サトシと焦る幼なじみ



 ピー、ピー、ピー、ピー。張りつめていた神経を、パソコンの画面からぶっつり二つに切り離すように鳴ったのは、愛用してる目覚まし時計だった。だけど時刻は16時5分前。目が覚めるような時間帯じゃないし、わたし自身もしっかりと覚醒している。
 はて、なぜこの時間に時計を?
 呆然としながらも頭をたたくと目覚まし時計は何も言わなくなった。同時にわたしの頭も停止してしまった。

「えっと」

 愛用の目覚ましなんだからセットしたのはわたしのはず。なるべくたくさん寝たいから、いつも起きるのは朝7時45分。朝に止め忘れたわけでもない。そもそもベッド横にあるはずの目覚ましが、研究所のデスクの上にあるのがおかしい。

「……、だめだ、わかんないや」

 自分でしたはずの行動なのに、意味わかんなすぎる……。
 思ったより疲れてるんだな、わたし。ここ数日、苦しいという思いは少なからずあったけれど、その自覚以上に追いつめられていたらしい。
 訳の分からないアラームのせいで、今まで煮詰まって集中していたのが一気に散り散りになってしまった。時刻は16時ちょうど。一日の終わりも近くて、ここからもう一度集中力を立ち上げる気なんてどこにもない。
 ほんとは、まだ、もがかなければいけないところに自分はいるって、分かってるんだけど。

 自然にパソコンの横に手が伸びる。目をつぶっていても的確にその写真立てを掴むことが出来る。なんたってそこで笑っているのはいつもわたしを勇気づけてくれるサトシと旅の仲間たちの写真なのだから。

「――っサトシ!」

 思い出した、サトシだ。わざわざ目覚まし時計をセットしたのは、16時からサトシと通話しようって約束してたからじゃない!
 そうだよ。今朝は寝不足で意識がもうろうとしてて、それでもサトシとの約束だから絶対に忘れちゃいけないからって、目覚ましをかけたんじゃない。結局すっかり忘れちゃったけど!

「あわわわわ……」

 長い針はもう頂上を越えている。イスを後ろの本棚にぶつけてしまうくらい勢いよく立ち上がる。掴んだ写真立てを元に戻すのも忘れて、通信機のある部屋へと走った。


「あ、さん。今呼ぼうとしていたんですよ。さんに通信です。カロス地方からですよ」
「あ、あ……、はい? はい!」
「保留にしてあります。それじゃあ、ごゆっくり」
「え? はい……」

 映る保留画面にわたしは駆け寄った。良かった、切られてない。サトシと繋がってる。そのことに安心しきってしまって、先に通信を受け取った研究員の含みある笑顔の意図に気づく余裕はなかった。
 一度だけ深呼吸をして、すぐに保留を解く。何日かぶりに会えたサトシが何か言う前にわたしは頭を下げた。

「サトシごめん! この前はわたしの都合で日を改めてもらったのに……、こんな、遅くなっちゃって! 本当に、ごめん……!」

 そうなのだ。この時間を伝えたのはわたしだった。
 本来は先週にサトシから連絡を貰えていて「新しい町に着いたんだ!」って、サトシは日焼けした頬を輝かせてた。なのにわたしにはとても話していられる余裕がなくて、泣く泣く通信を切ろうとしていた。
 あの時サトシが「じゃあの空いてる時間っていつなんだ?」ってごく素朴に聞いてくれたので、わたしは今日のこの時間にサトシの時間を貰うお願いをしたのだ。
 だというのに。遅刻なんて……。せっかく5分前のアラームまでかけたのに気づかなかった。後悔が渦をまく。
 サトシ、怒ったかな。どんな顔してるんだろう。下げたまま、頭が上げられない。だけどすぐに返ってきたサトシの言葉は、顔をあげなくても分かるくらい、カラッとした言葉だった。

「気にすんなって!」

 そのたった一言で、あふれる何か。その一言が、わたしに下唇を強く強く噛ませた。

「怒って、ないの?」
「だってオレ、全然待ってないぜ」

 わたしを救う言葉をさらっと、なんでもないように言う。それがわたしが知っているサトシだ。

「それより、この前は本当に大変そうな顔してたけど、今は元気そうだな!」
「う、うん。そうだね」

 サトシの言う通り、多分前よりは顔色が良いことだろう。約束に遅れるからって全力疾走したおかげもあって、久しぶりにわたしは自分の血がどくどくと巡るのを感じていた。少し身体が穏やかに熱い。

