スバメーる



「あ、味付きトーストだああああ……!」


 なんと! ダイゴさんがふと未開封だったジャム瓶の存在を思い出してくれたおかげで、わたしは久方ぶりの味付きトーストとの遭遇を果たした!
 元気にしていたか味付きトーストよ!


「ふっ……、何それ。ナマエちゃん、トーストにはトーストの味があるんだよ、ぷ、くっふふ」
「それは分かってるんですけど! ダイゴさんだって味付き海苔に感動するでしょう!?」
「残念。僕は味が無い海苔って食べたことないんだ」
「え、えー!?」
「昔は味付き海苔っていう言葉の意味が分からなかったよ」


 なるほど。味の無い海苔自体を知らない、海苔に味を付いているのがダイゴさんにとっての普通だから、味付き海苔と言われてもピンと来ないと。
 本日の常識外発言は、年齢の差も男女差も関係なく、明らかに育ちの違いから来たものだった。


「それはもったいないですね」
「え?」
「だってダイゴさんは味付き海苔食べたときの感動を知らないってことでしょう! あの味がじわっと染みる感じ……ちっちゃなことでも幸せです!」
「そう来るか」
「味付きしか知らないなんてうらやましすぎるので仕返しです」
「いいと思うよ」
「えと、何がですか?」
「幸せそうな顔が。パン一枚、海苔一枚で笑っちゃってさ」


 言葉に間違いは無いのだけど、まるで自分の単純さを笑われているみたいだ。


「褒めてるんだよ。そんなに、美味しい? どんな味?」
「美味しい、ですよ。 ダイゴさんも食べますか?」


 わたしがトーストをちぎって渡そうとしたら、ダイゴさんのかすかな笑みでそれは止められた。


「いいよ。ナマエちゃんの感想が聞きたいんだ」
「そう、ですか」
「うん」
「……上手く言えないと思います」
「大丈夫。特別なことじゃなくて、ナマエちゃんの感じたことを聞きたいだけだから。美味しい?」
「なんか……、複雑です。色々混ざってて、でもいやじゃ、なくて……」


 ダイゴさんが出してくれたのはジャムのようなソースのような甘い蜜の瓶だった。
 甘くて、いろんな味がして。フルーツが混じっていて、しっとりと蜜塗れのナッツが香ばしい。噛むと時たま果実の種がぷちぷちと弾ける。
ベースの透き通ったシロップが何由来なのかすらわたしには分からない。自然の味だと思える、食べ物じゃない花の香りがするようだけど、結局今まで食べてきたものの中に当てはまるものは無い、完全に初めての、ふつうのスーパーじゃ売っていない味覚だ。


「すごく美味しいんですけど、食べたことない味です。や、やっぱり上手く言えないです! ダイゴさんはこれ、好きなんですか?」
「うーん、僕も食べたことないや」
「え?」
「僕が買ったものじゃないからね。だからずっと存在を忘れてたんだけど。僕に送るくらいだから、まあ悪いものでは無いんじゃないかな」


 贈り物だという予感はしていた。瓶は木の箱に入れられて滑らかに光るリボンがかけられていた。
 今は封を開けられた木箱は、子供じゃ買えっこない、大人から大人への贈り物という格式の高さを持っていた。


「でもなんでこれが家に……?」


 ダイゴさんがはいぶかしげな興味をにじませて、箱の中身を漁っている。


「何が不思議なんですか?」
「この家を知ってる人なんてごく僅かだからだよ。季節の挨拶とか面倒だからさ、全部実家に着くようになってるんだ」


 僕が受け取らなくたって、向こうの人間が、相手には失礼の無いようにやってくれるし。さらりとダイゴさんは恐ろしいことを言ってくれる。


「だから僕の家にあるのがかなり不自然なことなんだけど……」


 この家を知っている人からの贈り物。わたしの頭には最初からひとつの可能性が浮かんでいる。それはもしかして“彼女”じゃないのか、と。気まずくダイゴさんの顔を伺ってしまう。
 ああそうかと、ダイゴさんの吐息がうわずったのをわたしは肩を縮込ませながら聞いてしまう。


