ゲンガーの舌に舐められて、動けなくなってどのくらい経ったんだろう。体の感覚が無いのと同じように時間の感覚も無かった。時間の流れが読めないのは、この部屋を緊張が支配しているから。
この家に人間は、恐らく二人だけになった。マツバ家の寝室、しびれて動けないわたしを前にマツバくんはヘンだ。いや、最初っからマツバくんはヘンだ。わたしが廊下でしびれて動けなくなっていたら「大丈夫?」って心配してくれるか、「ごめん」って口では言うけどおなかを抱えて涙目で笑い続ける。それがわたしの知っているマツバくん。
動けないわたしを無言でこの部屋に運び込んだあたりなにを考えているのか分からないし、今もマツバくんは唇を硬く結んで、何も言ってくれない。
じっと堪えるような表情。なんだかすごく思い詰めているような表情。そういえばわたし、出発の朝もマツバくんにこんな顔をさせていた。
苦しそうなマツバくんを見ていると、わたしまで本当に胸が詰まって苦しくなってくる。わたしを前にしてそんな顔をするんだから、少なからずわたしに悪いところがあるんだろう。
「……ご…んね」
ひとまずそれを伝えなくてはいけないと思った。舌から唇までの感覚がなくて、ちゃんと言葉になるか分からなかった。それでも言わなくちゃいけないと思ったし、マツバくんなら読みとってくれると思ったのに。
「へぇ。舌、まわるようになってきたんだ」
やっぱり怒ってる! 精一杯、声を絞り出して謝ったのにこの返事! 視界が潤んできた。
「そっか。少しずつ効果が薄れてるのかな」
まだぴりぴりとする感覚が全身に走っている。マツバくんの言うとおりさっきより薄れ、自分に触れているものの感触が戻ってきた。不自然な方向を向いたままの首も、もう少しで動かせそうだ。
「ポケモンのまひは長く続く状態異常だけど、人間相手だしゲンガーが手加減をしたのかな。……ずっとそのままでも良いのにね」
マツバくんは笑顔でそんなことを言うけど、何が良いのか全くわからない。どれくらいの時間こうしてるか分からないけど、もうわたしの精神はくたくただ。マツバくんだってこんなのがずーっと家に横たわってたら困るだろうに。
何を考えてるか、ほんとに分からない。
……あ、もしかしてお仕置き的な意味合いか。「しばらくそこでじっとして反省しなさい!」って昔お母さんに怒られた記憶がある。
「何、考えてるの」
わたしはマツバくんが何考えてるのか、考えてたよ。
「ミナキのこと?」
いや、ミナキのことは考えてなかった。むしろ目の前のマツバくんのことで頭がいっぱいだ。
「ひがー、よ」
「何言ってるか分からないよ」
だよね。違うよと言ったんだけど、歯が抜けた時みたいにしか喋れない。
とにかくまともに喋れるようにならなくちゃ話が進まない。わたしは深く息を吐いて体のしびれが抜けるのを待つ体勢に入った。
時間の感覚は無いけれど、さすがにほっぺたに畳の跡がついてるだろう。
見渡せど、見渡せどマツバくんの家。良い匂いがするから目をつぶって見渡さなくても、マツバくんの家。何度も通って、どこになにがあるかも分かってる。自分で覚えたのもあるし、マツバくんも積極的に教えてくれるのだ。
戸棚の中に貰ったお菓子あるから食べて良いよ。うちの救急箱はここにあるからね、でもけがしたら僕を呼んで。ごめん、はさみ持ってきて。ならある場所知ってるよね……。
まぶたの裏に浮かぶマツバくんはそんな風にわたしを導いてくれた。たれ目な上に声まで優しいマツバくんは今はここにいなくて、ずっと遠くへ行ってしまった。そんな気がする。
「寝てるの?」
アホ呼ばわりされることの多いわたしだけど、さすがにこの状況で寝ちゃうほどアホじゃない。起きてますよのしるしで閉じていた目を開こうとした時だった。マツバくんのセーターの擦れる音と同時に、わたしの頭にそっと重みが加わった。それが指先と手のひらの重さだってこと、目を閉じていてもすぐに分かった。マツバくんに頭を撫でられたこと、何回もあったもの。