「あれ、ピカチュウは?」
「ピカチュウならデデンネたちと遊んでるよ」
「そうなんだ?」
「誘ったんだけどなー」
「ちょっと残念」

 返事をしながらわたしはイスに腰掛ける。ちょっと座り心地が悪いのは、目の前の画面で笑うのがサトシだからだろう。

「えっと、元気か?」
「こっちで預かってるポケモンたちなら大丈夫。みんな元気だよ。わたしが会いに行くと飛びついてくるくらい。サトシのポケモンだけあって、ほんと、元気いっぱい」
「そっかぁ! いつもありがとな!」
「ううん。これくらいなんてことないよ。でも、もしそんなにみんなのこと気になるなら、パソコンの方に定期的にデータを送信するようにしない? 前にも言ったけど、そっちの方がサトシの好きな時にポケモンたちの状態が分かるよ?」
「あー、それはいいや。オレ、難しいこと分かんないし」
「そう?」
「そうそう! こうやってに伝えてもらった方が分かりやすくて助かるよ!」
「あはは、サトシらしい」

 わたしが思わず笑うとサトシも「だろ?」と歯を見せて笑った。
 複雑そうなこと頭を使いそうなことに向き合ってられないのもサトシらしい。でもわたしが思わず笑ってしまったのは、どちらかというとポケモンたちのことは数字を見るより自分で感じたい。サトシのそんな真っ直ぐな部分が伝わってきて笑ってしまったのだ。

「みんなのこともそうだけど……、は?」
「え?」
「最近はどうなんだ?」
「うーん……。どう、なんだろう……」
「調子悪いのか?」
「えーと。頑張ってるよ。サトシも頑張ってると思うけど、わたしの方も今頑張りどきなんだ」
「そっか」
「うん」

 ふと、そこで会話が途切れる。
 目的なく約束した時間だったけれど、わたしのことを聞かれると思っていなかった。通信機の前、体重を預けるイスがまた居心地悪く軋む。

「どうしたんだよ、急に黙って」
「うん……」

 だって、「どう?」と聞かれて答えられるほどの何かをわたしは持っていない。

 本当はここに座って、サトシと喋っていることが少し後ろめたかった。
 本を読んで、レポートを書いて。この研究所では他にやるべきことなんていくらでもある。
 サトシと、自分の好きな人と話すことはやっぱり楽しい。楽しいからこそ、作業を一時中断してしまってることへの不安が立ち上る。
 今サトシの時間を貰ってるんだから、それ以上に優先させなきゃいけないものは見つからないはずなのに。わたしの心はぶらんぶらん揺れている。

「……本当は」
「うん」
「ちょっと、ううん、結構、行き詰まっていて」
「そうなんだな。研究がうまく行かないのか?」
「ううん。もっと、わたし自身の問題なんだ」

 画面の中でサトシは真剣な顔だ。それもすごく。意識をすべて傾けて、わたしの話を聞いてくれている。
 けれどわたしは口ごもる。だってここから先は、とても弱虫なわたしの事を自分の口から伝えなきゃいけない。

「……ここで話を止めたら、サトシは怒る?」
「怒ったりはしないけど。話しづらい事なのか?」
「うん。すごくかっこわるい話だから」
「かっこわるいって? が悩んでること? 悩むことは全然かっこわるくないって! それにオレはが困ってるなら力になりたいって思うぜ!」
「サトシ……」
「まぁ今はカロスにいるけど……。でも、話を聞くことは出来るぜ。喋るだけでもすっきりするんじゃないかって思うんだけど、どうかな?」

 頬をかりかりと掻く仕草。だけどサトシはもう話を聞く体勢だ。右を見て、左を見て、う-っと迷ってから、画面を見るとやっぱりサトシはわたしを待ってくれている。
 ため息が出た。諦めのため息だ。
 答えが出なくてもいいや。むしろずっと悩み続けても見つからない答えは話すだけで見つかるはずがない。でも話して、ただサトシから少し元気を分けて貰いたいと願って、わたしは口を開いた。

「わ、わたしは」
「うん」
「わたしは、オーキド博士の役に立ちたくてここで働かせてもらってる。けど、本当はわたしに出来ることなんて無いの。本当に、何にも。他の研究者の一人分にもなれてない。なのに白衣を着て、研究所の設備を使わせて貰って、ここに置いて貰ってることがすごく申し訳ない」

 事のきっかけはシゲルとの会話だった。ふとした世間話からシゲルが掲げてる研究に話が移って、わたしは圧倒された。同じ町から同じ年齢で出発した同士なのに、シゲルはわたしの何倍もポケモンたちの事を深く考えていたから。
 この研究所の一員としてシゲルは本物で、わたしが着ている白衣ばっかり、飾りに見えた。

「シゲルみたいに頭が良いわけでも無いのに、オーキド研究所で働きたいなんて、元から無謀だったんだよね」
「でも、は研究所で働きたいんだろ?」
「すごい、サトシ。ほんとその通りなんだ。うん。自分のバカさがイヤになるけど、やっぱり諦めきれないんだ。だからちゃんとオーキド研究所にふさわしい一人前の研究者になりたいって思ったんだ。思ったんだけど……、やっぱり難しくて。頑張りたいんだけど、何を頑張ったら良いかも分からないの。やらなきゃいけないことがたくさんありすぎて」

