なんとなくの反応を予想していたランスは両手で耳を塞いだ。
「ち、ちるたりすーーー!!」
念願のチルタリスに訳の分からない奇声をは上げた。立ち尽くしたまま輝く視線をチルタリスに向けている。
ポケモンの知識も無い。バトルのセンスも無い。無いなりにがチルットと共に庭で挑み続けてきたのはチルタリスを我がものにしたいがためだった。
イラストや写真でしか見たことのない、念願の青い鳥。
綿のような白い羽がまぶしく波打つ。実際に現れたチルタリスはドラゴンタイプを持ち合わせていることも納得させるほどの美しさがあり、その体躯の迫力には気圧されながらも敬いの視線を送った。
のまなざしを受けてチルタリスも誇らしげに胸を張る。
主人もバカならポケモンも頭が悪そうだとランスは思った。
「ランスありがとう! ゆっ、夢みたい……!」
「はあ。そうですか」
チルタリスの進化はランスにとっては意外な結果だった。
なんだ成功するんじゃないか。半信半疑でこのマシンを使ったが一発成功を決めてしまい拍子抜けしてしまう。
こんなに便利ならさっさと実用化させた方が良いんじゃないか? なんだかんだデメリットをうたわれて、一体どんな悪いことが起こるのかと期待を膨らませたのが馬鹿みたいだ。ランスは頭の中、仕様書きに八つ当たりをした。
「」
ふう、とひとつ息を吐いてランスはをこちらに向かせた。
「なに?」
「私がこのチルタリスの羽を切ろうとしていると言ったらどうします?」
「切る? 切るって、……どうして?」
「理由を聞いたら納得して切らせてくれるんですか」
「しない、しないよ!」
ぽかんと呆けた顔が一瞬で怒りに染まる。全く怖くない怒りの表情に。
は両手を広げてランスの前に立った。
「そんなのぜったい、だめ! かわいそうだし、いたそう!」
ランスをにらみつけたままは強気に立ちはだかる。精一杯の怒りの表情で威嚇してみるが、表情を変えず何も言わないランスに徐々にその威勢が削がれていく。
恐怖を覚えながらそれでも、チルタリスを守らなければならないと思ったのだろう。は広げた両手でチルタリスに抱きついた。
空気を蓄えて膨らんだチルタリスの羽の波にが飲み込まれていく。腰から上が完全に見えなくなった柔らかな羽の中から、小さなくしゃみが聞こえた。
ひとつため息を吐いてランスは足の生えた綿毛に話しかけた。
「……チルタリスに手を出されたくないと言うのならば、ならこのことはアポロには黙っておきましょう」
「どうして?」
「アポロに言われてるんです。チルタリスになったら片方の羽を切っとけって。私もそんな面倒で残酷なことしたくないですんですけどね」
「じゃあずっとしないで!」
「もちろん私はしなくても良いです。けど、アポロはやると思いますよ」
「……も、もういっかい言って?」
「私がしなくてもいつかアポロがチルタリスの羽を切ります」
「……うそだもん。お兄ちゃんそんなことしない」
「信じるも信じないもどうぞ勝手にしてください。貴女が口を滑らせても私は助けませんから」
チルタリスの羽にまみれたの顔は隠れてしまっている。しかし羽毛の隙間から、一度だけの瞳が悲しく光った。
「お兄ちゃん、なんでそんなことするの?」
「アポロが貴女のこと、ひどく好きだからですよ」
「……よく、わかんない」
「そうですか」
警告はした。彼女が理解できるまで、言って聞かせるほど自分は親切じゃない。ランスにとってはやはりチルットもといチルタリスがどうなろうと知ったことではないのだ。
「外に行っててください。私には私の準備があるので」
「うん……」
今日アポロが家に帰れない事は事前に聞いている。準備と称してランスはこの家に日付が変わる時までいた。
深夜の眠れない時間をこの家で過ごすのは、初めてのことだった。
本棚から抜いてきた本を片手にランスはソファに寝転がる。柔らかなソファに全身を預けると、染みひとつない天井が目に入った。読書灯の光を跳ね返すのは細やかな壁紙の模様。光を跳ね返す素材と光を取り込む素材の組み合わさった植物のパターン。
「全く。ため息が出ますね」
金を存分に吸った良い家だ。
アポロと彼女の父に文句をつけるわけではない。ただ目に入るもの全てが、自分の身の程を思い知らせる。
ランスの呟きは掠れるほどの小声だった。傍らではがぐっすりと眠っている。にも今日はリビングで寝るようにランスが言ったのだ。
結局チルタリスと共にはしゃぎ回ったの眠りに、ランスの独り言は届かない。
「ランス、おきて」
小さな手のひらがランスをゆする。
手のひらは眉をしかめたところで耳をかすめた。そしてすぐ近くで大音量で告げられる。
「朝だよーっ!」
「……うるさい」
「いたいっ」
反射的に出た手がの頭に直撃した。
ゆるゆると目を開ければすっかりコートまで着込んだが涙目になりランスをのぞき込んでいた。
「らんす……朝、……」
「知ってます。聞こえてましたから」
「しゅっぱつ……する……?」
「ええ、すぐ支度をします」
ランスが起き上がり、顔を洗う。行動をしばらく見て、ランスが言葉を裏切っていないことが分かってくるとの涙は次第に引っ込んでいった。
彼得意の嘘じゃない。今日起こることは本当の本当。
その日も、は非力な腕で精一杯扉を押して外へ出ようとした。
「放っておけば良いんです」
「ご飯ないのはかわいそうだよ」
出発前、最後にしたことはヘルガーの餌やりだった。
何日か家を明けることを考えてか、は山盛りの餌を器に盛った。
「ヘルガー、いいこ。ちょっとずつ食べて。たちはピクニックだから、元気でね。お友だち、つれてくるからね!」
ランスには最後までなつかなかったヘルガーがの頬を舐める。
従順で敵意など感じさせないその様子はあくタイプのポケモンとしての威厳を失っていた。
「もしかして、のことしんぱいしてる? は大丈夫だよ。ランスがいっしょだから大丈夫」
ヘルガーたちにはそう告げたくせに、この家の敷地の終わり、門の前では立ち止まった。
家を振り返りはしない。門の先とじっと、見つめている。
「行きましょう」
「うん……」
朝のはしゃぎとは裏腹にの返事は暗かった。
「あなたにはチルタリスがいる。そして私がいるんです。何も心配ないですよ」
アポロをおちょくるための荷物に駄々をこねられては困る。ランスはの手首をつかむ。
はランスの手にもう片方の手を重ねてからゆっくり、小さな手を引き抜く。そして太さの違うランスの指に、自分の指を絡めた。
次に上げた顔は明るかった。
「あのね、お外にでるのすごい久しぶり」
「……アポロはあなたのこと、どれだけ好きなんでしょうね」
「きっとすっごく好きだよ」
「でしょうね」
「わたしもお兄ちゃん大好き」
「そうですか」
「ランスも好き」
「……子供がなに言ってるんですか」
「わたしは子どもだけど、好きなものは好きっ」
「………」
「ねぇランスはわたしのこと好き?」
「子供は嫌いです」
「じゃあじゃあ大人になったら好きになってね!」
「さっさと歩いてください。ミミロルを捕まえに行きますから」
「うん!」
たわいもない会話での冒険への決心はついたらしい。
明るい声色を取り戻して、彼女が小さな3歩を重ねたところで、ランスもようやくいつもの1歩を踏み出した。