急に目の回りが熱くなるのを感じた。怒ってるくせしてどうして優しくするんだ、マツバくん……。ぎゅっと目を目を開くと案の定わたしへ手を伸ばすマツバくんがいた。わたしが起きていたのを確認したマツバくんは、前髪を一度だけ撫でて手を引いた。
「何を見てるのかな」
正座するマツバくんの奥。そこにあった、マツバくんしては珍しいアイテムに目を奪われていたわたしに、マツバくんはそう言った。
「あ……、げー、む、ボーイ……」
「ああ」
「めずらひいな、って……」
わたしがいつもやっていたゲームボーイはもちろんマツバくんの持ち物だ。でもマツバくんの今にゲームをやる時間が無いってこと、わたしは知っている。もっと意外なのは、ゲームボーイがこのマツバくんがいつも寝る部屋にあることだ。
マツバくんはわたしより厳しく教育されているから、わたしみたいに寝る前に布団の中でゲームをやったりしない。決まった時間に寝られるマツバくんに、寝る前の遊びは必要無いはずだ。
わたしの指摘はマツバくんにちゃんと通じたみたいで、マツバくんは苦笑いで答えてくれた。
「うん、珍しいよね。はあのゲーム結構凝っていたから、どんな世界を見てるんだろうって、急に気になったんだ。それだけ。……夜中の暗いところでゲームしたのは初めてだった」
「ひたんら……」
「寝られなかったんだよ、のせいで」
「ほめん……」
暗闇の中でマツバくんの瞳の中に、ゲーム画面の四角い明かりが映る。そんな場面を想像して、わたしは何故かぞくりと鳥肌を全身に抱いた。
「ねぇ、カントーはどうだった? ミナキと一緒で楽しかった?」
マツバくんの問いかけでわたしはカントーへの旅で見たあれやこれを思い出す。問いかけられたから答えを返そうと思ったのに、マツバくんはすぐに次の質問を投げかけた。まるでわたしの返事が聞きたくないみたいに喋り続ける。
「何を見たの? どの道通ったのかな。何か珍しいポケモンは見かけた? もしかしてスイクンとも会えたかい? タマムシに泊まったんだよね。どれくらい町を見た? そこで誰かと出会えた? 外に出ると分かるよね、エンジュの景色って、周りから見るとかなり特徴があるってこと。……、っ」
なぜ急にマツバくんが覆い被さってきたのか、なぜわたしの手を握っているのか。マツバくんの濁流のような言葉を受け止めていたわたしは、一体何が起こったのか全く分からなかった。
「、動いたらだめ」
その言葉とともにぎゅうと手全体が畳に押しつけられる。
どうやらわたしの体が動くようになったらしい。本当に動くようになったのか、まひによる痙攣だったんじゃないのか。それを確かめる術は無い。だって、動いたらしい指先はマツバくんによって捕まえられてしまったのだから。
感覚の薄い左手の指先はマツバくんに握りしめられてる。
まだ自由な右手に力を込めてみれば確かに動かしたい通りに動いて、指を曲げられた。またそれもマツバくんに掴まれてしまったけれど。
左手は右手に、右手は左手に捕まえられて、マツバくんは完全にわたしに覆い被さる体勢になってしまった。
わたしのすぐ上に居るマツバくん。やっぱり近いとなんかドキドキするな。恥ずかしさがこみ上げてきて、わたしは照れ隠しでえへへと笑った。
マツバくんが力を込めたのだろう、急に指先に痛みが走った。
「あいた、たた……」
「ごめん」
「らいじょうぶ」
「痛いの分かるんだ」
「さっきより」
「……、もう動き出さないで」
そんなこと言われても。わたしは生きているから難しい。
「むりだよ」
「無理じゃない。僕がいる。もう、どこにも行かないで」
わたしをぽかんと口を開けた。
動かないのはやっぱり無理。マツバくんが居ても無理。でも、どこにも行かないでここに居るのは無理じゃない。むしろ、居て良いのならここに居たい。
