遅れてこの家に来たぶん、体感が狂ったのかもしれない。
直に夜を迎え、気づけばランスは憎らしいはずのアポロの遅い帰宅を迎えていた。
悠々と上着を脱ぐ彼に、の体調を告げようかランスは一瞬沈思した。
アポロは何かにつけてを家族だ、愛していると言う。そのくせに、こうしての本当に大変な時には仕事に身を捧げているのだ。その愛しているものがどうなっているのかなど知らずに。
「なんですか、難しい顔をして。この前の話がそんなに嬉しかったのですか? まあ断る理由なんてありませんよね。上司の親族と結婚、そして私のお気に入りになれます。メリットだらけです」
「……貴方のそういう発想、キモいです」
「おや。随分俗っぽいというか、若者の言葉を使うんですね」
「貴方ほど気取り屋では無いので」
ふふふとアポロの唇がめくられる。濃いくまを負った目が楽しそうに細まる。疲労の滲む灰色の顔が浮かべる笑みには凄みがあった。
「なぜ、私なんですか」
「さあ」
アポロは軽い調子がランスの神経を逆なでする。問題は決して一言で片づけて良いものではないはずなのにアポロの唇は軽かった。
「強いて言うなら外見ですかね」
「顔で選んだ、と」
「はい」
ランスは耳を疑ったがアポロは調子を崩さない。至ってまともな顔をして言葉を続ける。
「見目が良い男ならもうるさく言わないかと。は意外に面食いなところがありまして」
ランスが絶句してる間にアポロは珍しく酒を飲み始めた。
次々とアルコールを煽れば土色の肌にようやく人らしい色が差してくる。
「……、なるべく同情をしない人間が良いと思ったのです」
酒が入って口がよりなめらかに動くようになったようだ。首もとを緩めながらアポロはすらすらと語り出す。
「ランス、もしおまえがとの婚約を戸惑っているとしたら、その理由は同情に違いありません。“年の離れた男と婚約させられるなんて可哀想だ”、“彼女の人生をこんな独断的な理由で壊して良いのか”。こんなところでしょう。性的嗜好について誤解を受けるという心配もあるかもしれませんが、それは絶対に取り除かなくてはならないデメリットでしょうか? いいえ違います。引き替えに得るものを考えれば大したことではありません。強引な婚約に生じる最大の障害とは。それは当人への同情です」
口を挟む暇もないささやかな演説。アポロは上機嫌にランスにもグラスを取り出し酒を注ぐ。
黙っていたランスが唇を奮わせながら言う。
「貴方は随分妹を可愛がっているように見えました。その妹を決して愛さない男と結婚させるのが、貴方の望むことだと言うのですか?」
「ええ」
さも当然とアポロを満面の笑みを浮かべる。そして淀み無く言い切った。
「を愛するのは私だけで十分です。他の人間なんて要りません」
差し出されたグラスの中にはつるりと光る酒。
疲れが酔いを加速させたのだろう。アポロの顔はすでに赤い。
「そうですか。なかなか興味深いことを聞きました」
「ランス」
「なんですか」
「おまえが明確な意志表示をしないと、話は勝手に進んでいきますよ」
「そんなことは十分承知してます。今夜はどうも。アポロもよく休んでください。今の貴方の顔、相当酷い」
黒いコートを羽織る。まだ雨は降り続いているようだ。家の中には届かないまでも風吹く音がする。
最後にの調子を見ていこうかとも思ったが、アポロからの話を結局蹴らなかったという事実が、ランスを全てを投げ出したくなるような気持ちにさせたのだった。