シゲルと運命の人の幻



 シゲルと一緒に帰ったわが家は外と同じように真っ暗で、予想外の出来事にわたしが状況を理解するのに10秒以上はかかった。

「シゲルごめん、今日うちお母さんいなかった」

 すっかり忘れてた。呆然と立ちすくむわたしをシゲルは追い越して、家の中に入っていく。
 誰もいないわが家の中から振り返ったシゲルは、すごいイラッとした時の顔をしてる。肩をすくめながら言われてしまった。「そんなことだろうと思ったよ」。どうしよう言い返せない。シゲルを誘ったのもセンチメンタルな気持ちになったとかいう、いい加減な勢いだったし。

「忘れてたー……。どうしよう、お腹すいた。何か食べるもの……」

 今から急いでつくっても良いんだけど、もはやわたしの空腹は限界だ。デスクワークは意外にお腹が減るもの。シゲルはわたしの何倍も頭を使っているので、ぺこぺこに違いない。
 冷や汗をかきながら冷蔵庫を漁っていると冷えきったお鍋をひとつ見つけた。

「あ、カレーあった。シゲルカレーで良い? 良いよね?」
「君の家は客人に残り物を出すのかい」
「お客様はお客様でもシゲルだし。でもたぶん美味しいよ。わたし作ったし、一晩置いてあるし。……やっぱ何か食べに行く?」

 じっと見上げるとシゲルは、やれやれといった様子で上着を脱ぎ始め、シャツの首もとをゆるめる。勝手に雑誌を手にとってイスに座る。
 どうやらカレーで良いらしい。プライド高いせいか知らないけど、シゲルはいちいち回りくどい返事をする。

 はきだしの窓を開けると、本日のひなたぼっこを終えたわたしのフシギバナがのっそのっそと家に上がってきた。

「君のフシギバナは相変わらずだなぁ」
「うん、相変わらず」

 正真正銘、わたしが所有するポケモンなのに。旅が終わった後のフシギバナはものすごくわたしを放っておくようになった。毎日研究所に通うわたしについて歩くこともなく、ふぬけたように家の庭先で毎日光合成をしている。

 お客様のようでお客様じゃないシゲルに、ポケモンフーズを渡して、わたしはテーブルのセッティングをした。何も言わないままポケモンフーズを手渡したけどシゲルはちゃんとフシギバナの相手をしてくれている。
 フシギバナがご飯に集中し始めたから、次はわたしたちが食べる番だ。あとはカレーを暖めて盛りつけるだけ。

「シゲルお鍋かきまぜといて。わたし着替えてくる」
「仕方がないな」

 駆け足で自分の部屋に戻り首もとのゆるいシャツと締め付けない長めのスカートに着替えて降りていくと、シゲルは全ての盛りつけを終えてくれていた。
 机には湯気のたつ料理が並んでいる。

「すごいシゲル。芸術の才能もあったんだ」
「はぁ?」
「カレーの盛り方褒めてるの。ご飯とルーの黄金比」
「くだらないことを言ってる場合かい?」
「うん、食べよう!」

 早速スプーンをとると、すぐにわたしたちは無言になってカレーを食べた。カレーの味については特に何も思わなかった。ただ目の前のカレーを食べるシゲルを見て、やっぱり一口が大きいなぁとか、消えていくスピードにシゲルもお腹空いてたんだなぁ、とか考えていた。食べながら時々、ふふっと変な笑いがこぼれた。

 カレーのだいたいがお腹におさまって、水を飲んだ時だった。

「僕の方が断然モテていたんだけどなぁ……」
「はぁ?」

 急にそんなことを言い出したその顔は、今日研究所で、どうかしちゃってたシゲルを思い出させる表情だった。元に戻ったと思っていたのに、再発したらしい。

「そこまで一途に思われるサトシがやっぱり羨ましいよ」

 ようやく話が掴めた。なんだ、サトシの話をしてたのか。
 じゃあその、ぼやけた顔もサトシを思い出していたのかな、と考えたけれど、そっちはあまりしっくり来ない回答だった。サトシのことを思い浮かべてる時、シゲルはもっと強い感情を顔に浮かべている。

「シゲル、ほんと贅沢なやつ。シゲルの方があんなにたくさんのお姉さんに囲まれてたじゃん。そうだよ、シゲルにはいっぱい構ってくれるお姉さん、いたじゃない」
「それは昔の話だよ。君も分かっているだろ?」
「そうだけど……」