「そうだよ、僕がいるよ。は一人じゃ出来ないこと、たくさんあるだろ」
「そ、だね」
「には、僕がいないとだめなんだよ……!」
「うん。そー、だね」
今度は、マツバくんがぽかんと口を開ける番だった。
「え……?」
「ん? わたひも、そーおもったよ? カントーでいろんなけいけん、したよ。それでいろんなこと、かんがえた」
「………」
「たのしかったけど、さびしかった。さびしかったとき、わたひ、マツバくんといっしょにいたひっておもったんだ。マツバくんがいないの、いろいろたいへんだった」
出発の時から、辛くなることは分かっていた。
実際、呼んでも呼んでもマツバくんが返事をしてくれない景色を歩くのは、わたしがわたしじゃないみたいで、調子が崩れて大変だった。自分から離れてマツバくんと距離をとってみて、感じた胸の痛みはちゃんと本物だった。刺すようで、抓るようで、もげるようで、割れるように、痛かった。
「どじなのは、元からだから、そういうたいへんさはへーき。しょうがない。でもさびしいのは、マツバくんがいないとだめ。はなれてみると、いっしょにいたひっておもうね」
「………」
「うん、マツバくんに会いたいからかへってきました」
一緒にいたいと、会いたいと、聞き間違いなんて出来ない距離で言ってしまった。さっきからずっと心臓がとくとく鳴っている。この音もマツバくんに届いている気がしてならない。
「その気持ちは嬉しいよ。でも、一緒っていつまで?」
「分かんないけど……、できるだけたくさんがいい」
「それじゃ分からないよ。が想像してる一緒って何? 今まで通り、はす向かいに住む幼なじみとして過ごしたいの?」
「ちがうの?」
「……僕にはふたつの答えがある。もし今までの僕たちのままでいたいって言うのなら、ごめん。今まで通りの僕にはもう、なれない」
マツバくんは、ひとつの例え話をしてるんだよね。ふたつの答えがあるって言ったもの。
可能性を話しているに過ぎない。そう分かっているのに、ずきんと胸が痛んだ。
「前と同じように仲良く、楽しく過ごしたいって思うだけなら、もうお互い関わらずに生きていこう。きっと出来るよ。やってみたら案外簡単かもしれないよ。エンジュの世間は狭いけど、はもうどこにでも行けるんだから」
近くに居るのに、関わらないで生きていく。そんなのやだ。
わたしの心を読みとって、マツバくんは眉をしかめる。
「そんな顔しても、お願いされてもだめだからね」
「どうして?」
「どうしてって。こんな風に君を捕まえて、助けようとしないで眺めて、君が自由に動くのを怖がっている時点で、僕はもうだめだよ。は一人じゃ何にも出来ないって決めつけて」
「じじつだよ」
「ううん。僕がどう信じたいだけ。一緒にいたらは不幸になるよ」
「ならないと、わたしは思う」
「なるよ。絶対に。……ごめん、勝手に変わってしまって。今まで通りの僕でいられなくて」
マツバくんの目には悲しさに満ちている。涙が落ちてこないのが不思議なくらいだ。マツバくんは泣かない。けれどマツバくんの突き刺さりそうな感情は伝わってくる。音で表すのならそれは冷たい雨のような「しとしと」だ。しとしとと落ちて訴えられるそれを、わたしはマツバくんの真下で受け止めている。
「“うん、ずっと一緒にいよう”。それがもうひとつの答えだし、僕だってそう言いたい」
「じゃあそう言ってよ」
「でもが思ってるのとは違うと思う」
「それでもいいよ。言ってよ」
「……条件があるんだ」
「うん。なに?」
もしかしたらクリアできる条件かもしれないし。
口を開いては閉じるマツバくん。言っても無駄って思うくらい、マツバくんの言う条件は難しいのかもしれない。それでも。とうてい無理な条件でも、全部を尽くさないでのお別れは、わたしにはできない。
「教えてよ」
大丈夫。エンジュの外で出くわした痛みが、自分の弱さに構うなあがけって、わたしに言ってる。
