まっさらなマサラタウンから旅立つ子は、白紙のノートみたいだ。これから色んな場所を見て、たくさんの人とポケモンと触れあって、世界のこと書き込まれていくまっさらなノート。
わたしもカントー地方の旅を経て、言葉では表せない世界のことをたくさん心に刻み込んだ。
近所のおじいちゃんとして見ていたオーキド博士がどれだけすごい人で、博士の研究がどれだけ人の役に立っているのか。たまにサトシたちと忍び込んで遊んでいた研究所が、どれだけたくさんの人とポケモンの未来を繋げていたのか。
研究所でオーキド博士の手伝いがしたい。ポケモン図鑑を埋めて帰った故郷でわたしはそんな、押さえきれない新しい夢を抱いていた。
まっさらなマサラタウンから旅立つポケモントレーナーの心は白紙のノート。
わたしとシゲルのノートは世界を書き込まれて、自分のやりたい道を見つけた。でもあいつの、サトシのノートはいまだにまっさらな部分がたくさん残されているんだろう。
あいつがまだ旅を続けていることが、それを裏付けている。
「!」
オーキド博士は助手さんたちを君付けで呼ぶけれど、近所のちびっこの名残があるわたしのことはと呼ぶ。サトシ、シゲル、みたいにと呼ぶ。
「今日のポケモンたちの健康チェックは頼んだぞ」
「はい」
「特にこの前運ばれてきたピッピが気になる。よーく見てやってくれ。終わったらすぐに報告を聞きたいんじゃが……」
「分かりました。すぐ行きますね」
「頼んだぞ」
預かっているポケモンたちが解放されている、オーキド研究所裏の草原。わたしはいつものファイルを持ち出し、一匹ずつの状態を見て書き込む。良好、良好、治療後の経過良好、良好、すこぶる良好。
「わっ……」
今日の風は強い。何もない草原を吹き抜ける風は大きく膨れ上がってわたしを飲み込む。
書き込もうとした紙が風にめくれ上がって白い裏面を見せつけた。暴れる紙をどうにか押さえ込んで、わたしは書き込む。ピッピ、経過、良好。
風に気圧されてわたしは一旦研究所の中に戻った。一方向に撫でつけられた髪を直しながら一息つく。
「っはぁー……」
つい、ため息みたいな一息が出てしまった。
原因は分かってる。
イッシュ地方の旅を終えたサトシが、次はカロス地方に赴くらしい。それを伝え聞いた日からわたしはモヤモヤし通しだ。
何をしててもサトシの顔とか声が浮かんで、その度に暗い気持ちになってしまう。
新ポケモンが発見されたカロス地方のことを聞けばサトシはきっとそこへ行ってしまうだろうと分かってた。
ここにいないヤツのことなんて知るもんか! あいつのことなんか気にしない! ……そう思っても、まだがきんちょの顔してるサトシが、ひょいっと顔を出す。
満面の笑顔、きらきらしてる目。それはわたしを見た時じゃなく、知らないポケモンに出会った時、勝てそうにないくらい強い対戦相手とバトルしてる時の表情だ。
「、ここにいたんじゃな」
「あ、オーキド博士……」
博士、何の用だろうと一瞬考えて、はたと自分が握りしめていたファイルのことを思い出す。わたし、健康チェックを報告すると約束してたんじゃない!
