「どうぞ、好きなところにかけなさい」
ダイゴさんに送られた絵ハガキにあったのは社長室からの風景だったようだ。絵ハガキの海と全く同じ光景が臨める部屋で、ツワブキさんはごく冷静にわたしへ対峙した。
「貴女とダイゴはどんな関係だったかな。申し訳ない、失念してしまってね」
はじめに投げかけられたのは、わたしという曖昧な存在への問いかけだった。
ツワブキさんはどこまで知っているのだろう。けれど先ほどわたしの「はじめまして」に合わせてくれたのだから、きっと以前のわたしを知っている。そしてわたしが異変を持った人間であることも。
「わたしは……」
存在したらしい過去のことを答えれば良いのか、それとも今のわたしの気持ちを言えばいいのだろうか。
それ以前にダイゴさんにとっての自分。そんなものを表す言葉は見つからない。しょうがないので主語を変える。
「ダイゴさんは、わたしにとって兄の親友、です」
「そうか」
「けど、わたし自身は、わたしとダイゴさんの間には他の繋がりがあったのかもしれないとも思っています」
「ふむ、なるほど」
他の繋がりがあったかもしれない。不可思議な言い方にツワブキさんが表情を変えることはなかった。
静かな相づちに促され、わたしはなるべく自分の心のままが伝わるように気持ちを口にした。
「ダイゴさんとは少し前、紹介されて出会いました。ツワブキさん、わたしの兄を知っていますか?」
「ミクリくんのことだね。ダイゴと親しくしている人物と言えばミクリくんだし、君の雰囲気はミクリくんによく似ているよ」
「わたしにダイゴさんを会わせてくれたのは兄です。兄が留守の間、わたしの面倒を見てほしいとダイゴさんにお願いしたんです。それで、わたし、ダイゴさんのおうちにしばらくお世話になっていました」
「そうだったのか。君たちがふたりで。そんなことが」
「ほんと、兄がどんな意図で会わせたのか分かりませんが。お別れの日までは、わたしはダイゴさんをただの兄の親友だと思っていました。けれど、今は分からなくなっています。わたしは、もしかしたら……」
その先を言葉にするのはどうしても違う気がして途切れてしまう。
「息子にはどんな用件で会いたい、と? その様子だと、君の疑問を晴らすためかな?」
「ダイゴさんに聞きたいことは山ほどあります……。でも、それよりもわたしはダイゴさんに——」
ツワブキさんの瞳。ダイゴさんと同じアイスブルーだ。その色を見つめ返すうちに、わたしは自分の考えが整理されていくのを感じた。
ダイゴさんを追いかけてきた理由は兄さんへの反発心と、名前のつけられない衝動からだった。
自分が何者か、分からない。ダイゴさんに会ってどうしたいのか、どんな顔をしたら良いのか分からない。でも、とにかくダイゴさんを追いかけたい、という衝動。
その衝動が今なら、ダイゴさんの元となったこの人の前でなら言い表せそうだった。
「——トクサネで一緒に過ごしていて、わたしが一番見たダイゴさんは苦しんでいる姿でした。ダイゴさん、お別れする前の日にも泣いていました。情けないからもう泣かないって、言ってたけど」
一番は苦しんでいる姿だったけれど、二番目によく見たダイゴさんの表情は、薄い笑みだった。
あの人、傷つきながらも笑みを浮かべてわたしへ向けてくれた。時に冷たく、拒絶の証だったけれど、幸せとはほど遠いからこその表情だと分かっていたけれど。それでも、ダイゴさんの笑顔が特別好きだった。
ダイゴさんが笑むときだけは、停止していた瞳の時間が動き出すようだったから。
「ダイゴさんが何か抱えていることはすぐ分かりました。それと同時に、わたしにはきっと何もしてあげられないことにも気づきました。
