兄さんとのことを抜かせば、男の人に抱きしめられたのはあの時が始めてだった。あの時限りはそう思った。形の違うもの同士の隙間を埋めようとする抱擁。ダイゴさんの体温につられて熱くなった自分の体。肩にあるダイゴさんの表情をひたすらに思い、間近に感じたダイゴさんの匂い。手すら繋いだことなかったのにな。初めてづくしの、忘れられない感覚の中にわたしはいた。
「……また一緒にいても良いって思ってくれるのかい」
「思ってますよ、すごくすごく、一緒にいたいって」
「……、ありが、と……」
掠れた声が途切れてしまった。さらに強く押しつけられたダイゴさんの頭。耳の後ろに微かな湿気がある気がした。もしかしてダイゴさん泣いて、いるのかな。泣いてたらどうしよう。ひやりと緊張してきたわたしの耳に入って来たのは、ダイゴさんの笑う声だった。
「ふ、っあはは、ミクリがすごい顔してる……。ああ親父もだ。そうだよ、親父もいるっていうのに僕は。はは、ばっちり見られたな。やだな、もう」
兄さんのすごい顔?
気になったけれど、わたしにはダイゴさんの肩向こうの景色しか見えない。振り返ってみたい気もしたけれど、こうして抱きしめられるのが初めてなわたしはどうしたら良いか分からなくて。ダイゴさんの腕が離してくれるまで、わたしはダイゴさんの笑い声を世界で一番近いところで聞いていたのだった。
わたしたちの話が終わったとなるとすぐに大人たちだけで話し合いを始めてしまった。ダイゴさんは兄さんとツワブキさんの両方から、責められ、そして暖かい言葉を贈ってもらった。そうダイゴさんの表情は言っていた。
話し合いの結果、ひとまずはわたしと兄さん、ダイゴさんとツワブキさん。家族ごとに別れることになった。
「ダイゴさん、すぐトクサネに帰ってくるわけじゃないの?」
「ちゃんには申し訳ないね。でも私もダイゴにはこの際だからしっかり話しておきたいことがあるんだよ」
「ツワブキさん……」
「あいにくと、に言っておきたいことなら私も山ほどあるんだ。とりあえず今日は家に戻ってきて大人しくしてくれ」
「……はーい」
「ちゃん。すぐには無理だけれど、迎えに行くから待っててね」
そう言ってダイゴさんはいつかの約束をしてくれた。
もう少し時間がかかると言われたことは残念だったけれど、我慢だ。わたしは少しどころでなくダイゴさんを待たせてしまったのだから。
そうしてダイゴさんを目指し集まったわたしたちは、別々の帰り道についたのだった。
わたしが亡くした記憶について、兄さんは情報を解禁していってくれた。ゆっくりと、だけれど、「いずれ」とか「追々教える」とかの言葉でごまかされることもあるけれど、基本的に知りたいと言ったことを教えてくれるようになった。
無くて当然だったものが、本当はあったと知っていくとき。驚くこともあれば、ぴんと来ないこともある。一番驚いたのは、年齢のことだった。唐突に兄さんが言ったのだ。
「。は自分が何歳か知ってたかな」
「え、それはもちろん——」
言いかけて気づく。自分の記憶は頼りにならない。
「まさか」
「もう黙ってることもないだろうから言うけれど、2歳ぶん足したそれが本当の年齢だ」
「そんな……! じゃあ兄さんは……!?」
「ああ。私の年齢にも2歳足してくれ」
「どどどどどうして言ってくれなかったの!?」
「忘れていて」
「それってわたし、実年齢より大分若作り振る舞ってたってことにならない!?」
「若作りって年齢では無いだろう」
「あああ分かってたらちゃんとそれっぽくしてたのにいいい……、っていうかそんなの分かるわけない!!」
知りたくなかった事実を知ってしまった日、わたしは自分の枕をめちゃくちゃに叩きながら不眠の夜を過ごした。
忘れてしまった友達の存在を知ることができたのは良かった。
わたしは予想外にたくさんの人を悲しませたり、不可思議な思いを抱かせていたらしい。わたしはようやく自分自身について説明ができるようになって、誤解はひとつずつ解いていっている途中だ。
記憶を取り戻したいという気持ちはあるものの、絶対の気持ちには未だならない。逆に、忘れたままでいたいと思うわたしがひっそりを息を潜めている。
理由は怖いからだ。
記憶を取り戻したら、わたしはわたしでなくなってしまう気がして。今のわたしじゃない、別の“”がわたしを乗っ取って、代わりにダイゴさんに愛されてしまうのではないかとそんな想像が浮かんできて怖いのだ。
だから記憶喪失の原因をわたしはまだ知らない。大きな事故があった、とだけ聞いている。そしてその事故にダイゴさんも近いところで見ていた、と。
けれど、わたしのポケナビは傷だらけだった。
背中の、自分からは見えにくい部分になんで今まで気づかなかったんだろうと思うくらい大きな傷跡も見つけた。
事故の断片は掴んだ。けれどそれ以上の追求はまだできないでいる。以前の自分に戻ることが別の人間になってしまうようで怖い。そう思ってしまう時点で、わたしにはまだまだたくさんの時間が必要なのだろう。
いつか過去の記憶もまるごと自分と、思えるようになりたい。
そしてそんな自分でダイゴさんに前に立ちたいと思う。
今わたしは水上にいる。
今日は兄さん自慢のミロカロスに乗せてもらった。ポケモンの上は本当に気持ち良い。風が爽やかだし、波を乗り越えるたびに体を浮かす揺れも、ポケモンの息づかいみたいで楽しい。ひとりでトクサネを目指したときに乗った潜水艦とは全く違う。
