ミナモシティからダイゴさんの家に着いたのは陽がすっかり暮れた頃だった。帰り道。途中笑い話をしながらも、わたしたちは黙々と家路を辿った。
夕陽の赤を乗せた柔らかく生暖かな追い風。
ダイゴさんの隣を歩きながらわたしは出会ったときのことを思い出していた。
こわばった瞳でわたしに戸惑いの視線を向けていた。陽の光の下なのに、下手したら黒く見えるほどに影を追った顔。血が通っていないかのような白い指が堅く握りしめられていた。
ダイゴさんは凍っていた頃の面影を残しながらも、今は穏やかな顔をしている。足取りは迷いなく家の方向を目指していて、見上げた背は、わたしがずっと抱いていたダイゴさんを頼りなく心配に思う気持ちを跳ね返す、しっかりとした背筋だった。
わたしはこの不安定な人と過ごすうちに、ダイゴさんをいつの間にかたくさんの視線を注ぐようになっていた。
側にいるだけでこの人は大丈夫なんだろうか、この人がもう少し柔らかい表情になるにはどうしたらいいんだろうかという気持ちが生まれてしまうのだ。ダイゴさんにそんな気持ちを抱いた、特別な理由やきっかけは見返しても見つからない。ただ何気ないダイゴさんの姿が仕草がわたしの胸に種を埋め込む。心配とか、関心とか、そういう名のつきそうなその種は気づかない間に発芽して葉を広げてぐんぐんと茎を伸ばして、あらがいようのない自然の一部らしく成長した。
今は見上げてもそう心配の生まれない、ダイゴさんの歩く姿を眺め、わたしは悟った。やっぱりダイゴさんにわたしの心配は必要ないのだ、と。乾いた地面に雨水が染みていくように、すうっとその事実が頭からつま先まで、行き渡った。
ダイゴさんはミナモから帰ってきてすぐに兄さんに連絡をとったらしい。夜更けに、明日になってしまうけれどミクリが来てくれるそうだ、と教えてくれた。
わたしがルネへ帰ろうと決めたその日、兄さんがわたしを迎えに来る目処が立った。
物事のタイミングは示し合わせたようでもあり、このトクサネでの生活も潮時だったのだと告げられたようであり、わたしは少なからず落ち込んだ。
お別れについて、ダイゴさんはそれ以上何も言わなかった。
わたしの荷造りはずいぶん簡単に済んだ。わたしの持ち込んだものは充てられた部屋でばかり散らかり、家中には広がっていなかったのだ。
だって広がりようもなかった。家のそこかしこにあるダイゴさんの大切な人が存在した、その証拠を汚すことは、とうとう出来なかった。
帰る日の朝、朝食はいつも通りであった。
カフェオレと味付きトースト。朝食のメニューも変わりなかったし、わたしの心境も、ダイゴさんの表情も変わったところはない気がした。
昨日今日で帰ることが決まって、ダイゴさんと離れる実感がいまいちない。何か言った方が良いんだろうかと食事の間うつうつと考えたが、別れに際した言葉は生まれてこなかった。
まあいいか。ミナモでダイゴさんに、思い出を贈ってもらったのだから充分じゃない。そう自分に言い聞かせた。
朝食を食べ終わり、コーヒーカップの底がうっすら透けて見えてきたころ、口火を切ったのはダイゴさんだった。
「あと一時間もしないうちにミクリが来るね」
「そう、なんですか。意外に早いんですね」
「なるべく早くって僕がお願いしたんだ。準備はもう終わっているんだよね?」
「はい」
「そうだよね。うん……」
ダイゴさんの視線はかすかに下を向いている。わたしも、今目が合わせる勇気がなくカップの底を見つめた。
「ちゃん、元気でね」
「ダイゴさんこそ。わたしはダイゴさんが心配です」
「僕? 僕は、大丈夫、どうにかなるよ。ちゃんが心配するようなことじゃない」
「寂しいことを、言うんですね」
「君の心に僕への心配が留まり続けるのは申し訳ないな。正直なこと言うと嬉しさもあるけどね。でも、もう僕は大丈夫だ」
「ダイゴさんの“大丈夫”はあまり信用できません」
「大丈夫だよ。虚勢や、からげんきじゃない。……僕はもう、自分を粗末にできないと思うんだ」
「それはどういう……?」
「困ったな。これ以上話そうとするととても個人的な話になるし、その上かなり長くなりそうなんだけど」
ダイゴさんの個人的で、長い話。別に構わないと思ったわたしはイスに座り直し続きを待った。
「やっぱりやめよう。僕は、この続きをおもしろおかしく話せないよ。良い話じゃないんだ」
「良い話である必要はないと思います。おもしろおかしくなくて当然だと思います。だってその話は、ダイゴさんが真剣に悩み続けてきたことと関係があるんですよね? だったら、そのままのかたちで聞きたいって思います」
「でも……」
「長くたっていい、どんなかたちでもいいんです。……わたし、ダイゴさんにあまり疑問をぶつけないようにしてきました。でも、ダイゴさんのことを知りたい気持ちが無かったわけじゃないんですよ」
