※ヒロインの手持ちポケモン視点
※なんでもない話
ぼくらにはぼくらの言葉があり、それで十分に仲間と通じ合うことができて、不便というものを感じたことは無かった。
だけど彼女が、
「そっか、あなたはゆうかんなせいかくなのね」
そう笑って、体に這わせていたぴりぴりを撫でていった時、人間の言葉は強いと思った。ぼくは自分を誰かより果敢で勇ましいと自覚したことは無かった。なのに急にぼくは「のゆうかんなラクライ」という器にぴったりと入ってしまった気がした。
それは窮屈なものじゃない。ただがこぼした言葉によって、ぼくの形がしっかりと縁取られてぼくを夜空の一番星みたく光らせた。彼女が手のひらで頭のてっぺんからしっぽの方までを撫でて、体のぴりぴりとした弱い電流を拭いさっていくと、あの強い言葉がフラッシュする。あなたはゆうかんなせいかくなのね。
まぶしい夏が過ぎ去って、涼しい風にも慣れてきた。夜は寒いと言って良い気温になってきて、北風にぼくの鼻がひくつく。
窓の外はすっかり暗かった。が帰ってきて、ぼくと一緒にご飯を食べて、お風呂に入ってゆったりとしたパジャマに着替える。そうして彼女が気の抜けたふやけた女の子になる頃、反対にぼくは少し緊張する。夜の、見回りの時間が近づいている。
ぼくは毎日、夜の見回りを欠かさない。家の窓から出ていって、家の周りをぐるりと一周。庭の木の影、倉庫の鍵までチェックをして、夜空にとおぼえをひとつして、窓から帰る。そしてそれを朝方も繰り返す。
今夜もぼくは外をせがむ。毎夜のことだから、も「はいはい、行くのね」と二つ返事で窓を開けて、あたたかさのこもった手で僕の頭から背中の終わりまでを撫でる。そうすると思い出す言葉。ぼくはゆうかんなせいかくのラクライ。
ぼくの帰りを待って、この窓は一晩中開いている。ぼくの体に合わせたこの隙間は甘やかだ。撫でていった手には確かに優しさがこもっていたのにはぼくを見送って、すぐに薄いカーテンの奥に戻ってしまった。もうずいぶん秋が深まって、夜が冷たくなってきたからだろう。ぼくも寒さを感じないわけでは無い。全てをすっきり見回って、の近くで安心して眠ることを期待して、ぼくはまどから飛び出した。
家の周りに見知らぬポケモンがいれば、ぼくはここがどういう場所で、どう行動して欲しいかを伝えるし、に知らせた方が良い場合は夜と言えどもぼくは吠える。
だけどぼくは、夜道に現れた影に困惑した。
「ああ、のラクライだね」
ぼくにさしのべる手。指輪が月光で鈍く光る。指先が鼻先をかすめる前に、ぼくは一歩後ろへひいた。ひいてしまった、悔しいことに。暗闇で、冷たく硬い色の目が細くなる。
「さすがに僕のこと、忘れてはいない……よね?」
忘れるものか。ダイゴは、が唯一、一人暮らしの家に自ら招き入れる男だ。だと言うのに彼がに会いに来るのは気まぐれだ。だから顔を合わせるときはは驚いてばかりいる。
おまえのこと、忘れるものか。でも忘れていたかった。一度ほえるとダイゴは「そう、ダイゴだよ」と笑う。この男は人間なのに、なんだかんだぼくらの言葉をほぼ的確に読み当てる。と行く先々で、いろんな人間に会い、いろんなトレーナーとも会ってきた。けれど、またも悔しいことに、ダイゴが誰よりも一番ぼくらの意志を読みとるのが上手い。
「こんな遅くに悪いね」
そう言いながらダイゴは、家の方へと進んでいく。はもう寝ているというのに家のベルを鳴らすのはやめて欲しい。はらはらしながら彼の足下を右往左往していると、ダイゴはなんと玄関を無視して、まっすぐに家の裏手にまわった。
飛び上がりそうになった。ダイゴは知っていたのだ。ぼくに合わせて、ぼくのために開かれた窓があることに。
思わずかみついた。そこから侵入するつもりのダイゴの足首をかんで、必死に止める。
「いっ……!」
ダイゴも思わずしゃがんで、また扱いの分かっている手でぼくの顎をつかんだ。
「だ、だめかい? 確かにの許可は無いけど、僕は怪しい人間じゃない」
ちゃんとした人間は窓から侵入できることをあてに、こんな真夜中にふらりと現れたりしない。
「に会いたくて、急いで帰ってきたんだよ。これでもね」
その物知り顔している手にもかみつこうかと思ったが、続いたダイゴの声が存外くたびれていて、人恋しさに溢れていて、思わずぼくは同情したのだ。
「ここに帰ってくるとさ、遠くまで行ったなと思うよね。さすがの僕も疲れたよ。だから、ここで休ませてよ」
でもそれも、ダイゴの身勝手じゃないかと僕は思う。どんな理由があれ遠くに行ったのはダイゴの事情で、に会いたいのも、くたびれての元で休みたいのもダイゴの事情だ。ぼくのための窓から侵入されたの都合はどうなると思ってるのだろう。
「ラクライ」
そっと目の前に手のひらがかざされる。ダイゴは、ぼくというよりも、ラクライと呼ばれるぼくらがどうすれば一瞬行動に戸惑ってしまうのか知っているのだ。
「が心配かい? 大丈夫。が許してくれる範囲を知っているんだ。たぶん少し怒るけどね」
ダイゴは笑顔で窓枠に足をかける。靴の裏についた泥が、部屋の中に少しこぼれた。本当にどろぼうのようだ。
