しんかいでねむるチョンチー



 ダイゴさんの元で日々を重ねる内にわたしは疲労とは縁がなくなっていた。あてがわれた客室で、疲れのない体を白いシーツに無理矢理横たえて、わずかな眠気に意識を押し込む。シーツを抱き寄せ、眠気に身を任せる。
 そうすればわたしは浅い夢の世界へ旅立てる。

 もう少しで夢が始まるという目前のところだった。ノックの音もなしに扉が開いたのは。

 もう夜になれていた目に、重くなっていく瞼の隙間に、差し込まれた廊下の光が痛くて眩しい。
 白熱灯を背後にした人影がうっすらと見える。眠りかけた視界で、誰かが揺らめきながら近づいてくる。
 眠気に満たされた時特有のふわふわとした意識の中にありながらも、その人がわたしを真っ直ぐに見つめているのが分かった。

 ギシリとベッドが音をたてる。彼が手をついたところで、スプリングが縮こまる音がした。


「……、……ダイゴ、さん?」
「なんだ、起きてたの?」
「眠るところ、でした……」
「そう。起こしたんならごめん」
「いえ……。どうしたんですか?」
「………」
「もう、良い時間、ですよね。……ダイゴさん、眠くないんですか?」
「僕なら大丈夫」
「結構遅くまで起きてるんですね……」
ちゃんこそ。もうとっくに寝てると思った」
「眠れなくて」
「うん。僕もなんだ」


 ベッドの沈みが足下のほうへと移動する。ダイゴさんが腰かけたのだった。


「少し、いさせて」
「良いですけど……。途中で寝ちゃったら、スミマセン」
「大丈夫だよ」


 そっと顎をひくとダイゴさんの背が目に入った。ダイゴさんはこちらへ少し背を向ける角度でベッドに座っていた。白い耳、男性にしてはすべらかな線を描く頬がぼんやりと部屋の暗がりに浮かんでいる。
 いつの間にか、わたしは眠気に抵抗しながらぼうっとその輪郭を目で追っていた。

 ダイゴさんが同じ部屋にいるのに。わたしは本当にこのまま眠ってしまいそうなくらいに安堵していた。
 けれどわたしは、彼のスラックスの下で光るランプに気がついた。
 まどろみかけた意識を引き戻すようにそのランプはチカ、チカと点滅していた。


「……ダイゴさんの、ポケット。光ってる……」
「ああ。ポケナビかな」
「あれ……。ダイゴさんのポケナビってそんなかたち、でしたっけ」


 スラックスのポケットに浮き出た形。
 それは兄さんがいきなり帰ってしまったあの日に借りたダイゴさんのポケナビとは違っていて丘のように丸い。


「いや……、違うよ」


 ダイゴさんは深いため息を吐きながらポケナビを取り出した。
 やっぱり、ダイゴさんの物とは似ても似つかない古いデザインだ。ランプはチカチカと点っているものの、傷とへこみ多いのが薄闇でもよく分かった。


「てっきりダイゴさんの二台目かと思いました。ダイゴさんのにしては女の子っぽいデザインだと思いましたけど」
「当たり」
「え?」
「これはある女性のポケナビだよ。壊れているから僕が預かってるんだ」
「預かりものなのに持ち歩くんですね」
「それは……」
「すごく、大切そうですね」


 遠慮や自制、もちろん体感も。眠気ですべての感覚が、鈍くなっていたように思う。
 口ごもるダイゴさんのデリケートな心の内に触れないでおくことも出来たのに、わたしはつっつくことを選んだ。寝ぼけている今なら、ダイゴさんの口から女のひとの話が出ても、すんなり聞いていられそうだと思ったからだ。


「うん。それも当たり。このポケナビは、僕の恋人のものだよ」
「……そう、ですか」
「もしかして知ってた? その……、恋人のこと」
「知ってたっていうか……、気づいてました」
「………」
「驚きました? たぶん女のカンです、ふふ」


 出会った日。何も知らずにわたしはシャワーを借りた。来て早々、その人の気配に気づいたのだから、女性としてのカンが働いてたのだと思う。

 ダイゴさんの言葉は少ない。決まり悪そうに口ごもる様子を見ると、もしかしたらわたしは恋人の存在には気づかない方が良かったのかもしれない。
 でもこの家が、ダイゴさんの一人暮らしとは思えないほど居心地が良いのは、きっと見知らぬ彼女がいたおかげだと思っている。

 この家にはシャンプーもリンスもある。二人でお茶を飲むのには困らない数の食器がある。そして地下室にひとつ余分にあったイスは、間違いなく別の主を持っている。
 ダイゴさんが誰かと暮らした過去が存在するから、わたしは今ダイゴさんといられるのだと思っている。彼女がいた形跡があるから、それを追いかけることで、人とは簡単に相入れないダイゴさんのの近くにわたしは居場所を見つけられた。

 わたしは感謝しなくては。見知らぬダイゴさんの恋人に。


「恋人さん、いつ帰ってくるんですか?」
「さあ?」
「なんか軽いですね……」
「あまり期待はしていないから」
「でも、ダイゴさんはその人のこと、待ってるでしょう……」
「待ってるよ」


 期待していないと言ったくせにダイゴさんの返答は堅かった。


「僕もフラッと出かけていつ帰ってくるか分からないような奴だったしね。でも待ってるときの辛さは、知らなかったよ」


 眼差しは窓の向こうにある、夜空の星をとらえている。
 表情はいつもと変わりない。いつもと変わらない凍ったダイゴさんの顔。


「悲しませているとは分かってたけど、結局その悲しみを僕は拭わなかった。放っておける余裕があるんだから、僕は彼女の悲しみを結局、心の底まで理解していなかったんだね。今なら、分かるよ」
「……待ってるのが辛くても浮気しちゃだめですよ。彼女さん、きっと悲しみます」
「悲しんでくれると良いんだけど」
「あの、真剣に浮気はだめですよ」
「しないよ。僕はずっと彼女のこと待つつもりでいるんだ。ずっと。彼女だけ。例え僕が死んでも」


 唐突に死なんて言葉をダイゴさんが口にした。ぞっ、とした。背筋が冷ややかに粟立つ。


「まるで彼女さんが一生、帰ってこないみたいな言い方ですね」
「うん。そうかもね」


 曖昧な返事。諦めた目ではないけれど、希望も見かけられない。


「だとしても、死ぬまで待ってる。僕の自己満足なんだ」


 誰か心を許した女性がいるんだと分かっていた。彼女はこの家に帰ってこないのだと、数日過ごすうちに気づいた。けれどダイゴさんの中にこんなにも深い愛が眠っていたとは思わなかった。

 息を吹き返したようにダイゴさんは次々に言葉を紡いだ。


「死ぬまで待ってる。死んでも、待っていたい。彼女を愛したまま、誰も好きにならずに死ねたなら、それは一種の幸福だと思うんだ」


 ダイゴさんのことは物静かで表情の強ばった大人だと、思っていた。怖い。ダイゴさんは今、彼女を恋しがってどんな表情をしているのだろう。見たくない。わたしは固く目を瞑った。シーツを握りしめたら、ぎゅうと息の詰まるような音がした。



 その夜、わたしは世界の淵に立つ夢を見た。
 底が見えないほどに深い世界の端っこ。わたしはそこへ追いやられ、震え、行き場無くして、足から崩れ落ちていくのだ。