マツバくんの胸がふるえながら息を吸い込む。逆にわたしは息を止めて、言葉を待った。
「……ただの幼なじみをやめて、の全部が僕のものになること」
女の子の全部を誰かにあげる方法。その方法を、わたしは知っている。
でもそれを、マツバくんにしようと思ったこと無かった。
そしてマツバくんが手に入れるのは、わたしじゃない別の誰かの全部だって、思ってた。
「え、それって……」
思わず出た言葉に被せてマツバくんの声はぶれて響く。
「うん。僕はずっと、そうだったよ……」
今までみたいじゃだめ。そう繰り返された意味が急に頭に染み込んでくる。マツバくんの知らなかった気持ち。
「だから一緒にいたいなら、こ、恋人になって、いつか僕と結婚して」
口を動かしながらマツバくんの顔はもう後悔し始めてる。もう元に戻れなくなってるのをわたしも感じていた。
「と本当の家族になりたい」
ずっと、思い込んでいた。
マツバくんと出会えたことが、人生最大のラッキーな出来事。だからこれ以上の幸せなんて、存在しないんだ、って。
「わ、わたしも。家族になりたい」
答えは決まってる。でもいつも通りみたいにはさすがに言えなかった。声が上擦って、マツバくんの目を見られなくて。
今までのわたしとマツバくんの間ではありえない言葉の響きをしていた。それがくすぐったくて、少し怖くて、すぐにこう付け足した。
「……って、言っても良い?」
わたしからは見えなかったけれど、ぐっと目を擦る仕草をしたのだから、マツバくんは泣いたらしい。泣かせてしまったことに罪悪感があったけれど、その後、雨上がりみたいな笑顔をマツバくんは見せてくれた。
だから、わたしの答えはとりあえず合っていたのだろう。いや合っていなくても、その時マツバくんを笑顔に出来たから、あれで良いのだ。
腕を引っ張られて上半身だけ起きあがる。まだ力が入らないので、もたれ掛かるしかない体を、マツバくんにぎゅうぎゅと抱きしめられる。すり付けられるマツバくんの肌と髪とバンダナと、とにかくマツバくんの全部。ぼーっとする頭で考えた。
本当に、今まで通りじゃなくなった……。
「あのさ……、ただいま」
「……、おかえり」
「マツバくん」
「うん」
「マツバ、くん」
「うん、どうしたの?」
どうもしない。ただ、その相づち、聞きたかったよ。
マツバくんに両手を引っ張られて立ち上がる。
ちょっとよろけたけれどしっかり踏みしめている感触が足にはあった。
「平気?」
「うん。……あ、そういえばマツバくんにおみやげ買ってきたんだよ! かばん、居間に置いてあるううっわ!」
「危ないっ」
立てたから歩けるものと思ったけど、まだちょっとしびれが残っているらしい。転びそうになったところをマツバくんがしっかりと抱えてくれた。
「ごめん、ごめん……」
「ゆっくりね」
「うん」
二人三脚で居間に移動して、わたしはさっそく荷物を解く。
マツバくんへのおみやげは壊れものなので、厳重にしまっておいたのだ。
「じゃじゃーん、これです!」
「………」
「かわいいでしょ?」
タマムシデパートで見つけたもの。それはお椀のセットだ。小さいお椀と少し大きいお椀。絵柄がふたつで一組になっていて、しかも色合いがなんともマツバくんなのだ。
小さい方は山吹色に紫の小花が散っていて、大きい方は薄い紫色に山吹色が散らされている。
「これで一緒にご飯食べれたらいいなーって思ったんだ!」
「………」
自信満々にマツバくんにふたつのお椀を見せつけたのに。思ったより、っていうか想像してなかったレベルでマツバくんの反応が薄い。無いって言っても良いくらいだ。
もしかして外した……? 心臓が嫌な音を立てた。
「あのさ」
「う、うん」
ぽつりと口を開いたマツバくん。
「、めおと茶碗って知ってる……?」
「知らないけど……」
知らない、けど、そう言ったマツバくんの耳まで真っ赤な顔はもうずっと忘れられない。