自分は兄から彼に押しつけられた居候でしかないと思っていましたし、実際ダイゴさんが求めている人はたったひとりだったと思います。ダイゴさんの心を満たせるのはダイゴさんの心が求めてる人だけだと思うから。わたしには何の資格も無いんだって思ってました」
兄さんは思い出さなくて良いと言った。忘れてしまったことの責任は誰も負えないからと兄さんは言った。その表情に、妹を案じる気持ちがあったのを思い出す。
兄さんにそんな表情をさせた自分を呪いたい。
「でももう、何も知らないわけじゃ、ないんです。まだ、知らないことばかりで、何か思い出したわけでも無いんですが。
でもわたしにもし、してあげられることがあるなら、なんでもしたい。ダイゴさんには何でもしたい。助けられるならずっと助けたいと願っていました。その願いが叶うなら、わたしどんな思いをしたって良いんです」
兄さんはずっとわたしを守ってくれていたのだろう。何も知らないわたしのそばにいてくれたし、その間記憶のことを口にしたことなんて無かった。だからわたしはあのポケナビを見てしまうまで、何の疑問も違和感も抱かずに生きていた。
わたしがポケナビを見て、知りたがったのもなだめて、そのままでも生きていて良いと、許しをくれていた。
どんな思いをしたって良い。傷ついたって良い。こんな気持ちは兄さんの想いを裏切っているんだろう。それでもわたしは過去を背負いたい。もう何も知らない自分ではいたくない。
「ダイゴさんはもう大丈夫だって言ってたけれど、でも、傷が癒えたなんて一言も言わなかった……。ツワブキさん、わたし、ダイゴさんに一人で背負ってほしくないんです。ダイゴさんばっかりが傷ついているのは、違うと思うんです」
「そうか。ちゃんはこれからどうしたいんだい?」
「ダイゴさんを探して、見つかったらダイゴさんに謝って……それから、それから……」
カナズミの風はルネのそれともトクサネのものとも違う潮の匂いがした。デボンコーポレーションに飛び込んだ次の日。わたしはツワブキさんが用意してくれた船の上で海風に吹かれている。
“ダイゴさんに、会いたいんです……”
ツワブキさんにこれからのことを聞かれ、感極まりながら出したその言葉は、答えになっていなかったのに。ツワブキさんはわたしに船を用意してくれた。それだけじゃない。直々に道案内までしてくれるというのだ。
大きな会社の社長さんにそんなことはお願い出来ないと何度も言ったけれど、ツワブキさんが意志を変えることはなかった。
「私は君に家族のような気持ちを抱いている。加えて今は息子や君にとって大事な時が訪れている。そんな機会をみすみす逃すようなことはしないよ」
ツワブキさんの貫禄に、堂々とした言葉にわたしは押し切られてしまった。
ダイゴさんを追うためには海を渡る必要があるらしい。そして目的地の名をわたしは聞いたことがなかった。海の向こうの知らない土地だなんて、またまたわたしには高すぎる壁だ。
思えば道中わたしは助けられてばかりだ。ルネからトクサネまでも一人の力で来られたわけじゃない。フウとランがいなければ、トクサネを出ることは難しかった。わたしはデボンコーポレーションでも、ツワブキさんだけじゃなく社員の方にも助けてもらったのに、促されるまま船に乗り、きちんとお礼も言えなかった。
わたしは、本当に子供。力を持たない子供だと痛感する。
そんなわたしに何が出来ると言うんだろう。
ツワブキさんの前で放った言葉が、途端に無謀に思えてくる。
わたしは子供だ。だけど、でも、ひとりっきりよりは良いはずだよね。
頼りない望みにすがって、わたしは船の揺れに身を任せた。
数時間を要して、船は小さな島に到着した。ついにわたしは聞いたこともない場所まで来てしまった。
