ヨマワルを初めて見かけた頃、私はお母さんに言われるがまま塾に通うじゅくがえりでした。すっかり深まった秋の季節の中では、塾終わり、家に向かう道はすっかり暗いのでした。
 いつもの、ひとりぼっちの帰り道でした。
 はっと振り返ると、私の後ろにヨマワルが浮いていました。ヨマワルの赤い眼が、かすかに道のレンガを浮かび上がらせていて、まるで街灯のあかりがふわりと柱から離れて歩き出したかのようでした。
 ヨマワルはゆらゆらとこっちを見ながら、私との間に同じ距離を保ちながら、ついてきました。ヨマワルが後ろを静かについてくる、ただついてくるだけ。そんな日は、何日も続きました。
 あのヨマワルは私の後ろをついてきて、私をじっと見て、私に何か興味があるに違い無い。人間だから誰でも良いわけじゃなく、私に何かある。そう思って、私は帰り道を泣きそうになりながら必死に辿っていたのですが、ある日、そんなのは思い過ごしと思い知りました。

 兄が言ったのです。

「なあ、最近帰り道、ヨマワルがついてくるんだよ。ずっと、オレの後を」

 違う、と言いかけました。けれど結局言いませんでした。
 だって私にあのヨマワルの気持ちや考えていることは分かりません。夜の帰り道、じっと見てくるだけのゴーストタイプのポケモン。その気持ちが分かる、あのポケモンが見ているのは私、なんてヨマワルに対しても兄に対しても恥ずかしい言葉に思え、言えなかったのです。

 自分についてくるのならば、と兄はある日思い立つとすぐにヨマワルへモンスターボールを投げたのでした。ヨマワルはとてもあっさりと、兄のパートナーとしてゲットされました。
 その時、私の感じた恥じらいは正しかったこと。そしてヨマワルが私ではなく兄の後ろをついてきたというのが真実だったのだと、知ったのでした。


 ヨマワルは兄のパートナーとして、とても従順でした。他のヨマワルを私を知らないのですが、ゴーストタイプのポケモンであることを考えても際だつほど淡々と、ヨマワルは兄の言うことをよく聞きました。
 兄のパートナーポケモンということはもちろん、ヨマワルは私たち家族と一緒に暮らし始めました。始めは戸惑いました。だって、夜道を浮遊していたポケモンが、今は家の中を浮遊して、家族の一員と数えられているのです。兄のポケモンなんだから当然だ。何度もそう思おうとしました。そうして頑張らなければならないほどの違和感が、私にはあったのです。

 ヨマワルはゴーストタイプのポケモンだからでしょうか。家の中でも家族の中にはあまり入りたがらず、階段の影や明かりの着いていない部屋にいるのが好きなようでした。家の中にいるのに、家族には交わらない。私は彼を受け容れようとするのに、そんなヨマワルの姿が、私の恐がりを蘇らせたのでした。


 ここら辺の街ではあまり見かけないヨマワルは、近所の子どもやトレーナーたちにとても珍しがられました。それにヨマワルは近所の子どもたちのジグザグマ、ケムッソ、スバメ相手には負け知らずでした。この街の、兄のヨマワルはどんどん名を上げ、どんどんと成長をし、春にはサマヨールへと進化しました。

 サマヨールになった彼は、一気に私よりも大きな身体を得ました。夜や暗がり以外の場所にも出て来るようになりました。
 彼が、サマヨールになってから知ったのですが、彼はどうやら面倒見の良い性格のようでした。自由になる時間のほとんどを、主人の妹である私についてくれるのです。一緒に食事をしては飲み水を足してくれたり、塾への道のりをほとんど毎日のように送り迎えをしてくれたのです。私の帰り道を追いかけてきていたヨマワルが、今はサマヨールになって隣を歩いているなんて、さらに不思議な心地がしました。
 サマヨールを連れていると、道ばたのトレーナーに勝負を挑まれることが何度かありました。私はトレーナーでないことを説明しようとするのですが、その前にサマヨールが全て返り討ちしてしまいました。

 私は、以前よりサマヨールに心を許すようになっていきました。彼の静かに燃焼する赤い瞳は、怖いままなのですが、彼と明るい日差しの中を歩く時間がそれを少しずつ薄めて行きました。
 その身体の中で燃えるものさえ直視しなければ、私は彼と上手に家族のふりをすることができるようになっていきました。


 サマヨールが家族の中に入り込んで、もう数年が経ちました。私はじゅくがえりのままでしたが、兄は本格的にトレーナー修業の旅に出る準備をすすめていました。
 リュックに旅の道具を詰めていく背中。きっと兄は頼りになるサマヨールを旅につれていくものだと思っていました。けれど予想は外れました。

に、サマヨールのトレーナーになってもらいたい」
「私が……?」

 そう兄は、サマヨールを私にゆずろうと考えていたのです。

「トレーナーと言ってもそう難しいことじゃない。今までと同じように過ごせばいいんだ」
「ならどうして、私がトレーナーにならなきゃいけないの?」

 サマヨールを旅に連れていかないとしても、その他の選択肢はありました。例えば育て屋に預ける、例えば、パソコンにボールを預ける、などです。
 けれど兄は頑なでした。

「オレは旅に出るけど、サマヨールには今までみたいに過ごさせてやりたいんだよ。ずっとボールの中にいさせるなんて、可哀相だろ?」

 ずっとパソコンに預けられたまま自由でいられないサマヨールに、同情は覚えました。一緒に過ごしてきた期間で、一応はサマヨールを家族の一員と思うようになっていたのです。