「………」
「すみません。ただちょっと一緒にいただけなのにダイゴさんのこと気にして、自分でもおかしいヤツって、思ってたんですけど」
「別におかしくないよ。その時近くにいた人間がなぜか気になる。そんな小さな関心から始まる恋もあったわけだし」
ダイゴさんの下瞼がかすかに膨らんで、彼の薄氷のような光彩に別の温度が浮かんだ。
「それに一緒にいた時間は“ちょっと”で表すには長かったと、僕は思うな」
「ダイゴさん……」
「ちゃんもそう思うだろ? じゃあ、ええっと、僕が自分を粗末に扱えなくなった理由を話せば良いのかな。少し、いやだいぶ話がずれても怒らない?」
「はい。怒りませんよ」
「……ありがとう」
うん、と誰に言うでもなく頷くとダイゴさんは一口残りのコーヒーを煽って、言葉に迷いながらも語り始めた。トクサネで過ごした日々の中、確実に横たわっていた、でも触れないようにと伏せられてきた真実を、掘り起こすような話を。
「——僕が自堕落な生活を続けていたのは、一応僕なりの理由があったんだ。きっかけはある人、“彼女”が、いなくなってしまったことだ。彼女を失ったことが、今の僕の始まりだった。
けれどね、僕を貶めたのは紛れもなく僕自身だ。……僕はずっと、彼女無しに幸せになる自分が許せなかったんだ。
彼女を失った最初の一年、僕は悲しみに暮れた。散々悲しんだ。だけど一年も過ぎると、泣けない日が増えた。
多くの人はそれを傷が癒えたと呼ぶのかもしれない。けれど、僕にはそうは思えなかった。自分の涙が枯れてきていると、感じた。
だんだん彼女のために涙を流せなくなっている自分が薄情だとしか、思えなかった。一年目も大概だったけど、僕が本格的に狂い始めたのはその頃だよ。
僕は、僕の幸福は彼女と共にあることだと信じていた。幸福だけじゃない。安らぎだって、彼女と共にあることで実現すると信じていたんだ。だから僕は、彼女がいない現実の中で感じる喜び、安らぎ全てが嫌だった。
彼女を失っているのに、幸せを感じるのは彼女を裏切っているみたいに感じられたんだよ。悲しみが紛れると、彼女の中に信じた物を僕自身が裏切っているとしか思えなくて、罪悪感と自己嫌悪で吐きそうだった。
そう、僕には恐ろしかった。彼女を失った傷が癒えてしまうのが。
周りは沈みきった僕のことをとても心配してくれたよ。それで、みんなは言うんだ。“あまり自分を責めるものじゃない”、“ダイゴが幸せになることを、彼女だって望んでいる。彼女はそういう子だろう”って……。
僕には次の幸せなんて考えられなかった。だって、みんなが言うそれは、彼女以外の人間を好きになるということとイコールだよね。そんなのは、嫌だよ。
いろんな人から、自分を許せと何度も言われた。けれど正直、当時の僕には悪魔の囁きに聞こえていたよ。
このまま忘れることに抵抗をしなかったらなら、もし、そんな自分を許してしまったら、いつか自分は彼女の代わりを見つけてしまうんじゃないかって怖かった。
だから、彼女が過去になっていく中で、僕は様々なものにすがった。そのひとつは痛みだった。彼女を失った苦しみが、彼女の存在がどれだけ大切だったかを教えてくれているんだと思えた。痛みを感じると、僕はまだ彼女を愛しているままなんだと証明されたみたいで、辛い反面とても嬉しかったんだ。
だから僕は自分が元気になることを放棄した。励ましてくれるような人には会わないようにして、明るい気持ちになることを投げ捨てて、傷が、意図的に治らないようにしていたんだ。ずっと彼女が、僕の中に残るように、って。
今思えば、彼女がいなくなったことへの小さな復讐でもあったんだ。誰も羨まないような駄目人間になって、僕は君がいなければどうしようも無い男なんだよって、そんな子供みたいな駄々を全身で叫んでいたかった。僕は、幼稚だったね。
このトクサネにこもったのは、ここなら彼女の影がわずかだけど感じられるから。彼女といくらか過ごしたトクサネになら、まだ彼女が残っている気がしたから、その名残にすがったんだ。
人間関係や仕事、他にも僕はいろんなものを投げ出した。そのうちに、幸せにならないことが、あの子への愛を示す手段だと信じるようになっていた。そしてできあがったのが、この僕だよ。
痛みを感じなくなるのが怖くて、自分の人生が不幸な方向に流れていくように操作する。それが周りの人に迷惑をかけていると分かりながら、ね。
これが残された僕の、正しい生き方なのだと言い聞かせて、ずっとこのまま生きていくつもりでいた」
からからに喉が乾いている。カップにはお情け程度のコーヒーがまだ残っているが、口をつける気になれない。ただダイゴさんの告白が重くわたしの身に降り注ぐ。
「ダイゴさんは彼女さんの帰りを、今も待ってますよね……?」
