アブソルはみないふり



 わたしを迎えた兄さんの表情はごく普通であった。わたしを呼ぶ声はちゃんと家族を呼ぶ声で、電話で冷たいことを言い放った名残はなかった。
 兄さんの声は届いても、表情まではわたしの意識に入ってこない。兄さんの口から元気だったかという言葉と、謝罪のような言葉を一言、二言聞いた気がしたが、意味まではわたしの意識に響くことは無かった。ダイゴは行ってしまったよ。勝手なやつ。そんな呟きはすんなりと耳に入ってきて、わたしの顔を上げさせた。


「ダイゴさん、帰ってくるよね……?」
「恐らく」
「お別れとか、ちゃんと言ってないのに……」
「自由すぎるくらい自由なやつだが、気長に待ってさえいれば会えるさ」
「兄さんでもどこにいるかわからないの?」
「分かるわけないだろう。そんなべったりした関係ではないさ」
「そっか……」
「……どうした?」
「ううん、なんでもない」


 荷物はこれだけか? 、疲れたのか。そんな顔をしている。顔色が悪い、早く帰ろう。帰ったら、ダイゴとおまえがどんな風だったか聞かせてくれないか。
 荷物を持ってくれた兄さんは空いたでわたしの手を取った。手の平に触れた兄さんの体温。忘れていた人の温度というものがわたしの涙腺を壊した。もう泣いたって困らせるダイゴさんはいない。そう思い始めたら子供みたいに次々に涙をあふれさせ、拭うわたしに、長い間悪かったと言って兄さんはわたしの頭をなでぽんぽん、と叩いたのだった。




 ルネシティに帰ってきて、わたしの故郷はこんなに静かな町だったのかと驚いた。外の海と比べると、ルネの海面は静かすぎた。どこからともなく吹き付ける潮風はなく、夕陽が真横から町を照りつけることもない。あそこは、ルネにないもので溢れていた。家の中にばかりいたのに、トクサネでわたしは新鮮な物事に包まれていた。

 故郷で、わたしはダイゴさんとの別れを引きずった。わたしの予想とは全く違うかたちで。
 あの海を知った後では、ルネの海が少し物足りなく感じてしまう。意味もなく窓辺に寄っては何もしないで時間を浪費してしまう。静かすぎる、その物足りない海を眺めながら。

 あれから、わたしはポケナビの持ち主が他人である可能性に望みをかけた。わたしが知らないだけで、他に家族がいたのかもしれない。逃避思考で見知らぬ妹か姉を想像したけれど、それは兄さんによって全否定された。
 兄さんのこと、まるで兄のように慕う人物がいるんじゃないかと問いただしたが、兄さんはこれにも首を横に振った。どうやら私は親しみとはほど遠い人間のようだよ、と苦笑い付きで。
 そうなればミクリを兄さんと呼ぶ人間はわたし以外にいないことになる。ならば、やはりあのポケナビの持ち主は……。

 目を閉じるとまぶたの裏に、あのポケナビの画面が浮かぶ。
 あの日見てしまったことが、脳裏に痛いほど焼き付いている。けれど肝心の現実がそぐわない。あのポケナビを持つにふさわしい記憶も、見えてきた事実を裏付ける物証もわたしには無かった。
 やはり、わたしの目は間違いを起こしたのかもしれない。未だにわたしは自分の目を疑っては信じ、信じようとしては疑っている。

 わたしの中に答えは無い。けれどわたしとダイゴさん両方を結びつけた兄さんなら、必ず何か知っているはず。
 自分で考えを巡らせても、全てが息詰まってしまう。自分だけで答えを導き出すことは不可能に思え、結局わたしは、ソファでお気に入りの写真集に見入る兄さんに、自分なりに一番答えに近いと思う質問をぶつけた。
 

「ねえ、兄さん。わたし、何か忘れてる?」
「さあ。特に何も忘れてはいないよ」


 混乱に溺れるなか、酸素を求めて聞いたのに、イヤにはっきりと否定された。兄さんの、隠し事をそれと悟らせない笑顔つきで。


「本当に? 心の底から、そう思ってるの?」
「ああ。の気のせいだろう」
「気のせいなんかじゃない。……と思う。だって、どうしても辻褄が合わないことがあるの。でもそれはわたしが忘れてるってことにすれば、説明がつきそうで、だからわたしの記憶がどこかおかしいんだと思う。兄さんは何か知ってるんでしょ……?」
「さあ」


 海中写真から目を離さないまま、兄さんは涼しい顔だ。


。思い出せないことはそのままにしておくんだ。無理に思い出す必要はない」
「でも、わたしが忘れているのって、たぶん……」
「大したことじゃない。誰だって忘れることはある」


 信じられない。
 ダイゴさんに関わる、わたしが覚えていないこと。どこまでか分からないが妹に、親友に関わることを、大したことじゃないの言葉で片づけられる兄さんの神経が信じられなかった。

 そうだよ、ミクリ兄さんがこんな言いぐさをするのは逆に変だ。兄の白々しさがわたしを確信へと結びつけていく。


「いいえ、兄さんは知ってるはず。絶対に。なのに、どうして教えてくれないの……!?」
「止められている。の欲しがっている答えは分かるけれど、当事者同士でそう決めたんだ。それを私も最良の選択だと思っているよ」
「わたしが知りたいって言っても言えないの……? 当事者って、わたしも当事者でしょ!?」
「そうかもしれない。けどね、事の責任は誰にもとれないんだ。自身にもね。違和感をぬぐい去りたい気持ちも分かるけれど、同情や申し訳なさで知るようなものじゃない」
「……でも、………」