「でも……、でもね、お兄ちゃん。私はサマヨールと一緒にいることはできても、面倒を見たり、トレーナーとしてバトルをさせたり、できないと思う……」
「いいんだよ、それで。のまま、サマヨールと一緒にいてやってくれよ」

 兄は旅立つまでの時間めいっぱいを使って私を説得し、断りの言葉はどんどん途切れていきました。
 そして私は諦めるようにしてサマヨールを自分のポケモンとして預かることを受け容れたのでした。



 兄が出発する前日、私と兄は近所のポケモンセンターに向かいました。私の手には、先ほど兄に助けられながらゲットしたケムッソのボールがあります。
 兄に言われるまま、ポケモン交換のためのマシンの前に座り、ケムッソの入ったボールをセットしました。あとは兄がやってくれる、とのことでした。

 ポケモン交換が行われる間、私は少し昔のことを思い出していました。

 あの夜道で後ろをついてきたヨマワル。私の後ろ、というのは結局勘違いでした。けれどあの時ヨマワルが兄のポケモンになって、家で暮らすようになって、私とも行動するようになって、そして、今日、一応は私のポケモンになる。
 後ろを見れば浮いていたヨマワルとの縁に、思わず感じ入りました。




「サマヨールをボールから出さないのか?」

 交換が無事に終わり、私の手元に収まった兄のボール。このボールに眠るサマヨールは、今は私のもの。サマヨールがこの家にいる理由は、家族として数えられる理由は、もう兄じゃなく私なのです。その実感は、いまいちありませんでした。

「なあ、

 この交換に付き合わせてしまったケムッソを逃がす前に、お礼のきのみをたっぷりあげながら、兄が言います。

「昔、ふたりの帰り道にこのヨマワルがついてきたことがあったよな」
「うん……」
「毎日のようについてきて、オレはヨマワルがオレたちの仲間になりたがってるんだと思った。だからオレはボールを投げたんだけど」
「うん」

「でも、本当は……」

 兄の言葉を、風がさらいます。




 兄が旅立っても私はボールからサマヨールを出してあげることができませんでした。彼が眠り続けるのは可哀相だから、せめてと楽しく過ごさせたい。そう言った兄の記憶が私を責めます。けれど一方でやはり兄の言葉が私をサマヨールから遠ざけるのです。交換の後の、兄の言葉です。

『でも本当は、ヨマワルはこうなることをずっと望んでいたと思う。最初から、狙ってたんじゃないかって』

 今日の風は強いようで、外の木が大きく頭をふりまわしています。

『ヨマワルは、と一緒にいたかったんじゃないかな。そう望んだ上で、オレにもつきまとったんだよ』

 そんなわけない。そんなわけないよと言い返したいのに、ずっとヨマワルのトレーナーだった兄の言葉は、私の闇雲に否定したい気持ちから出た言葉より、遙かに強固なのでした。

『どうして、そう思うの……?』
『ボールから、アイツを出してみれば分かるよ』

 ボールを投げたら一体何が起こるのだろう。兄の言葉は私をいっそう怖がらせました。兄のヨマワルを良いポケモンと信じ切っている表情もそうです。
 だけど同時に、私の恐怖を溶かそうとするのは、ヨマワル、サマヨールとの思い出です。サマヨールは得体が知れません。いつだって赤い瞳で見つめられて、けれど私には彼の考える全てが分かりませんでした。だけど、同じ道を歩いて、同じ家に帰り、同じ部屋で夜を越した。そのことは本当なのです。

 私は、ボールを手にとりました。

 風はまた強く吹いています。

 投げてから、父も母も出かけていて、この家に私はひとりっきりだと気がつきました。

 風が、花も木も、全てを地面に寝かしつけようとしています。

「あ、あ……っ」

 私は声にならない声を上げながら、ボールの中にいたものを見上げました。サマヨールのたかさは私の身長より少し高いくらいだったのに、今、目の前にいるものは違います。

 天井まで近づく身体。丸くふくれた胴体は、上下に裂けて、大きな口を開けています。足はありません。けれど、手はひらべったくて広く、私の身体をひと巻きにできそうです。
 サマヨールはどこにいったのかと思いましたが、赤い火の玉のようなひとつ目ですぐに分かりました。これが、サマヨールなのだ、と。

 いつから家族のサマヨールはこんなになったのでしょう。そんなの決まっています。ポケモンセンターで間に合わせのケムッソと交換をしたからです。私の元に来たから、彼はより大きく、より強く、完璧なこの姿になったのです。

 ヨマワルは、こうなることを望んでいた。最初から狙っていたんじゃないか。

 どくどくとうるさい心臓の音を背に、兄の言葉が何度も打ち鳴ります。

 そんなわけないと思っていました。ヨマワルがついてきたのは兄で、私の後ろに立っていたのは偶然。望んで兄のパートナーになったから言うこともよく聞いて、ずっと過ごしてきた。
 だけど今日までの数年は、この日のために費やされた時間だというのでしょうか。より大きく、より強く、そして完璧な姿になるために。

「あ、なたは、」

 恐る恐る聞きました。

「私といっしょに、いたかった……?」

 今でもバカみたいな、自惚れた質問だと思います。
 だけど返事がありました。平べったい手に背をつつまれ、丸いお腹に寝かしつけるように引き寄せられ、そして頬ずりをされたのです。

 ずっと、何も分からなかったのに。何を想っているのか、何を好み、何を嫌うかも分からなかったのに、私はようやく、ヨノワールの中に喜怒哀楽が赤く暗い炎ととなって燃え続けていたことを知りました。