悠々と読書を楽しんでいたランスだったが、次第に集中力が切れかかる。窓の外の光では活字を追えないほど陽が暮れ、自身の横には今日消化しきった本が積んである。その本の束は上等と言える冊数に達していた。そして手元の本もあとがき解説にさしかかっている。
切りが良いと踏んだランスはふう、とひとつ息をついてから本を片づけ始めた。
数冊を自分の持ち物として携え、アポロ邸の玄関を開けたときだった。
「……、あ」
ランスは思い出した。この家の幼い家主の存在を。
彼女を狭いクローゼットの中に閉じこめたことはすっかりランスの頭から抜けていた。一体どれくらいの時間を彼女にクローゼットの中で過ごさせたのか、ランスはもう思い出せない。
彼女のこと、思い出さなかったふりをして帰ろうか。そう数秒迷ったが、ランスは開けかけた玄関扉を閉めた。
クローゼットのある部屋に戻ると、何も変わらないバリケードの張られたクローゼットが沈黙を続けていた。開けようとした形跡は無い。ランスにとってそれは意外な事実だった。自分ならばいやがおうでも逃げだそうとするものなのに。
ああそうか。あの脳天気な子供のことだ、どうせクローゼットの中で寝てしまったんだろう。
そう理由が不明確な合点をつけてランスは自らで作ったバリケードを崩しはじめた。
椅子や机やらでバリケードを作ったことをランスは後悔しながら、クローゼットの前を片づけ始める。自分で作ったものを崩す作業はひどく面倒だった。ひとりを外へ出すため労力を吸い取られるのが惜しい、やめてしまおうかと迷い始めたときだった。
「ランス!」
外の気配に気づいたのだろう明るい声が響く。
「ランスだよね?」
もう一度ランスを呼ぶの声。
溌剌とした少女の声にランスは戸惑った。の発したその音は、自分を閉じこめた人間を呼ぶのにふさわしい色では無い。ランスの頭の中にあったのはもっと、こちらを疑い憎むの声色だ。
少しクローゼットの前に出来た隙間。恐る恐るランスはその隙間のぶんだけ扉を開ける。
中には間違いなく、でも少し疲れたようなが居た。クローゼットの奥からこちらを見つめている。
わずか、色の悪くなった唇では平然と言った。
「遅かったね。、待ってたよ」
「………」
待っていたのか。この薄暗いクローゼットの中で、自分がいつか開けにくると思って。怒りのままあなたを閉じこめた自分のことを。
「何故そんなことを思ったんです? 何故、私なんかを待っていたんですか?」
「を迎えにきてくれるのはランスしかいないよ?」
乾いた唇のまま笑ったは、自身の表情でプツリと唇を縦に切った。そのの様子がランスに別の方法を考えさせた。
相変わらず百科辞典を眺めている。
純粋な好奇心が秘められた瞳はもうランスに話しかけてこない。
「」
「………」
「! 呼んだらこちらに来なさいと言ったはずです」
「はぁーい」
「返事を伸ばすのはやめてください」
「はい」
ソファの横に立った。
ランスはひとつ、自分の腰からひとつのモンスターボールを取り出した。
何の変哲も無い一般的なモンスターボールをはしげしげと見つめる。ランスが眉をしかめながらそのモンスターボールを彼女の方へ傾けると、その紅白の球は鈍く光った。
「何か分かりますか」
「ううん」
「中身はあなたが欲しがっていたチルットですよ」
「ちるっと?」
「チルタリスの進化前です。進化させるまでの面倒はあなたが見なさい」
ランスが考えた彼女を閉じこめる以外の方法で、彼女を追い払う方法。それは彼女を外へとき放つことだった。
彼女をクローゼットを押しやったことで得た静寂は良いものだった。ランスの集中力を強く高めた。けれどクローゼットを開けた瞬間のあの言葉と少し影をおったの瞳が、ランスに莫大な量の疲れと、呆れと、一匙の罪悪感を与えた。
痛ましいを薄暗いクローゼットの中に見たとき、ランスは悟ったのだ。この方法では自分自身をも削るような静寂しか得られない。
それよりはこうしてポケモンを与え、さっさと外に追いやってしまおう。それがランスの新たな策だった。
「チルタリス!?」
「その進化前です」
「うわああああすごい!」
モンスターボールを目を輝かせながら見つめ、はしゃぐの声がランスの耳をいらつかせる。
また、クローゼットに閉じこめますよ。そう言おうとした口をランスはとっさにつぐむ。つい先日彼女にこの言葉はなんの効力も持たないことを知った。
「進化!? するの!?」
「あなたがさせるのです」
「させるの!?」
「同じことを何度も言わせないでください。バカじゃあるまいし」
通常、10才以下の少年少女がモンスターボールを持つことは出来ない。が、そんな一般社会のルールなどロケット団のランスにとって、またロケット団員2世であるにとって知ったことではなかった。
ランスの手の中から青い鳥の入ったモンスターボールを奪うとはさらにまた興奮を高める。
「ランス、外行こう!」
「そうぞあなたひとりで行ってください」
「じゃあ行ってきます!」
「勝手にどうぞ」
「あ、あの、ドア開けて!」
「はぁ……」
玄関の扉は相変わらず、一人では開けられないようだ。
面倒に思いながらもに早く出ていってもらいたいランスは渋々玄関へ向かう。
ランスが片手で開けた扉から庭へは飛び出していった。そしてすぐさまボールを空へ投げる。
のこうるさい歓声が届く前、静寂を確保するべくランスは早々に扉を閉めたのだった。