たびだったラティアス



 ダイゴさんを縛っている“彼女”が例えばひどくイヤな女であれば、わたしは彼を奪うことを選択肢の中に入れたかもしれない。
 もし“彼女”がとても良い人で、彼女を選ぶことがダイゴさんの幸福に繋がるのだと思えたなら、今より素直にダイゴさんの幸せを応援できたのに。わたしの恋敵は“わたし”であった。最悪だ。自分、それも過去の自分とは戦えやしない。憎たらしい自分。でも兄さんのやわく笑む顔を思い出すと、いなくなることも出来ない自分。

 息が苦しかった。“彼女”の正体でありながら、決して“彼女”にはなれない自分を分かっていたから。


「そうか、このポケナビから分かっちゃたんだ。全く、僕の落ち度だね。このポケナビは君の形見でありながら、僕の罪の証でもある。ポケナビの傷が、僕に“を忘れるな”って言ってくれる。だからいつも持ち歩いていた。けれどこれがちゃんに決定的な答えを与えてしまったわけだ。恨むよ、自分の女々しさを」


 深いため息がダイゴさんの両手に握られたポケナビにかかる。傷とへこみだらけで、未だ弱々しく着信を知らせるポケナビに。


「出来るなら自然に思い出してほしかった。こんな、僕の甘さから知られてしまうなんて。一番望んでなかった……」


 空を仰いだり、地底に引き寄せられるように俯いたり。あちらこちらを向くダイゴさんの瞳は一貫して暗い色を宿している。


「勝手に見てしまったこと、怒ってますか」
「怒ってなんかないよ。ただ、もう、僕はどういう顔をしたら良いんだ? ……だからミクリにはやめてほしいって言ったのに。僕はまだ自分を繕えないんだよ……」


 苦しみもがき、ダイゴさんは顔を隠してしまう。近づこうとした足は一歩を刻んだところで、やめてくれよというダイゴさんの声に止められた。


「トクサネの家で嫌というほど思い知らされた。君は決して僕の求めている人じゃない。そして今でも、僕の勝手な願望や欲望をぶつけてはいけない、愛しい人なんだとも」


 愛しいなんて言葉が自分に向けられたことに、しばらく理解が追いつかなかった。ダイゴさんを追いかけることで、押し隠されていた怒りの封を解く覚悟だってしていたのに。
 でもダイゴさんの言葉を疑うことも、わたしには出来なかった。わたしに向け歪められた顔が、本当は笑顔の失敗作なんだと、直感していた。


「もちろん君は僕の恋人だったじゃない。たくさん教えた僕の秘密をもう忘れてしまったし、僕を親しげにダイゴとは呼んでくれない。彼女でなければ昔の関係には戻れない。けど、僕はちゃんも好きだよ」
「………」
「救われた。僕を忘れた君も、ちゃんと好きになれたことに。僕を忘れた君でも、好きだと思えた。二度も好きになれたんだから、君を愛したことは必然だったと確信できた。そして今現在の君も愛せる、心から幸せを願えると、確かめられた……」
「ダイゴ、さん……」
「僕、ちゃんに言ったと思う。君が覚えているか分からないけれど、だけを愛したまま、誰も好きにならずに死ねたら良いって」


 わたしははっきりと覚えている。まどろんだ意識の中でも、ダイゴさんのその言葉だけは刷り込みのようにわたしの脳に刻み込まれた。

『彼女を愛したまま、誰も好きにならずに死ねたなら、それは一種の幸福だと思う』

 ダイゴさんはそう言っていた。


「今現在の君も愛せるようになれて、僕はようやく君を好きだという気持ちの行き場を見つけられたんだ。好きだ、好きだって心の中で想っても本当はずっと空しかった。だっては消えてしまったから。僕の思いも闇に吸い込まれ虚空に消えていくようで、そんな気持ち何にもならないって言われているようで空しかった。そしていつか気持ちが枯れるんじゃないかって怖かった。
 でも君が現れて、ずっと何も無いところに向かっていた気持ちを受け止めて貰えた気がした。それで、良かったって思えた。君を好きなままで良かった、って。
 ミクリは、きっと僕に教えたかったんだと思う。誰かを思う存分愛せる喜びを、僕にまた気づかせたかった。それが綺麗事だとしても、どうしようもない僕を救うと彼は知っていたんだ。
 ……ごめんね。そんな顔をしないで。僕の気持ちなんて知らなくていい。生きてくれさえいれば、それでいい」