着いたのは道も曖昧な、未開の島だった。ダイゴさんはなんでこんなところに来たんだろう。あ、石が大好きなんだっけ。考えるまでも無かった。
「長時間ご苦労さま。この島にダイゴの船が来ているらしくてね」
「ツワブキさん。本当にありがとうございました……!」
「お礼を言うのはまだ早いよ。それと。勝手ながらミクリくんにも連絡をとらせてもらったよ」
「もう着いていますよ、ツワブキさん」
ツワブキさんに真摯に頭を下げたのは、正真正銘の兄さんだった。まさかの待ち伏せに思わず「げっ」と言ってしまった。
「こんにちは、ご無沙汰していました」
「やあ、久しぶり。うまい具合に会えたね、ミクリくん」
「はい。今回のことをツワブキさんに連絡せずすみません。ダイゴにもにも、ここまで効果が現れると思っていなかったんですよ。……、」
兄さんが振り向く。どんな顔をするのか、恐ろしくてわたしは顔をそむけた。
「。おまえの自由な意志は尊重するけれど、こんな無茶なことをするとは」
「……ごめんなさい」
「心配した。まあよくここまで来たものだね」
「兄さん。本当にごめんなさいって思ってる。お説教とかは後でちゃんと聞くから、今はダイゴさんのところに行かせて!」
兄さんが眉を歪める。明らかに増した威圧感に、わたしは出来る限り深く頭を下げた。
「言葉を間違えました、申し訳ありません。行かせてください、お願い、します」
「……はぁ。おいで。この島には一応心当たりがあるんだ」
マントを翻し、兄さんは先を歩き始めた。
まだ言いたいことがあるのだろう。兄さんは一度も振り返らずにわたしたちを島の奥へ導いた。
兄さん、わたし、ツワブキさんの順で道らしからぬ道を進む。
トクサネで青いハガキを見つけたとき、手がかりを頼りにダイゴさんを探そうと決めたとき。わたしはもっと厳しい道のりを予想していた。元々外の世界へ出ていく自信も無かったけど、それ以上に覚悟していたのは、たったひとりで頑張りきることだ。
兄さんを拒絶したわたしは孤独で、もう味方はいないのだと思いこんでいた。なのにわたしはケガをすることもなく、一歩ずつ着実にダイゴさんに近づけている。わたしの力ではない。過去のわたしを知る、周りの優しい人たちのおかげだ。
ここへ導いてくれた優しい人たちの顔が思い浮かぶ度に思う。わたしは、記憶を背負いたい。
フウさん、ランさん、デボンコーポレーションの人々やツワブキさんを忘れたままなんて、ありえない。そしてダイゴさんのために、事実を受け入れたい。
元の自分に戻れないとしても。
小さな洞窟を二時間ほど進んで、岩の地面を踏みしめた足がじんじん痛む。兄さんは地上からの光が差し込む、ドームのような場所で足を止めた。。兄さんに呼ばれて目をこらすと、探していた姿がそこにあった。
彼は先にわたしたちを見つけていた。むしろ待っていたかのように、ゆったりと乾いた岩に腰掛けて、うっすらと笑みを浮かべている。
わたしは、こんな透き通った光の下で彼のつむじを見たのは初めてだと、場違いなことを考えた。
「すごい、僕の大切な人がみんな揃っている」
そう言いながらも彼の顔は驚きを映し出さない。
「ミクリに親父にちゃん。こんな辺鄙なところに。どうしたっていうんだよ」
手に握られているのは、ポケナビ。“わたし”の遺品だ。
「ダイゴさん。そのポケナビは、わたしの、ですよね」
「……、どうしてそのことを……? まさか、ミクリ?」
「私じゃないさ」
「たまたま、わたしが中身を見ちゃったんです」
「そう、か。でも全部は思い出していないんだね。君の顔は“ちゃん”だ。“”じゃない」
その呼び方を初めてされた。いつも彼女としか呼ばれなかった人物の名。ダイゴさんから紡がれたその響きを聞いたとき、ようやくわたしは絶対の確信にたどり着く。
わたしの恋敵は“わたし”であった。