「兄さん、ありがとう。本当に、びっくりしちゃった」
「何がだい」
「実はね、トクサネに行きたいっていうのは、ダメ元で言ったから。お祈りみたいな気持ちで言っただけだったの」
「私がダイゴに会わせないかと思った?」
「うん。ちょっとだけね」
「言うわけないだろう。が思っている以上に、私はダイゴを信頼しているよ」
「そっか」
程なくして到着した浅瀬。海水がちゃぷちゃぷとくるぶしをゆすぐ。
夕方に迎えに来るよ。兄さんのそんな呼びかけが聞こえたが、わたしは返事が出来ず立ち尽くしてしまう。
「」
「……うん」
「何か聞きたいことがあるようだが」
「……、ひとつだけ」
「なんだい」
「どうして兄さんはあの日わたしをトクサネに連れていってダイゴさんと会わせてくれたの? それも突然。兄さんはわたしたちをどうしたかったのか、どんな考えだったのか……。未だに分からなくて」
わたしにとって全ての始まりは、兄さんの思い立ちからだった。
何も知らず、自分が不完全だとしらないまま過ごしていたわたしは、兄さんの行動がなければ今も不完全なまま無くしたものへの疑問も抱かずに生きていたと思う。
記憶を無くしたままのわたしに、徹底的に合わせて、一緒に過ごしてきてくれた兄さんがなぜ、全ての始まりを作ってくれたのか。ずっと疑問だった。
「ねえ、どうして……?」
「……私なりによく悩んだよ。ダイゴに幸せになって欲しいけれど、色々失い傷ついたのはは同じで、どちらも責めようという気にはどうしてもなれなかった。考える度にダイゴとを天秤にかけるみたいで、嫌な気持ちだった。それでも何かしようとは思わなかったから、私は親友と妹を比べ妹を取ったんだろうね」
「………」
「事故から大分経って、は本当に数年前から人生をやり直したようだった。平然とした顔で、本当にダイゴと過ごした時間を捨て去ったかのようで。ダイゴが未だ捕らわれているのも知らない様子で、ね。明るく元気なおまえに比べ、ダイゴは苦しみ続けている。そう思ったら急にダイゴが可哀想になって、妹が憎たらしくなったよ……。
それで、魔が差して、思ったのさ。例えがダイゴを忘れようとも、ダイゴという人間が存在したという傷を、おまえを存分に愛してくれた人間がいたという事実を、おまえの人生にどうにか刻んでおきたかった。妹とはいえそのくらの罪を背負わせても罰は当たらないだろう、ってね」
そう言い放ったときの兄さんの冷笑が、その温度の抜けた笑みの寒さが、兄さんが兄さんなりにずっと抱え込んできたものの厳しさを教えてくれていた。
「兄さん……」
「——という、意地悪な気持ちが半分」
「え」
「あと半分の気持ちで私は信じていた」
「信じてたって、何を?」
「愛の力をさ! とダイゴならもう一度恋に落ちる可能性もあると私は思っていたよ! 嗚呼、! 愛している!」
「ちょ突然な、きゃ……っ」
急に覆い被さるように抱きついてきた兄さん。大好きななじみのある腕に包まれて考えたのは、やっぱりダイゴさんからの抱擁が特別に熱かったということだった。
たどり着いたトクサネの家に、ダイゴさんはまだ帰っていないようだ。
分かっていたことだ。玄関の段差に腰掛け、持ってきたあのカンカン帽をかぶる。今日の日差しも結構きつい。
トクサネに行きたいと兄さんに伝えたのは今日が初めてだ。
思い立ったのは気まぐれで、ただあの人をただ待ってここで過ごしてみようと思っただけのことだった。
だから、初日で会いたい人に会えてしまうなんて信じられなかった。
「迎えに行くって言ったのに」
10と幾日かぶりのダイゴさんの第一声はそれだった。
「……来てしまいました。その、ダイゴさんがいてくれたら良いなーって思って」
「僕も帰ったらちゃんがいたら良いのにとは思ったけどさ。暑かっただろ。入って」
なんて有り難い申し出。お昼時のトクサネは実際に暑かった。
早く完璧な日陰に入りたいと思ったのだけれど、ダイゴさんは玄関のドアに向き合ったまま止まってしまった。
わたしの目の前に立ちはだかるのは言葉を探している背中だった。
「……あのさ」
「はい」
「この前は僕のこと好きって言ってくれて、ありがとう。僕は以前の君と付き合っていたから、君の“好き”を自分に都合よく受け取ってしまった。思わず抱きしめたのは嬉しかったからなんだけど、冷静になってよく考えると君の“好き”って、その……」
「ダイゴさん」
「もし僕の勘違いだった本当に」
「ダイゴさんってば。こっち向いてください」
強くお願いをすれば目と目が合う。
また恐怖に揺れ、戻ってしまった怯えた瞳。その瞳に何度でも伝えよう。それが決して過去には戻れない、今を生きるわたしの出来ること。
「好きは、好き。愛してるの好き、ですよ!」
スカートの裾が膝の頭を滑る。自分の本当の年齢を知ってからというものの、短すぎるスカートはすっかり履けなくなってしまった。
一体、誕生日を何回逃したんだろう。誕生日も、もう絶対に取り戻せないものだよね。
そう言ったらダイゴさんは言ってくれた。
今度僕がお祝いしてあげる。
君の誕生日を逃したのは僕も同じだから、って。
「ダイゴ」
そう呼ぶとダイゴさんは困り眉ではにかむ。
「ちゃん、意地悪しないでよ」
気づいていないし、信じていないみたいだ。
確かにとても長い間、忘れていた響きだから仕方がないよね。
だからもう一度、大好きな耳たぶに吹き込む。
「ダイゴ」
そして貴方が信じられないという顔して振り向くのだ。
おしまい