ほほう、とどっかの山の仙人になったみたいな声出して、わたしはその靴をまじまじと見た。こんな、履いたら常につま先立ちみたいな靴はひとつも持っていないので、ハイヒールはちょっとした異世界のアイテムだ。
こんな靴でエンジュの道は歩きにくくないのかな。わたしは雨上がり、傘を地面に突きながら歩いてて、傘の先が石畳の隙間に挟まってしまったことがあったけどな。この靴のかかとも挟まりそう。
赤い靴があるだけで、なんだか知らないおうちの玄関みたいだ。ふたつの靴が並んだ光景にわたしはそろそろと後ずさった。ガラガラと戸を閉め終わると、じっとりと重い息が出た。
い、いいんだよ? 別に。お取り込み中ならそれはそれでいいんだ。マツバくんがとにかく知り合いが多いのは知ってる、分かってる。別に文句とか無い。ポジティブに考えればお客様がいるということはマツバくんも家にいるということだ。
マツバくん、元気かな。元気だろうな、わたしと違って規則正しい生活してる人だ。三食食べて、夜決まった時間に寝る人だもん。
誰と、どんな人と会ってるのかな。どうしよう、とりあえずただいまくらいは言っても良い感じかな。とりあえず二つの靴が並ぶ玄関にひるんだわたしは、わたしはそっとお庭へ回った。マツバくんち、この時間の縁側なら、空いているのは知りきったこと。
一歩足を踏み入れるとぎぃ、と縁側がきしむ。それだけのことでわたしが心震えてしまった。
居間には誰もいない。けれど、きちんと吹かれた机がお昼間の光を反射して輝いている。机の上には何かに使いたかったのか、きのみが数個転がっていた。また、胸の奥がぶるりと震える。
マツバくんの形跡と、マツバくんちの匂いに触れてわたしの頭は早くもゆるみはじめる。わたし帰って来られたんだ。自分の家じゃないのに、気持ちはほっと安心して、逆に体は急にくたくたになって荷物が重くなってきた。
ここで前してたみたいにお昼寝出来たら幸せだ、絶対。
「お待たせ」
その声は、居間から伸びる廊下から響いた。びくりと震えて固まっていたら、ふすまが滑る音。
「ありがとうございます」
よく知っているマツバくんの声に返される。知らない声による返事。すぐにあの靴の持ち主だって分かった。鈴みたいな声が響いたのは廊下のさらに奥からだ。恐らくマツバくんがいつも勉強してる部屋。
なんだ。こっち来るかと、見つかるかと思った。相変わらずマツバくんの足音は静かすぎる。
「わぁ、お菓子まで。すみません、お気遣いありがとうございます」
「いえいえ」
マツバくんの返事を聞く限りまぁまぁ元気そうかな、と脳みその半分は考えている。もう半分は真っ白で、そこに二人の会話が響く。
両手のおみやげとカバンはとりあえず居間に置かせて貰って、わたしは忍び足で廊下に出た。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
ゆっくりと近づく二人の声。
「……おいしいです」
「うん、おいしいからって貰ったお菓子なんだ」
「お菓子もだけどお茶もおいしいです」
「ただのお茶だよ」
なんか楽しそうだなぁ。まぁマツバくんが家に入れても良いって思う人となんだから、会って楽しくないわけがない。
わたしはうなだれた。気まずくなった幼なじみが急に帰ってきて「ただいま」とか。そんあなの言える空気じゃなさすぎる……。
でもここを離れがたくて、わたしは音を立てないように壁に寄りかかった。床板につま先が冷えていって、寒気を覚えた。
「でも、本当においしいです。あったかくて、マツバさんの人柄が出ているような気がします」
「そんなことないよ」
あ、少し照れてる。
なんだかんだ一緒に居た時間が長いせいか、マツバくんの声だけで、マツバくんがどんな表情をしているのか思い浮かんでしまう。
マツバくんがわたしに向けてくれたたくさんの表情。少し下を見て、口をきゅっと結んで、でも顔には嬉しいと書いてある。そんな顔をきっと今、部屋の中のマツバくんはしている。
「マツバさん、大丈夫ですか?」
「え、ああ、うん。……大丈夫って、何が?」
「また疲れた顔してますよ」
「参ったな。そう見えたかい」
「……また、寝れなかったんですか」
「いや、大丈夫。君が気にすることじゃないよ」
え、それ大丈夫じゃないパターンでしょ。話し相手さんも同じく納得できなかったようだ。
「でも」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫ったら、大丈夫」
「そう、ですか?」
「うん。……じゃあ昨日の話の続き、僕たちで先にしようか」
「分かりました」
そう言ってふたりはなんだか難しい話を始めてしまった。
