夜中、目が覚めた。最近よくある。意識が唐突にこの真夜中に繋がって、僕は音もなく目を開く。こうして何にも話しかけられない夜、一番に思い出すのがとのこと。だから恐らく、僕を安眠から遠ざけるのはが原因だ。
寝付けない夜。後悔は渦を巻く。僕の何がいけなかったのだろう。
彼女は今、どこに居るのだろう。眠る横にはミナキが、いるのかな。
思い出す。君のこと。
近所の、斜向かいのお宅に住むと、一体いつから一緒にいたのか僕は覚えていない。幼かった頃の記憶はたくさんあるけれど、出会った時の記憶は遠い昔のことで、すでに失われている。だから僕にとっては、人生の最初からいたようなものなのだ。
彼女がそばにいる。それによって僕はどれだけ助けられただろう。彼女は僕にとってかけがえのない、平凡さを持って生まれた人物だった。
早くからこの世界で己は希有な存在なんだろうという自覚があった僕には、人の間はとかく生きづらかった。人々から注がれる奇異の視線にどこにいても居心地の悪さを感じていたし、またそんな人々の目が、僕に己の存在への自覚を早めた。
望んでも得られない、けれど逃げようにも逃げられない期待を集める自分。人がひれ伏すような能力を持つ自分。千里眼の使い方を見張られている自分。
中でも多数の人間と同一になれない自分を自覚した時が辛かったように思う。同年代の子供となじめない自分と、僕は間違った生き物のように感じていた。
がいなければ、僕はそんな自分に抱いた虚像を打ち壊せずにいただろう。
「マツバくん、あーそーぼ」
自分はみんなと違うから。そう言って僕の作り上げた他人への壁をは気づきやしないんだ。
は僕を救う、鈍感さの持ち主だった。
「手があいてるならこの虫取りアミもって。ハネッコがすばしっこくてつかまらないの。はさみうちしよ!」
「え? ……え?」
「いくよ! にげちゃう!」
手を引かれたなんて可愛いものじゃなかった。
彼女のまだ細い指、けれど内側に血を宿した熱い指が僕の手首をつかみ、ぐんと引っ張った。の急発進につられて踏み出した一歩は、いつもの歩幅より二倍くらい大きかった。
「マツバくん、そっちいったよ!」
跳ね回るハネッコを追いかけるのは意外に難しかった。ハネッコが次にどう飛ぶか、分かっていてもなかなか体が追いつかないのだ。
息が苦しいくらいに上がっても、愚直にハネッコを追い回してしまったのは、彼女のペースに飲まれていたのだと思う。彼女は僕以上にすばしっこく、ポケモンを追いかけるのに慣れていた。いつの間にかを追いかけるように足を早めた僕は、ついに草むらの上に転んでしまった。
「マツバくん!?」
空気を求めて空へあえぐ僕。駆け寄ってきたはそんな僕を笑った。
「マツバくん、がんばりすぎ」
あの時からだと思う。僕にとってはひとつの基準になったのは。僕がの一言で、自分の頑張りや強がりを認められるようになったのは。
まだ息を切らしながら、僕は立ち上がった。
「はぁ、はぁ……。ゴース、“したでなめる”」
僕の後ろをついてきてくれていたゴースが、僕の言葉に従ってハネッコの前に出た。したでなめるは見事に決まった。赤く湿った下でべろんとされたハネッコは、体をぶるりとふるわせて動きを鈍らせた。
最初からこうすれば良かったんだけど、その時は体が限界になるまで、ポケモンに手伝って貰う事が思い浮かびやしなかった。に引っ張られた時から僕は自分のことを忘れてただの虫取りアミを持つ男の子に戻っていた。
「マツバくん、すごい! すごいね!」
にキラキラした目でのぞき込まれる。その時にはもう、決定的だった。僕は彼女の言動によって、自分はある程度努力を果たしたのだと、今までにない満足感を得たのだ。
は、ご近所さんである以上に僕にとって大きな力を及ぼす女の子になっていた。
は僕の基準になった。彼女の率直な言葉や言動が、放っておかれるとどうしても浮き世離れしてしまう僕をつなぎ止めるのだった。
僕はの近くに生まれて来られて、本当に幸運だったと思う。彼女は平凡さが自分の長所だとは絶対に認めないだろうけど、僕に安らぎをもたらすのはの背伸びを知らない部分なのだ。
ただ家が近かったから。その理由だけで僕を友達にしてくれたことが、幼い頃は嬉しかった。斜向かいに住むことだけ。それだけで、は僕を認めてくれる。僕が良い子でなくっても、バトルに負けたとしても、人に見えないものが見えても、能力を使って誰かの秘密を暴いても、ゴーストポケモンをたくさん引き連れていても、僕を怖がる人が一人増えたとしても。
「マツバくん、あーそーぼ」
