はすむかいのヤツを紹介します



 ただの向かいではなく、斜め向かいのことをはす向かいと言うそうだ。斜向かい、と書いてはすむかい。最近知った言葉である。ならば我が家の向かいからちょっとズレたところに建っているマツバくんちははす向かいのお家ということになる。

 マツバくんは根の優しさがたれ目によく現れた爽やか青年だ。髪が色づいたイチョウの色をしていて、洋服もポケモンも高貴な紫色がよく似合う。
 はす向かいに住むお家の、このマツバくんと出会ったことでわたしは人生においてかなり得をしてきたと思う。マツバくん、と呼べば、うんと優しげな相づちが響く間柄。出会ったときが一体いくつのときか、何歳だったかも覚えていない。
 マツバという人が物心ついたときからそばにいた。それは失わなくとも分かる、人生最大のラッキーな出来事。




「マツバくん」
「うん」
「このゲームってどうやってセーブするんだっけ」
「スタートボタン押してレポートを書いて」
「おお」

 マツバくんは物持ちが良い。だって今日もゲームボーイカラーが現役だ。
 マツバくんの家にはお客様用に座布団がたくさんある。さらさらとした布地にしっかりとした絹の糸でばつ印を留められた座布団。それをわたしは座ってるマツバくんの後ろにたくさん敷いて、上に寝転がって、ゲームボーイをピコピコするのが大好きだ。

「マツバくん」
「うん」
「このゲームコンプリートできなくない。図鑑もうちょっとで完成なのに」
「それ通信しないと無理なんだ。他のデータから貰ってこないと」
「何それ悔しい! このソフトわたしも一個買おうかな」
「ちなみに本体も二つないと通信できないからね」
「あっそっか!」
「うん。残念」

 振り返ったマツバくんは本を広げ、付箋を一心に貼っている。きっとポケモンの本だ。赤い指先が熱心に頁をめくる。姿勢はまっすぐ正しく。目を通し終えた本の柱の横には、とっくに冷えた湯呑み。

「マツバくん」
「うん」
「貸した漫画、読んだ?」
「ああ、読んだよ」
「っ読めた? どうだった?」
「結構おもしろかった。が好きそうな話」
「そうなんだよねー! 主人公とイケメンが曲がり角でぶつかって出会う辺りしてちょっとベタ展開なんだけど、でも好き! この作者ギャグも面白いから、これならマツバくんも読めるかなって思ってたんだ!」
「うん、そうだね」

 マツバくんは相づちの天才。マツバくんにはマツバくんの作業があるというのに、リズム良く聞いているよのサインが返ってくるので、わたしは堪えきれず気持ちの全てをマツバくんに喋ってしまう。

「わたし不覚にも2巻で泣いた! ライバルの女の子は最初何なのって思ったけど、あそこ読んじゃうとすごい大好きになった! 少女漫画って恋愛あればこそと思われがちだけど友情ものでも泣ける……! 毎回急展開起きてすごいドキドキするよね!」
「あの、ごめん」
「え、何が?」
「実はまだ1巻までしか読んでないんだ。ごめん」
「そ、そっか」

 そうだよね、マツバくん忙しいし。わたしは抱きしめていた座布団に顔を埋めた。

「やばい。ネタバレしちゃった……」
の説明じゃよく分からなかったから大丈夫だよ」

 微妙なフォローだ、マツバくん。

はそろそろお買い物行かなくて良いの?」

 おつかいの途中で寄り道してたことは言ってなかったのに、マツバくんにはお見通しだったらしい。多分、いつもの買い物用の編みかごと小銭入れの組み合わせで気づかれたのだ。

「うん、行かないとねー」
「今の内行かないと帰るとき寒いよ」
「うううん……もう寒い。だるい」
「僕のマフラー使いな。玄関にかけてある」

 玄関にあると言いながらマツバくんは静かな足音を立ててマフラーを取りに行った。

「ほら」

 座布団に突っ伏してた首にマツバくんの指が回る。マツバくんがよく使い込んで、マフラーはちょうど良い柔らかさだ。わたしの首を二回ぐるりと回って、右耳の下でぎゅうと結ばれた。
 ぐええ。首じゃないところが締め付けられて苦しい。

「ほら暖かい」
「……うん」
「買い物行くんなら、醤油、ビンで重たいんだけどお願いして良いかな」
「切れたの?」
「今朝ぴったりなくなったんだ。薄口ね。ラベルが黄色いのだよ」
「知ってるー。あとなんかあったら買ってくる。紙に書いてよ」
「うん」

 マツバくんは引き出しから鉛筆を取り出した。
 身は山吹色で、上には小さい消しゴムがついているヤンヤンマ印の鉛筆。
 今時すぐにこれを取り出すのがマツバくんっぽい。多分まだマツバくんちは電動の鉛筆削りを導入していないはず。先の丸い鉛筆はますますマツバくんっぽい。

「はいこれ。よろしくね。重くなりそうだったら無理しないでね」
「りょうかーい」

おお。マツバくんの字。マツバくんの字は綺麗だ。買い物一覧のメモを、わたしは大切に折り畳む。
 わたしはマツバくんの字が大好きだ。大好きすぎて、一度わざわざ住所と名前を和紙に書いてもらったことがある。家が近すぎて手紙のやりとりの機会がないので、「様へ」と書かれた紙は今も大事にとってある。
 彼の字については何度も絶賛しているのだけど、当のマツバくんは僕の字は個性が無くておもしろくないと言う。確かにマツバくんの字は個性も均してしまうほど訓練されている。けれど紙の上に黒い粉がそっと乗っているのを見ると、この字はマツバくんにしか書けないと思うのだ。故にマツバくんの字、やっぱり好き。特別好き。

「………」
「どうしたの?」
「……ミナキ、何時くらいに来るかな」
「その内来るよ」
「早く来ないかな」
が帰ってくる頃には着くと思うよ」
「えっじゃあ早めに帰ってくる!」
「気をつけてね」
「うん」
「あ、うちの下駄履いてったらだめだよ。危ないから」
「今日は五本指ソックスじゃないから履けません!」

 小走りでマツバくんちから出ていく。引き戸をぴしゃりと閉めたところでやっと、わたしは胸にたまっていた熱い息を吐き出した。

 ミナキがいて良かった。今日ミナキが来る日で、良かった。
 マツバくんの字のこと考えてどうする。頭の中で力説して、どうするのだ。誰も求めてない。マツバくん本人だって自分の字をそこまで気にしているわけじゃない。わたしは何を勝手に考えているんだろう。
 最近自分でも困惑する。マツバくんのことを深く、考え過ぎてしまうのだ。今まで悩みなら何でもマツバくんに話せば良かった。解決してもしなくても、一番近くにいるマツバくんに話せればわたしは不安から解放された。けれど今回の悩みはマツバくんには言えない。
 マツバくんに、マツバくんのことを考え過ぎてしまうなんて、言えるわけない。

 でも第二の友達、ミナキなら耳を傾けてくれるだろう。わたしのこのモヤモヤ、ミナキになら話せる。早く来てミナキ。どうかミナキが、道ばたでスイクンと出くわしませんように。

 ああ。人生、なるようにしかならなかった。けどこの頃、このままじゃいけないと考えるようになってきた。

 わたしは、そろそろマツバくん無しで生きられるようにならなければいけないと、思うのだ。