 兄さんはようやく本を閉じた。気遣うような視線が向けられたかと思うと、表情を伺うように前髪へ触れてきた。遅すぎる指先に、わたしはまた怒りを覚えた。


のままで良いんだ。はまだ物事の全体が分かっていないと思うし、自分が何をどんな風に失ったかも分かっていない。そんな事の責任を本人に負わせるなんてナンセンスなこと私はしない」
「……もういいよ」

「兄さんの分からずや」


 そう言い捨て、兄さんの手を払い除けた次の日、わたしは兄さんに何も言わず小さなリュックだけを持って家を出た。

 家出のようなことをしたのも、ルネをたった一人で飛び出したのも初めてのことだった。


 ルネからトクサネまで、わたしは貨物用の小さな潜水艦に頼み込んで乗せてもらった。ずっと兄さんと兄さんのポケモンに甘えっぱなしだったわたしがルネの外に出るのは至難の技かと思えたけれど、拍子抜けなくらいあっさりトクサネに着いてしまった。
 なんだ、出ようと思えば一人でもどうにかなるものらしい。

 ダイゴさんはこの世界のどこか、わたしの知らないところに行ってしまった。トクサネに行ったところで会えるとは思っていなかった。けれどトクサネのあの家が唯一わたしとダイゴさんをつなぐもので、わたしはすがるようにダイゴさんの家を目指した。


「お、おじゃましまーす……」


 数日ぶりのダイゴさんの家。
 しん、とした家の中。フローリングの冷たさに背筋が震えた。


「ダイゴさーん……?」


 わたしの声が虚しく響く。部屋をひとつひとつ覗いてみたけれど、人の気配は無い。いつもダイゴさんがいた地下室も覗いてみようとしたけれど、しっかり鍵がかかっていた。家の鍵はかかっていなかったくせに。ダイゴさんにとって盗られて困る大事なものは地下室にある石らしい。

 いるわけないよね。ダイゴさんがトクサネにいないのは分かっていた。
 それでもほんの少しこの家にあの気弱な大人がいることを期待したけれど、やはりもぬけの殻だった。
 脱力して、ひとりソファに座り込んだ。このソファのかたち柔らかさにわたしのおしりはしっかり慣れている。

 誰もいない家でため息をつけば、急に兄さんの顔が浮かんだ。想像されたのは心配している顔と、怒っている顔だ。ルネの家を何も言わず飛び出してきてしまったわたしに向けられるのはそんなところだろう。
 初めてだった。兄さんを疑ったこと。トクサネで過ごした時間の中で、一度疑うことを覚えてしまった。もう前のように兄さんを信じきるのは出来そうになかった。知ってしまったことを、知らなかったことに出来ないように。

 はーあ、とため息が出てしまう。
 ポケナビの画面なんて、覗かなければ良かったとも、正直思っていた。
もちろん、あのポケナビがなければわたしは何も知ることなく、失恋を引きずりながら元の生活に戻れた。
 
 そう、わたしは何も知らなかった。けれどダイゴさんはポケナビの中身がそれと分かっていたのだろうか。分かりながら大切に持ち歩いていたのだろうか。あんなに肌身離さず持ち歩いていたものだ。分からないはずがないよね。
 ならば出会った日、ダイゴさんが顔を凍らせたのは。エクレアを用意したのは。酷く心配したのは。少しずつ心を許してくれたのは。わたしを許したのではなくて、わたしが元々、“彼女”だったから。

 どうしよう。わたしが“彼女”だとしたら。ダイゴさんの“彼女”を語る瞳が見ていたのは。ダイゴさんを泣かせていたのは、ダイゴさんが待っていたのは、思い出を残したかったのは、ダイゴさんが痛みを持って苦しみを必要としながら胸に留め続けようとした存在は……。

 何も分かっていなかったわたしに、それは向けられていたのかな。

 静まりかえった空間で、わたしは心の中でダイゴさんを呼んでいた。そして声を思い出していた。ちゃん、と呼んでくれたダイゴさんの声を。
 すん、と鼻をすする。肺に入った空気を懐かしいと感じるわたしがいた。
 ダイゴさん。貴方の瞳は誰を見ていたの。

 リビングを見渡した視界にふと、意外な色が入り込んできた。
 模様の薄い壁、白々したフローリングの空間に、四角形の青が浮いている。
 滲んでいた涙が引いた。はっと目が覚めたような感覚だった。白い壁にピンで留めてあったそれを慎重に取り外す。それは、ダイゴさんのお父さんがダイゴさんに宛てた海の絵ハガキだ。


「そうだ、カナズミには、ダイゴさんのお父さんが……」


 ダイゴさんとの会話がありありと思い出される。カナズミシティの高いビル。こんな遠くまで海を見渡せるような高いビルがダイゴさんのお父さんの会社だったはず。

 簡単に諦めたりなんてしない。手がかりはまだあるのだから。

 主のいないトクサネの家で、わたしは青い、ダイゴさんのお父さんが送ってきたという絵ハガキを手に入れた。