夜空に浮かぶ三日月は、パッキリと折れてしまいそうに細かった。わたしはそれを膝を抱えて見上げる。月、きれい。放たれる淡い光が思考まで霞ませていくけれど、同時にやっぱり、あの事実がわたしを追いかけてくる。ついに、ズミさんからの連絡は来なかったこと。
 「今夜は遅くなる」、そのちょっとした一言が無かった。それだけでわたしは夜ご飯を用意する気力が抜けてしまって、窓辺で思考を動かせないでいる。
 膝を抱えたまま何もない冷たい床に横たわる。わたしはこんなに重い女だっただろうか。

 ズミさんが自分の家に帰って来ないことはしばしばあることだった。理由は明白だ。四天王と料理人。ひとつの体でそのふたつの肩書きを見事に両立させているからだ。
 それでもわたしをこの家に連れて来て、住まわせるようになってから、ズミさんはレストランで寝泊まりする事が格段に減ったらしい。彼の部下がそれを教えてくれたのだった。わたしには一言も漏らさなかった小さな変化に、遠回しなズミさんの愛情を感じ、けれどわたしの灰暗い部分は考えていた。

 わたしはズミさんの負担になってないだろうか?

 「遅くなるけれど帰る」、「先に寝ていてくれ」、「すまない」。疲れの滲む声でズミさんがそう言う度に顔を見せていた不安。
 考えれば考えるほど不安は雷雲のように肥大して、もはやズミさんにぶつけることが戸惑われるほどになってしまった。
 そして、今夜連絡が無かったことでそれが裏付けられた気がした。

 わたしはのそりと起きあがった。今がどんなに暗い考えにまみれていても、ズミさんのことを笑顔で迎えなければいけない。お疲れさま、わたしは平気よ、心配なのは貴方の方だよって顔をして、ズミさんに変な不安を抱かせてはいけない。
 わたしがズミさんにしてあげられるのは、それくらいしか無いのだから。

 乱れた髪を手櫛で直しながらわたしは自分の部屋へ行く。ズミさんが好きに使いなさいと言ってくれた部屋に置いたキャビネット。二段目の引き出しに、わたしの隠し事は存在する。

 ダークブラウンの紙の箱にかけられたリボン。手のひらから少しはみ出すサイズの箱に、一粒一粒、姿も味も違う9つのチョコレートは、まるで宝物ののように収まっている。
 チョコレートは、幼い頃からの好物だった。舌の上で溶けて、甘さが全身に広がる感覚はわたしを癒すアイテムであり、何よりもわたしを甘やかす存在だった。
 普段は食べるものに気をつけている。だから陽が暮れてから感情のままにチョコレートを貪るなんてありえないことだ。けれどこんな夜だもの。恋人を言い訳に、わたしは彼らを守る薄い紙を除けて、ひとつを選び出して唇へ運んだ。
 下唇の上に乗せ、けれどそこでわたしの指は止まった。

 このチョコレートはわたしの隠し事だ。ズミさんには言ったことが無い。悲しいことがあった夜は体型のことも忘れて、チョコレートを食べること。なんてわたしは可哀想なのと、自分を甘やかすためにチョコレートを食べること。

 わたしは恥ずかしい。厳しい顔をしながらも人を圧倒し道を進み続ける人の恋人が、簡単に挫ける弱い精神の持ち主で、チョコレートに頼ってようやく立ち直れるような人間であることが。

 悲しい笑いが漏れた。わたしはこんなにもズミさんが好きだ。彼がわたしを選んでくれたというのに、わたし自身がわたしを許さない。
 わたしはズミさんの恋人になってしまったけれど、溢れるズミさんへの感情は決して恋心では片づけられない。
 恋なんて、単純なものでは無い。ストイックな姿勢へ向けた尊敬。固執するあまりに度々ある癇癪を、わたしは軽蔑していた。けれど彼を知りたいという好奇心。思いの強さ故に出てくるののしり言葉が恐怖した。けれど味方で居てくれることへの安心感。全てがわたしの鼓動を早めてくれた。
 そして強い憧れは今も続いている。ズミさんに近づきたいという心はそれこそ崇拝を少なからず含んでいる。

 唇の上で溶け始めたチョコレート。挟む指先が滑る。ズミさんの良い彼女でありたい。そのために笑っていたい。笑うためにチョコレートの甘さが欲しい。
 けれどズミさんに近づきたい。したたかで素晴らしいわたしになりたい。甘いものを食べたいなんて気持ち捨ててしまいたい。食事なんてもの全て水で済ませて、あの美しい生きざまをする人に近づきたい。ここで彼を迎えるにふさわしい人間になりたい。
 結局のところ、わたし自身が弱いのがいけないんだ。

 下向きのことを考え始めればもう止まらない。
 どうしたらいいのか分からなくて、視界いっぱいに水が張った。





 愛しい人の声で振り返った。その動きで、目の水は落ちてしまった。
 ドアの近くに立つズミさんを見留めて、わたしは慌てて顔と指先のチョコレートを隠す。


「顔を見せなさい」
「い、いやです」


 目の下を擦って大慌てでチョコレートを箱に戻す。


「なぜ隠すのです」
「今みっともない顔をしているんです」
「大方、その顔をさせたのは私でしょう」
「ズミさんは、悪くない」


 およそ食べ物を扱っているとは思えない乱雑さでわたしはキャビネットの奥に箱を押し込もうとする。焦りでうまく閉まらない引き出しにいらつく手首を、ズミさんの冷たい指先がつかんだ。
 もう片方の指先は引き出しの取っ手をつかんでいた。ここまで来るともう為す術がない。角が丸くなったチョコレートの箱をズミさんはたやすく見つけ出した。