「どうかな」
「えっ……」
ダイゴさんの告白と釣り合わないあっさりとした返事が、わたしには少なからずショックだった。
「もちろん。会えるのなら、会いたい。けれど前ほど叶えたい願いではなくなったね」
「え……。そう、なんですか……?」
「だって会いたいっていうのは僕の勝手なわがままに過ぎないから」
「そ、そんな軽く考えちゃだめです……!」
「どうして?」
「どうして、って……! わたしが、ダイゴさんを変えてしまったんですか……?」
突然身を乗り出したわたしにダイゴさんは目を見開く。
「わたし、ずっと怖かったんです。自惚れかもしれないけど、わたしの存在が、ダイゴさんと彼女さんの関係を壊してしまうんじゃないかって」
「ちゃん……」
「怖かった。ダイゴさんにとって彼女さんが本当に大切な存在だと知ってから、ずっと。わたしなんかが彼女さんの代わりになれるわけないって分かりきっていても、わたしがいるのは本当なら彼女さんがいるべき場所で、わたしはここにいることで彼女さんの居場所を奪っていて……。ふたりの関係はわ、わたしが変えて良いはずないのに……!」
口からこぼれてしまった一言に、押さえ込んでいた気持ち全てが繋がってしまって、どこかで切るというのは不可能だった。
取り乱したわたしに、ダイゴさんは柔らかな姿勢を崩さなかった。微笑んですらいる。
「大丈夫だよ。僕と彼女の関係は変わってない。彼女は帰ってこないひと、僕はそれを待っている人。ただ、僕自身のことは君に変えてもらったけれど」
「でも……!」
謝ったら良いのか、けれど謝ってもどうにもならない。一度知ってしまえば知らなかった頃に戻れないように、この失態は、取り戻しようがない。
わたしが言うことに詰まったすきをついてダイゴさんはわたしをなだめる。
「僕は単純に彼女に多くのことを願うのをやめたんだ。その代わり、今はただ彼女の幸せを願っている。ちゃんのおかげで、彼女が幸せなら、僕なんかの元に帰ってこなくたって良いって今、思えてるんだよ。
ちゃん、僕を変えてくれてありがとう。君といた時間のおかげで、“彼女”を裏切らずに、そして周りの人たちをも大切にできる方法の端っこを、僕は見つけられたんだ」
「そんなこと、あるわけ無い……!」
「あるんだよ」
わたしが、この人に何をしてあげられたと言うんだろう。
今は、ダイゴさんの大切なものを壊してしまったという実感だけがわたしを支配している。
「……、うん。ミクリが強引に君をつれてきた理由が今なら分かるよ。正直、始めは君に対して優しい気持ちを抱いてしまうことが怖かった。君は“彼女”ではないから。でも、君との生活は彼女がいた頃を思い出させた。本当に、たくさんのことを思い出したよ」
「ダイゴさん」
「なんだい」
しゃくりあげるわたしに、ゆったりとした微笑をくれるダイゴさん。こんな状況なのにこの人の笑顔を受けてわたしからにじみ出すのは嬉しさだ。
やっぱりね、って。そう思った。やっぱり、わたしはダイゴさんを好きになっていた。ただ近くにいて、傷ついた彼の姿を横で見ていた。それだけで好きになっていた。抱いてしまった感情はわたしを見てくれない人への恋。我ながら単純ばかだなって思っていた。
別にそれは良いんだ。勝手な気持ちを抱いてしまったことはばかだなと思うけど、隠して引き連れるつもりだった。
ただ、そのばかな横恋慕の感情がダイゴさんの大切な人を、ダイゴさんを意味も無く困らせたらどうしようとそればかり気になっていた。そのために、気持ちが生まれてすぐ、わたしはそれを押し殺すことに決めたのに。
「わたしは、ダイゴさんと彼女さんの関係を壊しませんでしたか? ふたりの思い出を壊したり、しませんでしたか……?」
それを訪ねたときにはもう、わたしの視界は潤みきっていた。
「心配しなくても。まだ僕は、途方もなく彼女に捕らわれているよ」
待ち望んだダイゴさんの答えは、わたしが望んでいた一番に答えだった。
「よか……、よかった……」
わたしの恋は破れるけれど、ダイゴさんはまだ彼女を好きなまま。ついに涙がこぼれ落ちそうになって、ぎゅう、と自分の服の裾を握りしめた。
胸を針で刺すような痛みを、わたしは抑えたいとも無くしたいとも思わなかった。散り散りにちぎれそうな心臓の痛みがダイゴさんを好きであった証のようで、ただ痛いままであれと願った。
「変なちゃん。でも本当に、今までありがとう。辛いこともあったけど、君のいる日常が無性に愛しかったよ」
「………」
「ミクリに伝えて。僕はもう少し君に心配をかけずに生きていけそうだ、って」
わたしの瞳に、脳に、記憶に焼き付くダイゴさんの寂しそうな笑み。これがダイゴさんの別れの表情なのだと分かり、わたしは彼がコーヒーを飲み干し席を立つまでずっとダイゴさんを見つめていた。