ぎこちなさとの別れを決めます



 マツバくんがいなければ、起きなかったはずの出来事がわたしの人生には数え切れないほど有る。マツバくんが分かりやすくポケモンの気持ちを諭してくれたから、不思議で片づけていたゴーストポケモンたちのいたずらを見抜けるようになった。マツバくんが毎年誘ってくれるから、わたしは紅葉狩りで晩秋を感じられるようになった。ちなみに晩秋という言葉を教えてくれたのもマツバくんだ。マツバくんに季節の始まり、盛り、終わりを教えられてわたしの季節観は三倍になった。気まぐれに作ったクッキーとか急に作ったカレーとかをマツバくんが美味しいよと言いながら食べてくれるから、わたしにはささやかな料理の技能が身に付いた。マツバくんが「野菜の切り方上手くなったね」と言うから、わたしは自分の包丁の技術にちょっと自信を持っている。ああ、そういえば。はすむかいという言葉を教えてくれたのも、マツバくんだ。

 マツバくんがいなければ存在しなかったであろうわたしが何十、何百といる。マツバくんという存在の糸と絡んで絡んでこんがらがってそれで出来ているのが“わたし”なんだ。

 時々怖くなる。マツバくんはそうじゃないから。
 はすむかいに誰が住んでたかなんてマツバくんの人生には関係ない。近所に住んでいた子供が例え男の子だろうが女の子だろうが、言ってしまえば人間だろうがポケモンだろうが関係ない。マツバくんが手に入れたものはすべて、誰かからもたらされたものじゃなく、彼自身が持って生まれた力で手に入れたものだ。ジムリーダーになれるだけの実力、それを手に入れるための努力だって、マツバくんの中から生まれたもの。マツバくんを取り巻く環境が今とどんな風に違っても、マツバくんはそのまま今のマツバくんに成長しただろう。

 マツバくんという存在はわたしになくてはならない縦糸として絡んでいるのに、わたしと関係のないマツバくんは簡単に想像がつく。
 だからまた、怖くなる。

「……
「え、わたしは肉じゃがいらないよ、悪いって」
。肉じゃがの話は誰もしてないよ」
「………」
「墓穴を掘ったな」
「すいません」
「どうして謝るの?」

 居間のちゃぶ台。向かいに座るマツバくんがじっとわたしをのぞき込んでくる。

「……なんとなく」

 またマツバくんのことを考え過ぎてました、なんてマツバくんに話すわけにいかない。

「マツバくんさ……」
「ん?」
「いや、ううん。大丈夫」
「どうしたの? ぼーっとしてる? 風邪でもひいた?」
「大丈夫」

 マツバくんそろそろ前髪切った方が良いよとか、些細なことも言えなくて、わたしは気づく。わたしたちのふざけあいしてたピークってちょっと前に過ぎてしまったな。もうわたしとマツバくんとの間柄って友達らしくなくなってる、と。いやこれから友達じゃなくなっていくのかもしれない。

「じゃあマツバくん」
「うん」
「わたし帰ります」
「え? ご飯、食べてかないの?」
「今日はいいや」
「でも。時間があるなら食べていきなよ。……ミナキも、いるよ?」
「ミナキとはまた後日会うから。それにちょっと考えごとがあって」
「どうしたの? 良かったら話してみなよ」
「……うん。でも風邪ひきそうかもしれないし、今日は帰る。また今度話すよ」

 帰る言い訳がバラバラすぎて、マツバくんは怪しんでわたしを見ている。逃げるようにわたしは自分の買い物かごを抱えた。

「じゃあね、また」
「分かった。玄関まで行くよ」
「い、いいって。ほんのちょっとだし」
「ほんのちょっとだから遠慮しないで」
「でも……!」
「それなら私が行こう。ちょっとした話もあるしな」

 助けてくれたのはミナキだった。うん、ミナキが良い! とりあえずマツバくんじゃない人が良い!
 わたしがすがるような視線は通じて、結果、十メートル弱のはす向かいまでついてきてくれることになったのはミナキだった。

「じゃ……、またね」
「うん」

 足早にこの家の玄関を目指すわたしについてきてくれたのもミナキだ。帰る廊下からは様々な草とか木が見える。
 金木犀、木蓮、椿、躑躅、梅に雛罌粟、百日紅。わたしは元々植物まとめて全部「お花」と呼んでいたけれど、今はどれも名前が分かる。毎年マツバくんが楽しげにあれが咲いたこれが咲いたと花の名を教えてくれたからだ。
 花を見て慈しむ、そんなマツバくんの横顔はよく記憶に残る。



