とにかくランスは駅へ急ぎたかった。
この旅は、ただ彼女を気ままに連れ歩けば良いというわけではない。あのアポロから逃げ仰せなければいけないのだ。今はアポロが事に気づくまで、なるべく遠くへ離れなければならない段階だ。ランスに、悠長に彼女の体調に合わせてやるような時間の余裕は無かった。
ひとつ重い息をはいてから、ランスはひとまず彼女の背中から腕をまわし、脇を抱え立たせてやる。けれどいっこうに彼女の足には力が入らない。少女ひとりの体重は手をするりと滑り落ち、すぐにぺたんと地面に座り込んでしまう。
仕方なく、仕方なくやるのだ。手段が他に無いのだ。そう自分に言い聞かせても、彼女の座る高さへと足を折るというその行為はとてつもなくむずがゆかった。
「……、手をまわしなさい。私の肩に。……そう、そうです」
潤んだ目が閉じたり開いたりする様子から意識は定かでは無いが、ランスの声は届いているようだった。熱く細い腕がそろそろと首に回る。そして加減そのものをを知らないようなやたら強い力で服の背面を掴んだ。
自分の服を掴んでいる彼女をそのまま引き寄せ、腰から下を支えて抱き上げる。立ち上がると、彼女の体重の全てがランスにかかった。重さよりも小さな体ながら暴力的なまでに加熱された体温が印象的だった。空炊きした鍋を思い起こさせるの熱はじりじりとこちらを焦がす。
「ランス」
「なんですか」
「かえ、るの……?」
「はぁ。生憎ですが。もう帰れませんよ」
にはそう言ったが、今きびすを返しすぐ屋敷に戻ればアポロに何も気づかれないまま元に戻れた可能性はあった。疑われてもまだ、「散歩していた」という言い訳の通る距離だ。
けれどランスは彼女に手を出し、あのアポロを出し抜き目に物見せてやるともう決めた。それなりの覚悟をもって起こした行動だ。もう進む方向を決めてしまった。加えて今後戻りして、ランスがこのスリルにもう一度身を投じられるか、怪しかった。
いくら少女とは言え一人の人間だ。彼女一人を抱きかかえてどこまで歩けるのか、ランスには正直不安だった。だが結局、歩いた距離のことはあまりランスの記憶に残らなかった。腕の疲れや少し上がった息。そういう自分の変化は全て、くすぶる彼女の熱で、否応無しに焦燥感へと塗り潰されていった。アポロが追ってくるかもしれない事よりも、手の内にある熱の方が遙かにランスを急かし立てていた。
気づけば駅舎が見えていた。
広めの列車の席を確保し、そこへを寝かせる。荷物を枕にさせ、シンオウは寒いだろうからと持ってきたコートを体にかけてやる。二人分の席に横たえるといくらでも、少し足が余ってしまった。
「、足を……」
ふくらはぎを掴み、膝をおるよう誘導すると、は素直に背をまるめた。
その時やっと、ランスの聴覚が戻ってきた。の苦しげにあえぐ呼吸で締められていた感覚に、駅の喧噪が、人々のざわめきと列車が駆動せんと待機する音とが、ランスの耳に入ってきた。
ランスは息をつきながら手袋を外した。汗もかかない額に手の甲をあててみるとやはり燃えそうに熱い。
「………」
発車時刻を確認する。まだ少しの猶予があるのを確認し、ランスはひとり下車した。列車が出発する前に売店で、水と、少し甘みのある清涼飲料水とのどの当たりが良さそうなものを多めに買った。
追加の出費に歯噛みしながらも、買わないわけにはいかなかった。直にアナウンスが、まもなくの出発を告げる。ランスも列車に再度乗り込んだ。が横たわる、向かいの席に座り、再度帽子を深く被りなおす。やがて窓の外、景色が流れ始め、誰にも声をかけられること無く列車が発車した時。ようやくランスは自分が正常の状態に戻ったと感じられた。
呼吸は落ち着いている、耳もよく聞こえる、熱くも寒くも無い。
座席の揺れが、ランスを冷静に戻してくれる。そして同時にランスは今までの自分が正常で無く、大きな動揺の中にいたのだと知った。を抱えあげた時、駅を目指して歩いていた時、彼女の容態ばかりが自分の感覚を支配した。それはアポロから逃げ出すスリルさえも覆った。
自分は、正常さを失っていたのだ。そんな事実が後から追いかけて来て、ランスを冷静よりも下部の、暗い気持ちへと落としていった。