「す、すみません、今博士のところに行こうと思ってたんです!」
「良いんじゃ、良いんじゃ。それよりも今、サトシからサトシから通信が入ってるんじゃ」
「サトシが……」
「無事にカロス地方についたようじゃぞ!」
それだけ告げてオーキド博士はくるりと背を向け戻ろうとする。サトシのことを告げればわたしが無条件で通信機の前に来ると思ってるんだ。
博士がわざわざ呼びに来てくれたのに、わたしの足はそこから一歩も動こうとしなかった。
「おや? そうか、喧嘩の途中じゃったな」
「喧嘩じゃ、ありません……」
喧嘩なんかじゃない。ただわたしが勝手に寂しくなって不満を抱いてるだけ。
「思うところはあるかもしれないが、顔を見せてやったらどうじゃ? サトシもの顔が見たいじゃろう」
「わたしは見たくありませんから」
「ふむ。ついにの我慢も限界のようじゃな。サトシにもそう伝えておこう」
「そんな……! サトシには何も言わないでください」
「サトシはおまえさんのことを気にしてるぞ」
「何か聞かれたら……、忙しいって伝えてください」
「………」
「すみません……」
わたしはさっと頭を下げるとまた研究所から草原へと出て、まだ強い風の中へ逃げた。
やだな、わたし博士に厄介事を押しつけてる。
どうしても、通信機を介してサトシの顔を見るのがいやだと思った。
サトシの前に出たら不満やもやもやを隠せる自信が無い。一番怖いのはその不満を見抜かれて、わたしの気持ちまで知られてしまうことだ。その先のことは考えることすら恐ろしい。
その日一番遅くまで研究所にいたのは、オーキド博士に迷惑をかけてしまった後悔からだった。快活な性格の博士なら気にしてないし、とっくに忘れてると思うけれど、そうしなければ自分の気持ちが収まりそうになかった。
研究所宛の手紙の整理だとか、明日やる分の準備を前倒しして揃えておくだとか。雑用を黙々と進めて、そして不意に息をつく。
「っはぁー……」
それはまた、ため息みたいに聞こえる一息だった。
「まーた、ため息かい」
はっと振り返るとドアにもたれ掛かる、同じく白衣をまとった幼なじみ。
「シゲル……」
その両手にあるカップからは湯気の立っている。
「ほら飲みたまえ。ノンカフェインだ」
「ありがとう。……カフェイン、入ってても良かったのに」
「こんな時間にカフェイン入りのものなんて飲ませるわけないだろう? あんまり頑張りすぎると周りが心配する。それに、僕も」
シゲルが女の子を期待させるような事を言うのはいつもの事なのでまあ良いとして。研究所の人たちに余計な心配はかけたくない。
わたしはシゲルに素直に頷いた。
「そうだね。うん、これだけ終わらせちゃう」
このファイルを元に戻せば、終わりではないけど作業に区切りがつく。
手早く片づけ、待っていてくれたシゲルの元へ駆け寄る。受け取ったカップはまだ温かい。
こくりと飲み干せば体の緊張がほぐれていく。
「聞いたよ、サトシとのこと」
シゲルの美声ががらんとした研究所に響いた。
この研究所でずっと一緒にいたシゲルはわたしがサトシを好きなこと、とっくに知っている。だからシゲルには、「え、なんて?」と素で返せてしまう。
「喧嘩したらしいじゃないか」
「喧嘩じゃないよ、わたしが逃げてるからぶつかってない」
「こうとも聞いた。が我慢の限界になったって」
そっちは少なからず合っていて、ぎくりと体が強ばった。
「……我慢、してたつもりは無かったんだけどね」
夜更けの研究所、聞いているのは幼なじみのシゲルだけ。そう思ったらわたしの口は勝手に気持ちを語り始めていた。
「サトシはいつまでも変わらないのに、わたしは変わっちゃったんだなぁって思うと、悲しい。サトシの元気な姿は見たいけど、画面越しのサトシじゃ意味がない、って思っちゃうんだよね」
冷えていくカップを強く握りしめる。指先は温かい。カップの中身を口にしたからお腹も温かい。けれど体はどこか暖まりきってくれない。
「……そうだよ、通信画面越しに会ったってサトシにわたしの何が分かるのって思うし、通信画面のサトシじゃ、わたしもう足りないの。まだ、わたしの気持ちを知って貰う勇気が無いくせにね」
