てだすけてだすけバトンタッチ



 電話口の兄さんの態度は、思ってもいなかった状況にわたしを落とし込んだ。

 兄さんはただ、忙しいんだと。いつものように、人に望まれる声に応えてバトルなりコンテストなりをこなしているんだと信じていた。今まで一度も連絡が無かったのは、兄さんが目の前のことに打ち込んでいる証拠だと。決してわたしのことを忘れたわけじゃないと願っていた。

 ほんの一瞬でも、思いたくなかったな。わたしが不要な存在だから放って置かれてる、なんて。

 信じたくないという気持ちと、兄さんを疑ってしまったことへの申し訳なさが一度に襲ってくる。
 たった一本の電話。一度の冷たい態度だけで兄さんが今まで注いでくれた愛情も、兄さんのことも、わたしは疑いたくない。

 根っからのミクリという人間を知っているから混乱はますます深まるのだ。ミクリがあんなことするのには何か、理由があるはず。けれど兄さんはわたしを突き放し、何も語ってはくれなかった。




 昨晩は遅くまで錯乱しかけていたダイゴさんは、朝になって徐々に現実を受け入れたみたいだ。顔はまだ青白いものの、皺ひとつないスーツを纏い降りてきた。
 ダイゴさんの髪は普通にしていても暴れることの無い素直な良い髪なんだけれど、一手間加えた彼の頭はスーツの風格と見事に合わさって、周りの雰囲気を飲み込みそうなほどの静かな迫力を醸し出している。


「……似合ってますね、スーツ」
「前にも着てなかったっけ?」
「そういえば」


 初めて会ったとき。砂浜に立っていたダイゴさんは同じくスーツを着ている。あの時も顔はひどく青白く、生気の乏しい立ち姿だったのを思い出した。
 もしかしたらダイゴさんはスーツを着ると気力が無くなってしまう、とかいう設定がついているのかもしれない。


「それじゃあダイゴさん、頑張って張り切ってファイト!」
「ま、待ってそれはまだ心の準備が……」
「時間は?」
「まだ余裕はあるから、お願いだから落ち着かせて……!」
「そんなに怖い人でも居るんですか?」
「人間ならみんな怖いよ……」
「そ、そうですか」
「ああああダメ、やっぱり行きたくない」
「もう。いつも家にいるんだからちょっとくらい行けば良いじゃないですか」
「ちょっとがイヤだから家に居たんだよ。なんで僕なんだ、意味が分からない!」
「ダイゴさんストップ! それ以上考えると落ち込むだけですよ?」
「そ、そうだね……」
「落ち着いて。深呼吸です。軽ーく考えましょう!」


 どうやら誰かひとり苦手な天敵がいるわけじゃなくて、人間全般が怖いらしい。
 考え方がかなり下を向いている。マイナス思考って連鎖して膨らんでいくんだよね。このままではますます人や外が怖くなるだけだ。

 兄さんは無理矢理外に出してしまえと言っていたけれど、やっぱりそんな乱暴なこと出来そうにない。
 わたしが出来るのはひとまずダイゴさんのマイナス思考を止めるような言葉を選んぶこと、かな。


「あのさ、ちゃん」
「何ですか?」
「行く前にカフェオレ入れて良い?」
「それは……好きにすれば良いんじゃないですか?」


 なんでわざわざわたしにカフェオレ製造の許可を? と思ったけれど疑問はすぐに解決された。
 ダイゴさんはカップをひとつ取り、出来立てのカフェオレをわたしへ差し出したのだ。


「わたしに、ですか?」
「こうすれば落ち着けるかな、と思って」


 おかしな人。わたしにカフェオレを作ることで気が紛れるなんて。

 でもわたしも同じようなことをしたことがある。
 自分は自分より遙かに優秀で完璧な兄さんに必要とされてると感じたくて、図画工作、お料理、お菓子づくりを何度も頑張ったりしたものだ。
 だから目の前のカフェオレをどうしたら良いのかはよく分かる。小さい頃のわたしが兄さんにしてもらいたかったことをすれば良い。

 カフェオレを一口飲む。こくりと飲み込むと、甘さと苦さがのどを降りていった。


「ありがとうございます、すごく美味しいです」


 ダイゴさんは少し肩を落として、苦々しく笑んだ。


「ごめんね、ちゃん。自分でも子供じみたことを言ってるのは分かってるんだ。傷つくのが怖くて怖くてさ、例えほんのちょっとのかすり傷でも今はイヤなんだ」
「そうですか」
「なんでこんな臆病になったんだろうね」
「それは……」


 ダイゴさんの傷がまだ癒えてないから。
 大切な人を無くした出来事がまだダイゴさんの中では過去にならずに、心に色濃く残っているからだ。

 もういない人間に心を狂わせられているダイゴさんは少し可哀想だと、わたしは思っている。
 けれどその苦しみはきっとダイゴさんになくてはならない毒なんだとも感じている。あの夜、ダイゴさん自身がそう言った。

 死ぬまで待ってる。死んでも、待っていたい。彼女を愛したまま、誰も好きにならずに死ねたなら、それは一種の幸福だと思うんだ、って。

 苦しみとその毒を、ダイゴさんは捨てられないどころか必要としている。心が痛みを感じるのは、彼女をまだ好きでいる証拠となるのだろう。


「傷つくのは誰だって怖いですし、強く抗がえないときだってありますよ」
「うん……」


 見えている答えの、そのままは言えなくて、わたしは無難な言葉を選んだ。


「わたし、考えたんですけど。あまり深刻に思わないでちょっとした散歩だと思えば良いじゃないですか? 何か別の目的を持つ、とか」
「別の目的……?」
「例えばこういうのはどうですか? 仕事はオマケです。ダイゴさんは本当は自分へのプレゼントを探しに行く。ダイゴさんは好きなものを探してきてください。石でもなんでも! そのついでにちょっと用事を済ませば良いんです」
「………」
「っていうのは、どうですか?」
「……うん」


 ダイゴさんの目が一度瞬いた。少し光りを宿した瞳にわたしも嬉しくなる。いけるかもしれない。


「ねえ、それが自分へじゃなくてちゃんへのプレゼントでも良い?」
「え、わたしですか?」
「自分のためじゃなくて誰かのための方がやる気が出るなって」


 確かに、そういうものなのかもしれない。誰かの喜ぶ顔を想像した時の方が頑張れることだって、あるよね。


「嬉しいです、楽しみにしてますね!」


 そう無邪気に答えればようやくダイゴさんは深く座り込んでいたソファから腰を上げた。

 家から出て、ダイゴさんはエアームドをボールから呼び出した。
 わたしはドアから出たところでそれを無言で見守っている。

 いよいよ飛び立つかと思われた瞬間ダイゴさんは一度振り返って、わたしに告げた。


「じゃあ、行ってきます」


 無言で立っていたのは、こういう時わたしはなんて言うべきなのか分からなかったからだ。


「——行ってらっしゃい」


 それは居候のわたしが口にして良いのか分からなかった言葉。

 自然に送られた言ってきますの言葉に導かれて、わたしは胸の内でとどめようとしていた言の葉を、彼に渡したのだった。