 シゲルとサトシがライバル同士だったことはもちろん知っている。何かにつけてお互いを比べ合っていたことも知ってる。それはほとんどの場合で、シゲルが勝っていた。元気が一番の取り柄なサトシ。器用でセンスが良くて、何かと恵まれていたシゲル。二人の勝負はいつも優勢なのはシゲルで、上からサトシを見下ろすような言動をしていた。
 だからこそ、どっちがモテるかなんてことまで、シゲルが気にしているとは思わなかった。そして悔しがるなんて。いや、気にしていたからこそ女の子ばっかり乗せた車でサトシの家の前に乗り付けたりしてたんだよな。

 あの頃のシゲルは本当に調子乗った鼻につくやつだった。あの頃のシゲルが、わたしは正直嫌いだった。
 サトシが好きだったから、サトシをバカにするシゲルが嫌いだったのか。それとも単に周りをバカにして見下すシゲルの性格が嫌いだったのか。どちらかは分からない。
 サトシへの気持ちを自覚する前の、今よりもさらに幼稚なわたしの感情。今思い出してみても、サトシをけなされた怒りとも、単純な嫌悪とも、どちらでも当てはまりそうだった。

「どうしたの。急に綺麗なお姉さんが恋しくなった?」
「分からないやつだな、君は」
「何が? 一途なお姉さんもきっとどこかにいるよ」
「………」
「ていうか、シゲルはちゃんと、シゲルのこと好きになってくれる人が現れるよ。どんなお姉さんかわからないけど。シゲル自体は、顔も頭も、意外に中身もなかなか良いやつだしさ」

 一言、「意外には余計だ」と挟んでから、シゲルは続けた。テーブルに肘をついて、斜めに構えた姿勢だった。

「でもその人がみたいな人とは限らないだろ」
「な、なんでわたし?」
「さぁ? 日常的に会う上に、平凡だからかな」

 今度はわたしが「平凡は余計だ」と一言挟む番だった。

「僕の周りに綺麗なお姉さんはたくさんいた。けれど、みんな長く付き合ったわけじゃないのさ。気づいていなかったのかい?」

 そうは言われても。わたしはとにかくたくさんの女性がシゲルの後を追いかけていたことしか覚えていなくて、お姉さんの区別は今もついていない。お姉さんのその中に同じ女の人がいたような気もするし、毎回違った気もする。

「だからふと思うんだよ。人生で一番長く一緒にいるのは、君みたいにバカでも一生懸命に話を聞いてくれる人なんだろうな、ってね」
「そこはふつーにシゲルの研究を理解してくれるような、頭の良い人狙えば良いと思うよ……」

 でも確かに。シゲルの言葉には頷いてしまう。
 わたしが好きで好きでたまらないのはサトシだ。間違えたりなんかしない。でも、わたしがサトシと一緒にいる想像はかけらもできない。わたしはいつだってサトシを見送って、サトシと離れているのが当たり前。気持ちと視線が一方通行なのも、ごく自然なことになってきた。そんな日々をずうっと繰り返してきた。

 ほんと、万が一、シゲルにとって不運な話だけど。今の時間がこのまま続いてしまえばわたしの横にいるのはシゲルかもしれない。
 不思議と、そんな未来はスムーズに想像できた。シゲルとだって離れて別々の道を歩いていた時間があったのに、今こうしているのがとても自然なかたちに思えてならなかった。

 サトシが好きなはずなのに、サトシとの距離にわたしは何も起こさないで、時々それに安心すら覚えながらオーキド研究所にいる。
 シゲルの言う通り、人生で一番長く一緒にいるのは、家族を除けば、他ならないシゲルだ。

 片思いの時間がずいぶん長いせいか、わたしの恋のかたちは普通とは違うかたちになってしまったのかもしれない。
 嫌いではないけど、恋してない人といるのが自然に感じるなんて変だ。わたしとサトシとシゲル。三人の人間の狭間でいつの間にか、かたちが歪んでしまったのかもしれない。
 決して誰も悪くないのにね。強いて悪を挙げるなら、それはまぎれもなくわたし。サトシを好きになってしまったわたしが悪の始まりだ。

 人生で一番長く一緒にいるのは、誰だろう。考えると夢はまだわたしの胸の中に存在している。けれど目の前に座る人のひんやりとした笑顔を見て、つきんと胸が痛んだ。