「何を隠したのかと思えば……」


 そのままズミさんは箱を開けた。中身を見てズミさんは言葉を失う。わたしが必死になって隠した小箱に詰められたものが、何のひねりもなくチョコレートだったことがズミさんを混乱させたようで、珍しく目が泳いでいる。
 目線の高さを合わせながら問いかけてくる声が、ズミさんにしては優しくてわたしはまた涙が出そうになる。


「すみません。やはり私にはなぜ貴女がこれを隠したのか理解できない。……誰かから貰ったものですか?」
「ううん、自分で買ったの」
「ならなぜ。どうして私から隠そうとしたのか、教えて貰わないと納得などできない」
「……恥ずかしかったから」
「え……?」
「恥ずかしかったから、です」


 数分前までチョコレートを必死に隠そうとしていたのに、わたしの中には恐る恐るでも、話そうという気持ちが生まれていた。
 ズミさんの揺れる瞳に、不安が映っていたからだ。わたしの隠し事がズミさんにいやな影響を与えているのなら、もう隠そうだなんて思えなかった。


「ズ、ズミさんは体も心も大人で、自分自身に厳しくしながら前に進んでる。だから、こんなに子供っぽいわたし、ズミさんには知られたく無かった」
「子供っぽい、というのは」
「わたし、落ち込んだ時にはよくチョコレートを食べるんです。夜でもお構いなしに、チョコレートでヤケ食い、するんです。ほんとはもっと痩せたいって思っているくせに我慢できなくて……」


 わたしが続きの言葉を言いあぐねていると、頭の上から細いため息が降ってくる。


「ご、ごめんなさい……」


 ズミさんにとってはばかばかしい内容だっただろうかと思うと、消えてしまいたいという気持ちは加速した。


「それは、良いのですが」
「本当にごめんなさいっ」
「平気です。むしろ……、なんというか……」


 またズミさんが重く広がる息を吐く。


「これを安心というのでしょうか。内心、長い間気にしていたことがありましたので」
「気にしていた、こと?」
「せっかくこのズミの家に入れてあげたのに、貴女が全く外で会う時と同じ顔しかしないので、私に何か不足があるのかと」


 ズミさんの言葉に思い当たる節があった。
 同棲を始めて、お互いのだらしない部分を知って幻滅するカップルは多い。そう聞いたわたしはこれを機によりズミさんにふさわしい女性になろうと思ったのだ。


「ヤケになってチョコレートを食べたいくらい落ち込んでいたのですか」
「それは、なんと言いますか……。今日はズミさんが連絡をくれなくて、忙しいんだなと思ったらいろいろと悲しくなってしまったんです」
「貴女がここを居場所にするなら好きな時に好きな物を食べなさい」
「は、はい」
「早速食べますか」


 ズミさんがチョコレートの箱を差し出してくる。けれどわたしはその手を下ろさせた。チョコレートに助けを求めさせたあの息苦しさは今は無い。
 ズミさんらしい言葉を通して伝わってきた気遣いで、わたしは途端に幸せだ。


「……唇にチョコレートがついていますよ」
「あ……」
「指先にも」


 なんて恥ずかしい。手のひらで隠しながら唇を舐めると、今度は指先を指摘される。さすがにズミさんの前で指を舐める勇気が無く戸惑ってしまう。近くにティッシュがないか探そうとした肩を捕まれ、人差し指は唇の奥に吸い込まれていた。誰でもないズミさんの唇に。


「ずずずズミさんもこういうのするんですねっ! あ、味見とかお手の物ですもんね!」
「味見はスプーンでしますが」


 人差し指の次は親指だ。わたしはそれをただ見ているだけしかできない。
 終わってもぬるりとした舌が指先を這い、チョコレートを舐め取っていった感覚が抜けなかった。この人に舐められた経験はあった筈なのに顔がどんどん熱くなって爆発しそうだ。
 立ったまま動けないでいるわたしを息で笑って、ズミさんはシャツのままベッドに横たわった。


「今度はいつも通り帰れる場合も連絡を入れましょう」


 ズミさんは深い息を吐きながらそう言った。
 同じベッドに腰掛けながら、わたしは思わず苦笑いをしてしまう。


「この時間でいつも通り、ですか」
「慣れればそう大変ではない」
「……遅くなりましたが、おかえりなさい、ズミさん」
「ええ」

 シーツの中からズミさんがわたしを見上げる。この人はやはり白に包まれているのが似合うなと思った。
 星の光のような髪色に白い肌。でも今日はズミさんのそれらが少し影を負って見える。


「お疲れさまです」
「ええ。さすがの私も、少し疲れました」


 ズミさんが珍しく弱音を言った。たったそれだけでわたしは落ち着きをなくす。
 わたしは彼のベルトを抜き、シャツのボタンをいくつか外した。ズミさんがされるがままなんて。また胸がざわついた。
 ベッドに上がったわたしはシーツを大きく広げると、ズミさんと共にそれを被った。頭からつま先まですっぽりと。シーツでできた密室の中、わたしたちの息がぶつかり合う。明日の笑顔のために一番近くにズミさんが在って欲しい。そんな気分だった。