サトシに対する感情はいつも身勝手なものになってしまう。
どうしてわたしの気持ち分かってくれないのとか、いつまで旅してんのとか、あなたが新たしい町にたどり着くようにわたしだって変わって行ってるの気づいて、とか。サトシにそのまま言ったら「そんなの分かんないよ!」とか言われそうだい、実際そんな類のものだ。あ、想像しただけで胸が痛いや。
「一体いつかも分からない、会える日のこと思い浮かべて、サトシがポケモンマスターを目指すようにわたしもこの研究所で頑張ろうって決めてるけど、そんな気持ちがたまに虚しくなるよ……」
捨てたいのに捨てられない。それがわたしの、サトシを好きという気持ち。
はぁ~っと、吐かれたため息はシゲルのものだった。なんだか大げさなのがシゲルらしい。
「……何よ」
「馬鹿だなぁ、は。ここで意固地になってすねてたら、鈍感なサトシは君のことなんて忘れてしまうに決まってるじゃないか!」
「そう、かも……」
「会えないからこそちゃんとサトシの心を捕まえようって考えは無いのかい」
「そんな簡単に言われても……」
「簡単なことさ! が素直になれば良い」
それが簡単じゃないんだってば。目線で訴えるも、シゲルは涼しい顔だ。涼しい顔で、次の瞬間爆弾を落とした。
「明日の朝7時、サトシがもう一度研究所に連絡してくる」
「え、え?」
「サトシに言われたんだよ、頼むからを説得してくれ~って。明日に備えて今日は帰るんだな」
「え、えーー!?」
「まあ頑張りたまえ! サァートシくんにもよろしく伝えてくれよ?」
ぽんぽん、と偉そうな感じで肩を叩いたと思ったら高笑いでシゲルは出て言ってしまった。
取り残されたわたしは、握っていたカップより体を熱くさせていた。
何、それ、寝れないじゃない。
冗談じゃなく本当に眠れなかった。
突っぱねてたサトシと、話す。素直になれば良いといったシゲルの声が何度も思い出されて、心臓が収まってくれなかった。
あっという間に朝になって、眠れるわけがない! と吹っ切れたわたしが研究所についたのは6時半だった。朝一番の誰もいない研究所。
静けさがまた、わたしの胸の高鳴りを際だたせる。あと30分もこのままサトシを待ってたら対面する頃にはぼろぼろになってしまうと思った。
約束の30分も前なのに。通信機へのコールは、なぜかわたしが研究所についてすぐ入った。
ばっくんばっくんと心臓が暴れてる。ああもう無理! と思っているのに、気づけばわたしはそのコールをとっていた。
「サ、サト――」
「! 良かった、元気だったか? こんな朝早くにごめんなー! でも来てくれて良かったよ! すごい忙しかったんだろ? なんだか顔色も悪いしな。朝早く本当にごめんな、でも最近研究所にかけてもの顔が見れないから、気になってて、さ……」
「あは、あはは……」
顔色が悪いのは今日たまたま寝不足なだけなんだけど、笑ってごまかしてしまった。
シゲルは素直になれば良いって言ったけど、やっぱり簡単なことじゃないよ。
「あのさ、本当に忙しかったんだよな?」
「……忙しかった、けど」
「良かったぁー。あ、違う違う! が忙しかったのを喜んでるんじゃないんだ! オレに会いたくなくて、忙しいって嘘つかれてるのかなってちょっと考えちゃってたっていうか……」
「え……?」
「実はオレ、すごい不安だったんだ。いつの間にかに嫌われちゃったのかなーって。オレの勝手な思いこみかもしれないって思っても、会えない分どんどん不安ばかり大きくなってさ」
「サトシ……」
「すぐ顔が見られないってつらいなーって初めて思ったよ。オレとが別々のところにいるっていうのは当然のことなのにな」
サトシが思ってもなかった言葉ばかりを言う。それが、わたしの身にも覚えがあることばかりで、わたしはちょっと涙ぐんでしまう。
サトシも不安を感じてたなんて。ちょっとでも、わたしのこと気にかけてくれたんだ。どうしようもなく嬉しい。
「サトシ、あのね……」