 生きてというシンプルな願い。
 それはどれだけわたしを縛り付けることだろう。


「うん。君には生きていてほしい。それ以上を望む気にはなれないな。何故なら君はちゃんだから。君が僕をダイゴと呼んでくれれば、僕の気持ちも少しは変わっていたかもしれないね。
 ちゃん。君が“”じゃないのなら、もう僕を追いかけないでくれよ。君がいない空白を他の誰が埋められるわけじゃない。同じように君は他の人間の空白を埋められない。決して“”の代わりを出来ると思わないように」
「………」
「ありがとう。ミクリと一緒に元気に暮らしてね。君を遠くから見守っているよ」


 言葉は建前でもなんでもなくて、本当だと思わせるくらい落ち着いた口調で言うから。

 ずっと笑い損ねていたのが、わたしの幸せを願った顔をしたから。わたしは走り出していた。


「待ってください!!」


 立ち尽くしていた足が上手く伸ばせない。とがった岩の先が足を擦った。それでももつれながら伸ばした手を、わたしが転ぶのを防ぐようにダイゴさんは掴んでくれたのだった。


「ダイゴさん! 確かにわたしは昔に戻れないかもしれません! でもそんなのはダイゴさんも一緒でしょ!? わたしのこと、忘れないでいてくれるんでしょ!? ならわたしは、わたしの出来ることをします! ダイゴさんにしてあげられること、なんでもしたいんです!」
ちゃん。お願いだから。僕を忘れてください」
「いやです!」
「忘れるんだ。僕は、同情でつき合える人間じゃない」
「同情じゃ、ない……!」
「じゃあなんだって言うんだよ」
「好きだからです。ダイゴさんが好きだから、です」


 聞け。届け。知って。わたしが持ってしまった想いを。


「わたし、ダイゴさんに一緒にいてほしくって、元気に暮らしていてほしいんです……!」


 言ってしまった。しかも大声で。
 辺りはしん、と静まり返って耳が痛い。
 後ろの兄さんはどんな顔してるだろうか。そういえばツワブキさんにも聞こえているんだろうか。

 ダイゴさんは信じられないといった風だ。ようやく苦しくない類の表情になった事実が胸に高鳴る。


「な、なんで? どうして?」
「そんなの知りませんっ!」
「知らない、ってそんな……」
「っそこにいたのがダイゴさんだったから! 自意識過剰かもしれないけれど、ダイゴさんが優しくしてくれたから……! 子供みたいだけど、ダイゴさんのこと、あっと言う間に好きになってしまったんです……」
「………」
「それだけ、です……」


 そう、わたしが彼を好きになった理由なんて大したことないのだ。
 何にも知らない女の子のわたしの前に、素敵な人が現れて、一緒の時間を過ごしてくれたから好きになってしまった。たったそれだけ。
 わたしの扱いに困りながらも傷ついた面を見せてくれたり、気にとめたりしてくれたから、わたしも心を開いたのだ。
 今繋がれている冷たい手だって、大好き。


「おかしいよ。僕はかっこわるい所ばかりを見せてた、それに……」
「困らせてごめんなさい」
「違うんだよ。君の記憶喪失の原因を作ったのは僕なんだよ」
「原因なんてどうでもいいです」
「どうでもいいわけないよ……。僕が何をしたか、君は分かってない……!」
「ダイゴさんはたくさん苦しんでくれましたから、もう良いんです。あなたは、わたしの持っていたポケナビを握りしめて、ずっと、自分を責めていたんですね」
「………」
「忘れてしまって、ごめんなさい。やっぱり覚えてないけれど、ダイゴさんがどれだけ“わたし”を大切にしてくれてたか分かります。前の“わたし”も、きっとダイゴさんを好きになって幸せだったと思います。だって、ダイゴさんの優しさはどれも嬉しくて、あの家にずっといられたら、わたしは幸せを感じられたと思うから……」


 あの家には確かに“わたし”の居場所があった。“わたし”が生きやすいように、ダイゴさんに寄り添えるように。
 わたしが無くしてしまったのは記憶だけじゃない。ダイゴさんと幸せに生きる切符をも手放してしまった。


「わたし精一杯頑張ります。いつかダイゴさんと別れなければならなかった“自分”のぶんまで。きっと悔しがってると思うから。
 お願いだからもう、孤独を選ばないでください。たったひとりで辛い道を選ばないでください。過去のわたしはもういないけど、今のわたしならここにいるんです……。
 昔に比べれば物足りないわたしですが、ダイゴさんが好きで、ダイゴさんが、今のわたしの幸せを願ったように、わたしもダイゴさんの幸せを願っているんです……」


 ダイゴさんを抱きしめたいなと思った。抱きついて、ぎゅーって抱きしめたい。そう思っていたら震えるダイゴさんの目と視線があって、わたしは逆に抱きしめられていた。強く、強く、ぎゅうーっ、と抱きしめられていた。