あなたのミロカロス



「さあ、僕も支度をしてくるよ」


 しんみりとしたリビングの空気を振り切ってダイゴさんは家の奥へ行ってしまった。まぶたに指を這わすとこらえきった涙が少量指先についた。濡れた指先は柔らかい日差しでしっとりと光った。
 鼻がすん、と鳴る。わんわん泣かずにすんで良かった。わたしが涙をこらえたのは、一重にダイゴさんを困らせたくなかったからだ。ダイゴさんがいなくなったことで緊張はピークから抜け出した。安堵のため息は泣いた後みたく湿りふやけていた。

 イスの上に座ったままかかとまで乗せて、膝を抱える。
 きっとわたしは、ルネに帰ってしばらくは落ち込むだろう。もう少しトクサネにいたかったという気持ちは必ずわたしを追いかけてくる。恋人のいる人を好きになってしまった自分のことを引きずるだろうし、ダイゴさんとの別れから簡単に立ち直れない自信がある。
 ここで得た感情は穏やかなものばかりじゃない。どうしてわたしはここにいるのか、自分はここにいて良いのか。そんな疑問がずっとダイゴさんとの思い出と表裏の関係でくっついてきた。

 けれど、ダイゴさんはありがとうと言ってくれた。抱えていた膝をまた強く抱きしめる。

 ダイゴさんが口にしたありがとうの言葉。贈られたそれは雲の隙間から差し向けられた一筋の報いだった。


 さっきのダイゴさんの言葉が本当ならばもう間もなく、兄さんがここに着く。お別れの時間は近い。わたしは別れを惜しんでリビングを見渡した。わたしにとってここは、小さなダイゴさんとの思い出が宿るリビングだ。

 テレビで一緒にバトルの中継を見た。ダイゴさんが不規則な生活をしてても、朝ご飯だけは毎朝ふたりで向かい合って食べたなぁ。
 二匹のジグザグマたわむれるスノードーム。棚の前に座り込み、その水球の中に精一杯の光が差し込むように角度を変える。ジグザグマの人形たちは変わらないつぶらな瞳でお互いを想い合っている。
 水球に閉じこめられた光景を眺めながらわたしの中に浮かぶのは、たとえ短い間でもこの家の住人でいられて良かったという気持ちだった。もう少し気持ちが落ち着いて、ダイゴさんがもし許してくれるならまたここに来たい。素直な気持ちを打ち明けたら、ダイゴさんはなんて言ってくれるかな。

 そうだ、永遠の別れじゃない。兄さんに言えばきっと、また会わせてくれる。ダイゴさんはトクサネにいる。会いにいけばいいんだ。あんまり寂しさに向き合っていると、別れ際に泣いてしまいそうで、わたしは逃げるように未来の出来事に思いを馳せた。

 気持ちが少し落ち着いてきたところで、わたしは立ち上がる。部屋に置いてある荷物持ってこようと思ったのだ。ずっと座っていたせいで立ち上がったときによろめいてしまった。力の入らない足の代わりにふりまわした手が、何かに当たった。フローリングの上に滑った何か。わたいは目を見張った。
 それは、“彼女”のポケナビだった。
 珍しい。ダイゴさんが大切なポケナビをこんなところに置いておくなんて。傷だらけのポケナビをダイゴさんは肌身離さず持っていた。だいたいはスラックスのポケットにしまわれているから、わたしはあの夜以来ポケナビをじっくりと見ていない。ダイゴさんの手の中にあったそれが、今自分の手の届く場所に在る。後から思えば誰かのいたずらみたいな状況だった。

 ポケナビは、落ちた衝撃で画面が開いてしまったらしい。フローリングの床に画面の光が青白く反射している。傷とか、ついてないよね? 元々傷だらけだけどダイゴさんにとって彼女の思い出に繋がる大事なものだ。わたしにとっても大切なものであるように、焦って拾いあげた。

 画面を覗くつもりじゃ、なかった。ついてしまったかもしれない床のほこりを払うつもりで、わたしはポケナビを見たのだ。



ちゃん?」


 数秒か数分か、何も考えられなくなったわたしを正気に戻したのはダイゴさんだった。


ちゃーん?」


 わたしを探すダイゴさんの声が近づいてきている。わたしは慌ててポケナビを元の場所に戻し、自分の部屋へと逃げ込んだ。

 音をたてないように部屋に戻り、扉を閉め、ベッドの陰に身を隠すまでわたしを支配していたのは目眩のするような動揺だ。見てはいけないものを、見てしまった。

 さっきとは全く違う感情を胸に膝を抱きかかえる。恐怖だ。得体の知れない出来事に対する恐怖がわたしを支配している。

 ポケナビの画面に映し出されていたのは、アドレス一覧のような画面だった。たくさんの人の名前が並び、名前の横にはその人を説明するような言葉が添えられている。一番上にあったのは恋人らしくダイゴさんの名だ。そして次に並ぶのは兄さんだった。「ミクリ」。そこまでは良かった。その横に「兄さん」という文字列がなければ、良かった。


のこと、ありがとう」


 不意に耳に触ったのは窓の外からの声だ。兄さんの声だった。玄関に迎えが来ているらしい。


「ううん、こちらこそ。ちゃんをありがとう。呼んだからもう来るはずだよ」


 応対するダイゴさんの声。ドキリと胸がイヤな方向に跳ねた。


「本当に。君が僕をちゃんを引き合わせた理由がよく分かったよ。喜んでくれよ、ミクリ。僕はもうどこにいても大丈夫だと思えるんだ。ありがとう、感謝している。——それじゃあ、ちゃんによろしく」
「待て。どこへ行くつもりだ?」
「さあどこだろう。まだ決めてないんだよ、行き先。どこでもいいし、期限も決めてなくて。まあできれば親父に会って、その後は僕のことだからまた石探しに没頭、かな。でも大丈夫。もう元の僕には戻らないけれど、前進するのためにいろんなところに行こうと思って」
のことは」
ちゃんには君がいる。僕は、さよならは一度で充分だ」


 窓ガラスをふるわすエアームドの高い鳴き声が響いて、わたしは初めてこの家の廊下を全速力で走った。
 ダイゴさんを捕まえて、何と言うのか何を言たいのか、分からない。あのポケナビのことはまだ理解しきれていない、説明を聞きたいのかも分からない。
 ただ、遠くに行ってしまうのはイヤだ、という思いに突き動かされていた。
 わたしはダイゴさんがずっとトクサネにいることを期待していたようだ。今日別れるとしても、会おうと思えば会える場所にいて欲しかった。ダイゴさんはトクサネにいると信じて、わたしは親友の妹に戻りたかった。

 ダイゴさん、いつ言葉を交わせるか分からないところへ、行かないで。
 もつれた足で飛び出した玄関の先。立っていたのは兄さんただ一人。息を切らしながら見上げた真昼の太陽の真ん中を、エアームドの影が通り過ぎていくのが見えた。