ちょっとだけなら言えそうだ。わたしの本音。
「ごめん、サトシには会いたくなかった」
「ええーっ!?」
「だって、わたしが会いたいのは、画面越しのサトシじゃないもん」
恥ずかしいことを、言ってしまった。
もうサトシの顔見られない。それに絶対顔赤い。思わず下を向いたのに、サトシの声色は分かってない。
「え? それってどういう意味?」
「っサトシの鈍感! 顔見るならちゃんと、目の前にいるサトシの顔が見たいってこと!」
「そ、そっか……」
サトシの言葉が気まずく途切れる。わたしが言ったことの恥ずかしさがようやく伝わったらしい。
そおっと目を上げると、画面の中のサトシは頬をかいていた。照れて、わたしの方を見ないサトシ。その輪郭、ほっぺた、鼻筋、えりあしの形で、ほう、と息をついてしまう。
「サトシ、ちょっとかっこよくなったね」
「え!? そうかな?」
「うん」
変わらない変わらないと思っていたけど、こうやって見るとサトシ、少し変わったな。
まだガキのまんま、大人には遠いけど。サトシのまま、形を変えた。それはきっと成長と言うんだろう。
「あ゛ーっ! オレ、どうしたら良いんだ? に目の前で顔見せろって言われたら見せてやりたいって思うけど……! マサラタウンは遠いよ……」
「サトシ。いいよ、本気で悩まなくて。まだ旅の途中なんだって知ってるし、旅したいってはりきってる方がサトシらしいってわたしも思ってるから」
「でも……」
「わがまま聞いてくれただけで嬉しい」
無理な願いなのは分かってて、それをサトシに伝えることに何の意味も無いと思っていた。けれど今やわたしの胸はすっきりと晴れている。
サトシは相変わらず遠いところにいるのに、欲望はかなってないのに、わたしは頑張る力を取り戻していた。
「! なんかあったら言えよな! オレ、全部は叶えてやれないかもしれないけど、真正面からぶつかるから!」
「ありがとう」
受け止めるじゃなくてぶつかるってところがサトシだなぁ。わたしは自然に笑いだしていた。
「変な心配させたみたいで、ごめんね。サトシがそんな風に思ってるって知らなかったから」
「……シゲルには言うなよ?」
「分かった。今度からはちゃんと、通信にも出られると思う。カロス地方の旅の報告、楽しみにしてるね」
またね、はわたしから言い出した。
「ああ! またな!」
通信はもうすぐ終わる。画面の向こうで手を振っているその顔へ心の中で唱える。好きだよ、サトシ。
通信機、キーボードの手前で腕をくんでそこに頭を乗せる。
画面越しじゃやだ。実際に会えなきゃやだ。そこまで言ってもサトシのことだからわたしの気持ちには気づいていない。
好きとか恋とかいう言葉は、サトシの意識になかなか入っていってくれないのだ。それでもわたしの顔、いや全身がぽかぽかと温かい。
サトシの顔が見られて良かった。サトシが少しずつ男らしくなってるのが分かって、なんだか嬉しかった。
一体サトシはどれだけ旅を続けるんだろう。サトシのノートはまだまだまっさらで、わたしの何倍もの景色とポケモンと出会ってもまだ埋まらない。でも、サトシも少しずつ変わってる。たくさんの世界を吸い込んで、サトシは成長してるんだ。
サトシ。たくさんの出会い、楽しんでね。カロス地方の旅も頑張ってね。
まだまだノートは埋まらないみたいだけど、わたしはサトシが大人になるのが楽しみだ。
「ん、……」
通信機の前でわたしは眠ってしまっていたらしい。白衣の上にもう一枚、白衣がかぶせられている。
ふわふわとする頭でその白衣を引き寄せる。わたしのより大きいサイズの白衣だ。
「やぁ」
「シゲル……」
「起きたのかい」
目を細めてわたしを見下ろすのはシゲルだ。彼の普段着姿で気づく。
そっか、この白衣はシゲルのだ。
「全く幸せそうな寝顔をするね。何も聞かなくても分かったよ」
「そんな顔してた?」
「ああ。……良かったな」
うん、良かった。ありがとう、シゲル。そう笑むと、シゲルも笑顔を返してくれる。
その笑顔は彼の嫌みや毒気が消えていて、なんだか寂しそうにも見えた。