 暗がりの廊下を歩きながら、ぼんやり草木を眺めていたわたしをミナキが呼ぶ。

「さっきのは不自然過ぎるだろう。あれじゃマツバが可哀想だ」
「そんなこと言われたって。……ごめん、なんか上手くできなかった」
「全く。何をそんなにこじらせたんだ」
「何かな。分かんないや。でも最近、たまにこうなっちゃうんだ。昔はマツバくんにならなんでも言えたんだけど……。秘密でも何でもないのに、マツバくんに言えないんだ」
「話したいことっていうのもマツバ関係か」
「そうだよ。全部じゃないけど。……行こ」

 まだここはマツバくんの家だ。さすがにマツバくんが同じ屋根の下にいる状態では話したいとは思えない。わたしとミナキは無言で誘導した。道路を挟んだわが家の前に着いて、そこでわたしはようやくミナキに言う。ずっと堪えていた考えを。

「ねえ」
「うん?」
「わたし、この町から出られると思う?」
「……、うん?」
「わたし脱エンジュしたいというか、もっと言えば脱マツバくんしたいって考えてるんだ」
「また、どうして」
「ミナキはさ、わたしとマツバくんの今の距離って正解だと思う?」

 ミナキの笑顔が崩れていく。まじめな顔になる。それからちょっと呆れたように空を見て、かと思うと眉間に指をやって考え込んだけど、とうとう、それはそうだな、と同意をしてくれた。

「うん。なんかわたし、この前からマツバくんと笑っていられる未来が想像できなくなっちゃって」
「そうか」
「今まではずっと楽しかった。わたしって、しようと思ういろんなことが、マツバくんいること前提なんだもん。今日のお使いだって、マツバくんの家に寄ってくの前提で、ちょっと早く家を出たし」

 そんな風にして過ごす毎日は楽しい。けれど大きすぎる楽しさとか、わたしに似合ってない幸せな感覚が、不安を落としていったように思う。

「マツバくんが近くに居てくれて良かったってずっと思ってるけど、だからってずっと近くに、ずっと一緒にいられるわけじゃないんだよなって考え始めたら、頭、混乱してきて……」

 言いながら、わたしの息はどんどん詰まって苦しくなる。このことは考えるだけで辛くなる。

「いつか、そんな日が来たらわたしどうなるんだろう……」

 終わりの日のことを考えるのは、後ろ向きで、むなしいことかもしれない。けど、いつか来る日のために準備することって、大きく間違ってないと思う。

「今のままのわたしじゃ、だめだと思う。ううん、だめだよ」
「それで脱マツバか」
「うん。傷つくのって怖いし、それにわたしも大人になりたいわけですよ」

 ずっと一段ずつ昇っていた階段があって、それをわたしとマツバくんはしばらく二人三脚みたいに昇り続けてきて、ずっとお互い揃って次の段があるのが当然と思ってて。
 けれどある日彼の一歩はわたしの一歩とは違うと気づいてしまった。焦って二歩分踏み出したら、次の段がまるまる無かった。
 なのにマツバくんはひとり昇っていくから、焦ってどうにか飛び乗れる次の段差を探している。何でも良いからどうにか足が置ける場所、それをわたしは探している。

 夕方を過ぎた頃の風は冷たい。すん、と鼻が鳴った。ミナキは小さなため息をついた。

「……それもありかもしれないな」
「っほんと? ほんとにそう思う?」
「まあなんでもやってみれば良いさ。事態が何も変わらないよりはよっぽど良いだよ」
「そうだよね、ありがとう! で、さ。出来たらわたしミナキについて行きたいんだけど」
「……もう一度言ってくれ」
「ミナキんちってカントーでしょ? ミナキの家とか泊まれないかな?」
「………」
「あ、もちろん一泊で! わたしどこにも行ったことないからとにかくエンジュを出てみたくって」
「どんな気分でうちに来るつもりだ」
「え? 遠足気分?」
「だよな……。分かった。明後日、朝までに荷物は作っておけよ」
「っありがとミナキー!!」

 こうして苦笑いしながらも受け入れてくれたミナキだって、わたしがマツバくんの幼なじみでなければ出会うことの無い人だっただろう。切っても切れないマツバくんの糸から抜け出して、わたしは一人立ち出来るんだろうか。