「ちゃんどうしよう……」
「な、何がですか?」
「呼び出し……行かなきゃ……」
「何の? 誰に呼び出されたんですか」
わたしの質問にダイゴさんはぐらりとふらついて壁にすがりながら行った。
血の気の引いた顔でぼそりと言う。
「会社……」
「はぁ?」
思わず兄と話してるときのような口調に戻ってしまう。
自分で何を口走ってるか、この人は理解してるんだろうか。
それにしても暗い。顔が暗すぎる。
会社のことを考えるだけでこれか。
「まずですね、ダイゴさん仕事してたんですか?」
「うん、基本してないね。してないけど僕にもいろいろ人間関係があってさ。あ……イヤなこと思い出してきた……」
なぜかダイゴさんはダメージを受けたかのように胃のあたりをさすっている。顔面すでに蒼白。
「……じゃあ次に。そんなに仕事したくないんですか?」
「本当に仕事だけで済むならそれで良いよ! でも現実そうはいかないだろ、うあああイヤだ、面倒過ぎる……」
人間の持つ悩みの大半が人間関係に起因するという。ダイゴさんも人付き合いに苦労するタイプなのかもしれない。最近は慣れてきたけれど、確かに初めて会った頃のダイゴさんはかなりガードが硬かった。人を寄せ付けなく無いオーラがすごい出ていたのだった。
「まあどこにもいやな人っていますよね。さらっと行って、挨拶とかも適当にして帰ってくれば良いじゃないですか」
「それがイヤなんだよ……」
「はぁ? できないって言うんですか?」
「もちろん昔はいくらでもできたよ? けど、もうしたくないんだよ」
「みんな誰だって多かれ少なかれ我慢して仕事してますよ。ダイゴさんにも出来ますって」
「それはみんな働かないと食べていけないから頑張れるんだろ。僕にとってはしなくても命には関わらない。頑張れる気がしない」
「………」
この発言にわたしがダイゴさんへの殺意を覚えたのは言うまでもない。
「親父も、イヤだ呼ぶなっていつも言ってるのになんでわざわざ呼ぶんだよ……」
それからダイゴさんはつらつらと仕事に行きたくない理由をしゃべり始めた。深刻そうな顔をしているからよっぽどの訳があるのかと思えば、どこでも聞けるような仕事嫌いの常套句ばかり。
石を前にして語っていた熱さ。その時と同じくらいダイゴさんの仕事への文句にも情熱がこもっている。ネガティブな情熱だ。
「なんか大人じゃないみたい」
「大丈夫。僕もそう思ってるから」
何が大丈夫なのか、1ミリも分からない。なんて、しょうがない人。
多分、仕事にはいかなくてはならないことをダイゴさんは分かっている。
我慢して、行けばいろんなメリットがあると頭では理解しているのだ。いくらイヤでも避けられなくて、最終的に行きたくないという気持ちが通りそうも無いから、顔を青くして困惑しているのだ。
だから多分、多分だけど、背中を押してあげるのが正解なんだとわたしは思う。
わたしがはぁ、とため息を吐くとダイゴさんは叱られた子供のようにおずおずと視線を上げた。
「ダイゴさん」
「ん?」
「ポケナビ貸してください」
自分の手には負えないことを薄々感じた。
だからわたしは、わたしよりダイゴさんのことをよく知るあいつを呼び出すことにした。
『はい』
「もしもし兄さん? です」
『……なんだい』
電話越しに久しぶりの家族の声。思わずポケナビを握り直す。
疲れているのか、兄さんに似合わず少し声が堅い。
「いきなり電話してごめんね。今大丈夫? 兄さん元気にしてる?」
『ごめん、。用件を、手短に言ってくれ』
「あ、うん、あのね。ダイゴさんのことで相談があって……」
『ダイゴがどうかした?』
「それがさ、ダイゴさんがねどうしても避けられない仕事? が出来たみたい。で、すごく深刻そうな顔で行きたくないってすごく拒否反応を示してるんだよね」
部屋の隅では未だダイゴさんが自らの出社の運命を恨んで唸っている。
「わたし、どうしたら良いか……」
『ああ。いつものことだよ』
ああー、やっぱりいつものことなんだ。そんな気はしていた。
「送り出すのがきっと正解だよね……?」
『叩き出してやれば良い』
「え、た、叩き出すって」
最近ダイゴさんもわたしもお互いに慣れてきた。とはいえそんなに暴力的なことを働くほどの関係でも無い。
「そこまでしてあげられないよー……。それに可哀想、だし」
『可哀想なことがあるか。ダイゴは家が恵まれてるからって“すべきこと”から逃げ続けてるんだ。まあ、したくないことをしないで済むのが裕福さの特権なんだろうが』
「でも……」
『、ダイゴに同情はいらないよ。できないできないとは言っているが実際できる奴なんだ。気弱になっているだけだよ。はまだダイゴの外面の良さを知らないんだ。はダイゴが会社へ行ったら苦しみそうだと思ってるんじゃないか』
「まあ。あんだけ暗い顔してるんだもん」
『ダイゴはもっと人の神経を逆撫でする人間だよ。あいつは家では散々子供っぽいことを言うけれど、人前に出せば完璧な笑顔で仕事をこなすよ』
思わず耳を疑う。他人とは言い切れなくなってるくらい一緒にいるけれどダイゴさんの笑顔と言えば微笑、微笑、苦笑くらい。それくらいしか見たことが無いわたしには、ダイゴさんの完璧な笑顔なんて想像がつかなかった。
『信じられないだろうけど、未だにダイゴが出来る男だと思ってる人は山ほどいる。周囲の印象はすこぶる良好だ』
「何それ、ありえない! ダイゴさんには失礼だけど」
『様々な意味でね、ずるい人間なんだよ。ダイゴは。というわけでダイゴは叩き出せば良いさ。間違っても同情はしてはいけないよ。いいね?』
念を押すように兄さんは結論を言った。
『これで良いかい? 用件が終わったなら切るよ』
「あ、待って!」
『他にもあるのかい?』
「えっとその、兄さん元気? 結構経ったけど忙しさの山場は過ぎた、かな?」
『用件は?』
わたしからの投げかけに返ってきたのは冷たく、いらついたような声だった。
「用件用件って。そんな言い種ひどくない? 用件が無くたって別にいいじゃない、兄さん全然連絡くれないんだし!」
『悪いけど、そんな余裕は無いんだ。とにかくダイゴはドアの外に蹴飛ばせば大丈夫だ。それじゃあ切るよ』
「ちょっと待ってよ!」
間髪入れず、通信はぶっつりと切れた。
ちょっと待ってよの「ち」の字も届いかないくらい戸惑いもなく切れた。
「……、何よ」
そんなあからさまな切り方しなくたって良いじゃない。まるでわたしが甘えるのを避け、拒絶するみたいだ。
ダイゴさんの対処法を学びたくて兄さんを頼った。ダイゴさんの方はなんとかなるかもしれない。けれど今度は異様に冷たいミクリという新たなもやもやが、胸に住み着いていた。