アポロが一瞬見せただけの住所。その曖昧な記憶でもランスは無事に目的の場所へたどり着くことができた。
思い返してはあれは理不尽だと悪態を突いていたランスだったが、アポロが住所を詳しく見せなかった理由もわかる気がした。
そこらに立つのたった一つの邸宅だったからだ。それも高く厚い塀と垣根を蓄えた閉鎖的な屋敷は、見る者が見ればすぐに分かる。それは堅気の人間では持ち得ない所有物だ。明るい基調だと言うのに人が覗けるような隙間はいっさい無く、門構えも厳つい表情をしている。家にまで押し出されているあの男の性格を思うと、ランスは胃がムカムカしてくるのを感じた。
多分に緑を飼う庭を横切る。苔生した庭にはじっとりといやな湿気が満ちていた。
ここに何があると言うのか。ここまで来ても見当のつかない“重要な頼み”に多少いらつきながらランスは敷地内へ入っていった。
灯りが無く、一見無人のように見えたその家だが、インターフォンを押せばすぐに反応があった。パタパタと雨の降り始めのような軽い足音が中から聞こえてきたのだ。
(人……?)
音を出すという不用心さ。一般人の臭いにランスが眉をしかめた時だった。重そうな扉が数センチ開く。円らな目がその隙間からのぞいた。
「あの、こんにちは」
「……こんにちは」
耳をふるわせた音にランスは呆気にとられた。届いたそれは細っこい未熟な声帯からの音だろうと分かる、高くまるい音。子供、それも幼い子供の声だった。
「………」
「………」
「すみません、開けるのてつだってくれますか? このとびら、すっごく重いの」
言われたままにノブを引くと、声の主が飛び出てくる。叩かれた粉のような登場の仕方だった。勢いのまま彼女はランスの膝におでこをぶつける。
首をほとんど直角におらなければならないほど、予想以上に小さな子供にランスは未だ口を閉じることができない。
よろよろと体勢を整えた彼女は少しませた顔で挨拶をした。
「いらっしゃい、ランス。お兄ちゃんから聞いてます」
お前は誰だ、年上を呼び捨てにするのか、お兄ちゃんとは?
何から口にしようか迷ったのは久しぶりだ。初対面の少女の前ながら、早々にランスは舌打ちした。
「私は何も聞いていないのですが」
「……っぷ」
「何がおかしいんです」
「だって、ランスの口、ぐにゃぐにゃ!」
無意識のうちにとがっていた口元が、何故か少女の壷に入ったらしい。キャアキャアと笑う少女にランスは舌打ちをする。と、また少女が笑い声を高める。
なんだこの子供は。耳に痛い笑い声は不快以外の何ものでもなく、ランスがその揺れる頭を叩いてしまおうかと思ったときだった。
「ご、ごめんなさい。わたし、アポロお兄ちゃんの妹です。っていいます」
ひとしきり笑った後らしい涙目のまま、はランスに向き直る。
「お兄ちゃん言ってた。新しい、ランスという有能な家政夫が今日から来るって」
「家政夫、ですか」
「はい、家政夫です」
「………」
顔をしかめただけでとどまったが、ランスの腹の中では馬罵雑言が飛び交っていた。
何が重要な頼みだ! 何が私に権力を認めろついてこい、だ!
あの男、私を雑用係に使うつもりだったのか! それも身内のお守りだと!?
くだらないことに時間を使わせやがって!!
通った鼻筋が歪められていることの意味は、には分からなかった。
「えっと、よかったら中に入ってください」
「いえ、私は」
こんな馬鹿らしい仕事引き受けてられるか。それがランスの本音だった。
断りの入りそうな空気には気づかなかったが、身を引くランスの黒衣には思わず抱きついた。そして綺羅星のように無垢な瞳で引き留める。
「行かないで!」
「………」
「ランスはロケット団の人なんでしょう? ここにロケット団の人がくるの、はじめてなの!」
を振り払おうとした手が、ピクリと止まる。いくつかのフレーズがランスの興味をとらえた。
「……それは本当ですか? ロケット団が来るのは初めてというのは」
「ほんとうです」
「でもここは、アポロとネイサさまの家なんでしょう?」
「うん。だけど、誰も来てくれないの。サカキさまも来てくれない」
「それはそれは、寂しい限りですね」
「うん。アポロお兄ちゃん、友達いないみたい」
今度はランスが笑わせられる番だった。の物言いもそうだが、アポロの隠し物を見つけられたということが愉快だった。
彼の承知の上ここにたどり着いたとは言え、ここは他人が知らないアポロの領域なのだ。人避けをしていたのには何か理由がある。彼が隠さなければならないものとは? 一番安直な答えは、彼の弱みだ。
「ここにはあなた一人ですか?」
「うん、一人」
「そうですか。なら寂しいでしょう。帰るわけにはいきませんね」
「っやった!」
深まってしまう笑みで告げると、は飛び上がって喜んだ。子供一人ならどうとでもなる。家の中からアポロという男について知るのも悪くない。
上がり込むランスの目にはふつふつと燃える野心が宿っている。アポロの弱みの手がかりが近いと思うと、ランスの胸で黒紫の炎が踊る。昨日言いくるめられた恨みのせいもあった。廊下へと一歩踏み込んだ瞬間、ランスの咥内でよだれが溢れた。