彼女は迎えに来てくれた。
斜向かいの。その繋がりを頼りなく思った契機はなんだったのだろう。
僕たちのバランスは、僕とが大人に近づくにつれ急速に崩れ始めた。僕の下心はもう何年も前からのものだから、変わったのはの方だったと思う。
が、態度の端々によそよそしさを見せるようになった。「マツバくん、すごいね」という言葉に距離が含まれるようになった。
以前と同じく、は僕の横に用もなくいてくれる。けれど何も言わずに考え込むようになった。そしてそれを決して僕には言わないのだ。
僕は彼女に何度も言って聞かせた。「僕はとずっと一緒にいたい」。は人間で、いや、この世の生き物の中で一番、僕になくてはならない存在だから、他ならぬ僕のために何度も唱えたのに。
崩れ始めてからはあっという間だったな。
「……ミナキ、何時くらいに来るかな」
その時すでに悪寒が背筋を走っていた。買い物のメモを受け取ったが何やら感情をくすぶらせた顔をした後、ミナキを待ち遠しく思うような言葉を口にした。ミナキが何だと言うんだろう。なぜ何かをこらえた顔をして、ミナキを求めているのだろう。どうにも指先が暖まらない、寒気を感じながらも僕は笑んだ。
「が帰ってくる頃には着くと思うよ」
「えっじゃあ早めに帰ってくる」
「気をつけてね」
そういつもの僕を装ってを送り出したは良いものの、一人でただ待ち続けるのが急に恐ろしくなった僕は、追いかけた先で楽しそうに話すとミナキを見つけた。
知り合いと幼なじみ。そのどちらも、僕の知っている二人では無いようで、僕は彼らの後ろをしばらく呆然と歩いた。二人がそう早いスピードで歩いているわけでもないのに、二人を追いかける僕の息はずっと切れていた。浅い呼吸。「なんだ、マツバじゃないか」。ミナキからそう声をかけられるまで、ずっと、僕の息は切れていた。
思い出す。たった数日のことが何度も繰り返しよみがって、僕を苛む。
その後も、は始終ぼーっとして僕の言葉を拾ってはくれなかった。何か言いたげに顔を曇らせるのに、僕が近づく毎にはかたくなな態度をとった。唐突に帰ると言い始めたを、追いかけていったのはミナキで、それをは良しとしていた。
言葉にしがたい雰囲気をまとって退室した二人はいったい何を話したんだろう。次の日、僕の家をが訪れないから、僕は一日中、不安と焦りで気が気でなかった。
ミナキがエンジュを発つ日、家の前で宅を見張っていると案の定、旅支度をしたが出てきた。見張りと言ったが、見送りのつもりだった。気をつけてと伝えるだけのつもりだった。けれど、今から考えるとそれは、彼女の邪魔をしにいく自分への言い訳をしていたんだろう。
あの日、玄関で待ち伏せていたのは必死すぎてかっこわるかったかもしれない。けれど、ああでもしなければ彼女は僕に何も言わないで消えていたのかと思うと恐ろしい。
「待って。もうちょっと待って」
あの時わがままを言った僕は揺れていた。
気をつけてと、伝えなければならない。無事に帰ってきてと言える、彼女にとって良い僕でなければならない。だけど、本当に伝えたい言葉は勿論違った。
「ちゃんと見送ってあげるから、待って」
手を離さない僕に、は困った顔をしていたな。そんな彼女に言いたかった。行かないで、と。
「待って。もう少しだから、」
ずっと近くにいたのは僕なのに。君も僕をそれなりに好きで、僕を選んで近くにいてくれたんじゃなかったのか。
誰にも負けないように、って頑張っていたのに。なぜ僕に様々なものを隠したまま、旅立つことを決めたんだよ。僕なしで生きていく権利は君にないんだ。無茶苦茶だとしても、そう言いたかった。
「待って」
きっと待っても、彼女を送り出す言葉なんて出てこなかっただろう。彼女の揃った10本の指を手にし、僕の中に渦巻いていたのはどうにか彼女を丸め込もうとする欲望だった。
そんな僕を知っていたのかもしれない。
「わ、わたしはミナキとちょっと遠くを見てくるけど! それはマツバくんには関係無い、わたしの問題だから、ね?」
そう僕に言い聞かせ、彼女は逃げるように去っていった。
君のこと、あれやこれやと思い出す。
あの日、君は酷い事実を僕に諭してエンジュを出ていった。僕よりもミナキを選んで、ミナキを頼って。僕はいやだと暗に告げて。
朝。日課のように僕は家から一歩出る。正面を向いていては何も見つからない。彼女のお宅は斜向かいなのだ。彼女が居ることを期待して、僕は少し視線を傾ける。
声を聞かせてほしい。マツバくん、と呼んでほしい。なのに今日も彼女はそこにいない。