あせた雨戸の隙間から覗くのを想った。それは待ち遠しい光景では無い。朝が来れば別個の人間として離れ、マツバとナマエとして他と関わらなくちゃいけないんだから。
光の時間は恐ろしい。だから今の時間だけは彼女を独り占めに、僕の何かしらが彼女に染み着いてしまうように願い腕の間にあるものを確かめる。そうするとふと気が遠くなり、まぶたが重くなりようやく、僕のあたたかな眠りは訪れるのだった。