 シゲルや、一緒に働く研究者の人たちに近づくために、とにかく頑張らなきゃいけないことは分かる。勉強して、知識を蓄えて、研究と実験を重ねて、そしてひらめかなくてはいけない。
 研究者の人たちは謎を解き明かすために途方もない努力を注いでいる。けど、そのスタートラインにすら立てていないのがわたしなんだ。

 また、ため息が出た。

「……わたしの強みって、なんだろう」
「オレはポケモンを観察する力だと思うぜ!」
「………」
「なんだよ、その顔」
「あっさり答えが返ってきすぎて。びっくりした。わたし、ずーっと悩んでたのに」
「ごめん」
「いや、謝ることじゃないと思うけど……」

 ポケモンを観察する力。サトシからも思ってもいなかった言葉に、わたしは戸惑っていた。

「ねえ、サトシ。わたしそんなにたくさん観察してるのかな?」
「だって研究所で預かってるポケモンってオレのじゃないんだよな? あんなに広いところにたっくさんのポケモンがいて、みんなのチェックをしてるのがなんだろ?」
「そう、だけど……」
「それだけでもすごいって! しかもさっきだってすぐオレのポケモンのことを教えてくれたし!」
「そんな……。ただ毎日やってるだけだよ」
は自分じゃそう思わないかもしれないけど、オレはのすごいところたくさん知ってるぜ!」

 拳を握りながらサトシは熱く語る。サトシ、わたしのことそんな風に思っていたんだと知る度に顔が熱くなる。嬉しい、嬉しいけどそれ以上に恥ずかしい。

「そ、そんなにすごくないよ?」
「じゃあこれからすごくなれば良いだろ! って、あれ? どうしたんだ、?」
「ううん、なんでもない」

 さすがサトシ。照れ隠しの言葉が全く通じていない。がっくり肩を落とすと同時に「そんなことないよ」って言葉を待っていた自分がまた恥ずかしくなる。

 ……でも、そっか。わたしが研究所で毎日やっているのはポケモンたちの健康のチェックだ。状態、体調、機嫌、毛並みや肌の様子……。そんなことを毎日記録している。
 一人前になりたくて足りないものばかりを数えて追いかけていた。今わたしが持っているものなんて、見る余裕をなくしていた。だけどわたしには、このオーキド研究所の中でも誰にも負けないくらい多くポケモンと触れ合える時間を貰っている。

「……、そっか。わたし、勉強っていう枠組みにとらわれていたかも。サトシ、ありがとう。少しだけ前が見えてきた」
「お、その調子だ!」
「うん……!」

 未来はまだ見えない。結果が出る保証はない。でも、頑張る方向が決まった。それだけで心はずいぶんと軽い。
 通信時間を見るともう一時間以上も話していたらしい。サトシと過ごす時間はあっと言う間だ。

 もっとずっと、話していたいのにな。
 いつだって、サトシの存在が近くにあるのはほんの一瞬。冒険へ、新しい出会いへと一直線だから捕まえる隙なんて見せてくれない。
 そんなサトシに、わたしはいつもちょっぴり不満を抱いている。

「サトシ、あのね」
「なんだ?」
「大好き」
「え?」

 そういってわたしは手の中にあるものを見せた。それは遅刻に気づいて走ってきた時から握りっぱなしだった、写真立てだった。偶然持ってきてしまったそれで、わたしはわたしの秘密を守る。

「わたし、大好きなんだ、この写真。サトシ、ありがとう。この写真を送ってくれて」
「オレもの写真大事にしてるよ。これを見るともオレのこと応援してくれてるって、思い出せるよ。まぁ、シゲルのことも同時に思い出すから、……燃えるっちゃ燃えるな」
「そっか。でも、うん。わたしサトシのこと応援してるから、思い出してくれて嬉しいな」
「オレもだ」

 じゃあもう良い時間だね。そう告げるわたしの声は少し水っぽい。

「サトシ、頑張ってね。気をつけて旅をしてね。無茶したらだめだよ。あとジム戦も応援してる。わたしに出来ることがあったら、何でも言ってね」
も! 頑張れ! 早くシゲルに追いつけるといいな!」
「うん!」
「じゃあな!」
「うん、じゃあね」

 サトシは胸の前でひとつ、わたしは両手でガッツポーズをして、画面越しでお互いに笑い合ってから、それから本当にさよならをした。

 近くに感じていたサトシがぷっつりといなくなる。また世界が静かになる。でも寂しさはあまりない。頑張れ、というサトシの声が胸の中で何度も何度も反響していた。





 それにしても、サトシはなんであんなことを言ったんだろう。そんなつもりはなかったんだけど、わたしが何か勘違いさせるような言い回しをしちゃったのかもしれない。そうとしか考えられない。じゃなきゃ説明がつかないほど、それはわたしにとっては驚くような言葉だった。

「わたし、シゲルに追いつきたいなんて、言ったっけ」

 言ってないと、思うんだけどな。