「なんだ、親父からだ」
「ダイゴさんの、お父さん……」


 ご家族の方でしたか。あっさりと肩から力が抜ける。


「ほら。ハガキが入ってた」


 軽く投げられて滑り込んできたハガキには整っているのに大きくのびのびとした字が広がっていた。
 ダイゴさんのお父さんはハガキの中から気さくに語りかけてくる。日常のこと。ふと関心を寄せた出来事。お父さんは何か製品を作る会社に勤めているようだ。最近一番心躍った発明のことが書かれている。
 話題は自由だ。自分の思うことを好きなように綴っている。


「お父さんと仲良いんですね」
「どうかな。僕は放蕩息子だから」
「ほ、ほうとう?」
「手がかかる子供ってこと」
「ダイゴさんは大人だと思いますけど」
「親父にとってはまだまだ子供なんだよ」


 裏返すと指先の紙面いっぱいに広がっているのは青いインクだ。


「わあ……、綺麗な海ですね」
「カナズミの近くの海じゃないかな。ほら、ここが北の方にある浜辺で……。ナマエちゃん、カナズミって行ったことあったっけ?」
「カナズミシティは……行ったことないと思います。内地って滅多に行かないというか、行けないですよ」
「そうか。じゃあこれはうちのビルから撮った写真、って言っても分からないね」
「あ、ビル! すごい高いビルから撮ったんですね!」
「どうして分かるの?」
「だって遠くの海まで見下ろせてる!」


 青いつやつやとした絵ハガキ。
 そっと地平線をなぞってみる。端と端がかすかに丸まっている気がする。


「……そんなに気に入った?」
「海、大好きなんです。ルネで飽きるほど見てるんですけど、それでも海はいつも見えていて欲しいくらい大好きです」
「ねえ、それあげよっか」
「え、も、もらえないですよ!」
「そう?」
「だってダイゴさんのお父さんからダイゴさんへ送られたものですよ? もらえません!」
「そっか。上手く行かないね」
「何がですか……?」
「秘密。じゃあそれ、ここに貼っておいて」
「どこですか?」
「ここ、うちの伝言スペース」
「え、これ」


 殺風景な白い壁はそうは見えない。
 言われてみるとそこだけ壁の材質が違うが、ただの壁と見過ごしても仕方が無いほど何も無い。


「気づかなかった?」
「はい」
「まあ貼る人がいないからね。ナマエちゃんの好きなもの貼って良いよ。じゃあ僕はお先に」
「え、あ、はい」


 ダイゴさんは飲みかけのコーヒー片手にリビングを後にした。
 足音が遠くなったのを確認するとふう、と重い息が出た。

 また、“彼女”の痕跡だ。この伝言板だって。伝言する相手が本当はいたのだ。

 いつもより元気にダイゴさんと話してごまかしたけれど、昨夜の動揺はまだ途切れずに、わたしを揺らしていた。
 わたしは無邪気なミクリの、彼の友人の妹だったはず。なのに、ダイゴさんの周囲に残る“彼女”の影を見つけては嫌な想像を膨らませて、今は勝手な寂しさを感じている。

 わたしなんて、いつまで一緒にいたとしても友人の妹以上になりようが無いというのに。兄さんに見せたダイゴさんの表情を思えば、わたしは彼の友達にすらなれそうも無いことを痛感する。

 あまり気にし過ぎるのはやめよう。ああトースト美味しいなあ。もう一枚食べてしまおう。もぐもぐもぐ、もぐ、もぐもぐ。ああー美味し……。


「あ、あれ……」


 ダイゴさんのせい、彼がもたらした動揺のせいだ。さっきまであんなに美味しかった味付きトーストの味がしなくなっていた。