ちょっと待ってよ、マツバくんのこと、そのままほっとくの良くないと、思うんだけど。わたしならマツバくんの話、もっと聞くのに。
なんだこれ。
わたしが、わたしが、その人よりわたしが、って。わたし、そんな偉い人間じゃないのに、偉そうな気持ちばかりが募って、苦しい。
廊下ではくはくと呼吸して、胸の痛みに耐える。ふたりはなんともない様子で話を進めてる。わたしの知らない話。けれど、ひとつだけ、わたしの耳が絶対拾う言葉がある。
「……と、なっていまして、……のですが……」
「うん」
「またここは意見交換をしてから……、今のところ……で、……となります」
「うん」
マツバくんは相づちの天才。リズム良く聞いているよのサインが帰ってくる。だからたくさん喋りたくなる。ずっとマツバくんといたくなる。マツバくんの相づち、好き。大好き。どこにいても、マツバくんが近くにいるならひだまりの中にいるみたいにあたたかいから。
わたしがずっと飢えて、求めていたのはマツバくんの相づちだ。「うん」っていう、シンプルな響き。こうやって盗み聞きみたいなことしても、聞きたいと願ってた。
願いは叶ったはずなのに。今それを受け取って、マツバくんに話しかけられる場所にいるのはわたしじゃない誰かというだけで、全然、何にも嬉しくない。
「……っ」
気づいたら涙がこぼれていた。
目から玉になって溢れた涙はほっぺたを滑り落ちた。けれど顎にはたどり着けなかった。ゲゲン、と鳴いたゲンガーがわたしの涙を舐めたからだ。
「ひっ、……!」
突然現れたゲンガーの存在に叫びそうになるけど、自分が絶賛盗み聞き中だったことを思い出してこらえる。びっくりした冷や汗と涙目でぐしゃぐしゃになりながら、部屋の中を伺うと、まだ話は続いている。二人には気づかれなかったようだ。
ほっと息をついたところで思い出す。
あれ、ちょっと待って。そういやゲンガーの“したでなめる”って……。気づいたけれど、もう遅かった。全身がしびれて、わたしは立っていられなくなる。「相手がしびれる確率は三割くらいなんだけどね」。マツバくんのいつかの言葉を思いだした。その三割がこのタイミングで当たるなんて、運悪い!
体にしびれが回って、わたしの足ががくがくと震え出す。あ、これは無理。そりゃバトルしてるポケモンも動けなくなりますね……。納得と敗北感と、絶望感の中、わたしは廊下の床に倒れ込んだ。
「きゃっ。今の何……?」
「なんだろう。待ってて、僕が見てくる」
お願いだから来ないで、見ないでと何度も念じても、現実は無慈悲だ。無慈悲にふすまが開く音がする。
「……?」
ただいまが言いたい。仲直りがしたいと思っていた。けど、まさか舌までしびれた喋れない状態でマツバくんに見つかるとは思わなかったな。
数秒固まっていたマツバくんだが、我に返ってからの行動は速かった。無言でわたしを抱えて歩き出す。
待って待って、この年になって抱っことか恥ずかしい! と思ったけれど全身まひっているわたしに恥ずかしさを表現する手段はない。マツバくんが何も言ってくれないこと、そして意外に軽々と抱えられたことに頭がパンクしそうなくらい混乱してる。そういう意味でも身動きとれないわたしが連れて行かれたのは、マツバ家の布団が置いてある部屋だ。
畳の上にどっさと落とされる。体がしびれているせいで痛みは感じない。けれどなんでも大切に扱うマツバくんらしくないと思った。
わたしを見下ろすマツバくんは、冷たい声色で言った。
「喋れない?」
うん。喋れないから返事も出来ないよ。
「動けない?」
見れば分かるでしょ、わたしのこの謎ポーズを見てよ。しびれてて直せないんだよ!
「……そっか」
なぜか、本当になぜか、マツバくんは少し安心した時の顔をした。ふっと、周りを緩ませるかすかな笑み。
わたしの謎ポーズを直して、まくれあがってた服も律儀直して、マツバくんはひとり部屋を出ていった。
「ゲンガー。絶対にを逃がさないで」
そんな不穏な言葉を残して。
部屋の外でかすかに聞こえてくる。
さっきの人とマツバくんの話し声。
「ごめん、今日のところは引き取ってほしい。急用ができたんだ」
「その前に、さっきのは何だったんですか」
「ちょっとね。変なことじゃないから大丈夫」
「………」
「ごめん、説明はできない。心配しないで。僕はこれでもジムリーダーだから、危ないことなんて無いよ。ただ、僕にとっては本当に大事な用事ができたんだ。今じゃないとだめなんだ。……帰って欲しい」
「分かりました」
「ありがとう。気をつけて帰ってね」
がらがらと、玄関の戸が開く音。ぴしゃんと、閉まる音。
どきどきと高鳴るわたしの心臓の音。マツバくんの靴下が床を擦る音。その足音が、部屋の前で停まる音。
「……どうしてそんなに緊張しているんだい。楽にしてよ」
優しさが、逆に怖いぞ、マツバくん。