「何度も確かめあって、だから僕らは今も続いているんだよ」
完全に部屋の中に入って、家主のように窓の外から地面の僕を見下ろす。
「君もおいで。窓を閉めてしまおう。僕がいるから大丈夫だよ。君も眠ろう。ほら、はやく」
ダイゴがからかうように、ぼくのための隙間を狭めていく。ダイゴが家の中に入れて、ぼくは外だなんて到底受け入れられない。またも悔しいと思いながら、焦ってぼくは家に入った。
久しぶりだというのに、ダイゴはなめらかに家の中を歩く。そしてまっすぐにの眠る部屋にたどり着いた。
部屋は暗い。けれど目をこらせば、の鼻の先や頬の高いところ、唇の上に、月光が露のように落ちている。の寝顔を見つめる顔を見ると、ぼくはダイゴが今まで張りつめていたことに気づいた。ため息のような息を吐いてベッドに腰掛けた彼は、指先でそっとの額を触る。前髪を払う。それだけで彼は無防備に安らいでいった。
ダイゴがジャケットを脱ぎ、くつを脱ぐ。スカーフをゆるめて、詰めていた息を吐く。ダイゴはそれからとても器用にのベッドに入り込んでいった。
の体温をたっぷりため込んだであろうシーツをそっと剥がす。寒さが彼女をおそったんだろう、何をするのともがいた両腕に、彼は自分の首、あるいは白いシャツの肩を抱かせた。の手は眠ったまま、急に変わった質感を探るようにダイゴのことを擦った。
ふふ、と笑ったのはダイゴだった。そのまま体を滑りこませて、を抱き込んでしまった。一度、ダイゴの胸にの頭がこすりつけるように動いていたけれど、すぐにおさまって、安心しきった寝息が聞こえた。ダイゴはこんなことも上手なのかと、ぼくは少し呆れた心地だった。
ぼくは自分の眠るところをイスの上に決めた。ここならば目線が、ちょうどベッドの高さに合うのだ。
「ラクライ」
の頭を深く大事そうに抱き込み、そして頬をくっつけながらダイゴが言う。
「君はそこで眠るのかい」
ベッドに腰掛けた時点でダイゴはもうどこか自分を保てなくなっていたのだと思う。その目はもうぼくを捕らえきれていなかった。
「明日は、僕のポケモンと少し戦おう。君はそろそろ進化できるはずだから……」
ダイゴのポケモンと戦う気持ちはある。けれど、ダイゴは"ラクライ"を知っている。ぼくを手のひらで制止したのだ。その人間の指示を受け、息を合わせて戦うやつとバトルをするのは、考えるだけで恐ろしさが先立った。
けれど、進化という言葉。これもまた強烈に魅惑的で、ぼくの心を捕らえる。
「立派な、ライボルトに、なれ……る……」
人間たちは暖め合うようにして眠ってしまった。立派なライボルトという響きでぼくは簡単に眠れない。
なれるだろうか。を守り、何事にも立ち向かう、勇敢なライボルトに。そのために明日は戦おうとダイゴは言った。
眠るのはこれからだというのに、ぼくは夢を見ている。
ライボルトになりたい。に抱きかかえられるぼくじゃなく、身を挺することも容易な体を手に入れたい。
だけど。
ライボルトになる。それがダイゴの導きによって実現したら、ぼくはますますダイゴに勝てなくなるのでは無いだろうか?
ふと疑問が浮かぶけれど、少し遅かった。
体から力が抜けていくさなか、考える力も抜けていって、ぼくはそのまま眠ってしまったのだ。
は呆然と、上体を起こしていた。寝起きなのもあって考えがおいつかないんだろう。小さく寝癖がついた前髪をとにかく触って、自分のおなかに頭を寄せて熟睡するダイゴを見つめている。
「ラクライ……」
おはよう。あまりのの呆然とした様子に、ぼくは今更後ろめたくなる。でもぼくではこの男にかなわなかったのも事実だった。
「そっか、ラクライが静かだったから……。なんで気づかなかったんだろうって思ったけど……、びっくりした……」
はひとりで納得したらしい。よく寝た後なのにため息を吐いて、ダイゴの頭を撫で始める。それをぼくは少しいやだな、と思う。
あなたはゆうかんなせいかくなのねと囁いた手つき。ダイゴにはなんの言葉を伝えているのだろう。
「ダイゴのこと、通しちゃったんだね」
通したというか、ダイゴの方が一枚上手だったのだ。
「ダイゴもいつの間にラクライのこと、手懐けたんだろ……」
まだぼくも彼に完璧に従属したわけじゃない。ただ、今日でついに、頭があがらなくなるかもしれないのだけど。
がもう少し"ラクライ"というぼくらに詳しく、ぼくが傷つくことを怖がりすぎなければ。ポケモンに対して巧みであればぼくはダイゴの手を借りることなくライボルトになれたのかもしれない。
だけど、進化への欲求は止められそうに無かった。
ぼくは心の片隅でずっとのことを哀れんでいた。ダイゴに見入られたことに。ぼくはダイゴのことを嫌っているわけでも憎んでいるわけでも無い。ただダイゴは、何かを思い通りにするやり方を知っている男だ。
もいつからか、この男とつがいになることを望んでしまっている。こうしてを愛するくせに身勝手なままなダイゴにあらがっていたぼくも今や彼に巻き込まれている。
「ん、……」
「起きたの? おはよう、ダイゴ」
「……、……」
の、今最大に愛しているひとの傍らで目を覚ましたダイゴは、大人には普通浮かべられない、無邪気な子供の笑顔だった。