お父さんの仕事の都合でアローラ地方、そのウラウラ島に引っ越してきて早数ヶ月。からっとした気候や植物の鮮やかな色、「アローラ!」という挨拶に、同じポケモンだと思えないくらい"アローラのすがた"に変わったポケモンだとか。とにかく新しいものごととの出会いの連続に、生まれ故郷を離れたのが遠い昔に思える。ベトベターの色なんかにはさすがにぎょっとしてしまったのだけど、有り難いことに、私はアローラで新しく出会うものをどれも好きになれていた。
 その中でもお気に入りのアローラ名物は、ポケモンセンターの中にある。

「ちょっと出かけてくるー!」

 サンダルのストラップを留める私に、母が呆れ気味に言う。

「またポケモンセンター?」
「うん!」
「ポケモンなんて、一匹もゲットしたことないくせに」
「いいでしょ、別に」

 母の言葉に胸をぐさりとさされながら、私は家から歩いて数分のポケモンセンターに向かう。
 ポケモンセンター、その中にあるカフェスペースに。

 ポケモンセンターの雰囲気は、幼い頃から大好きだった。だって傷ついたポケモンが、元気になって信頼するトレーナーの元に帰る場所なのだ。ポケモンはもう痛いところのない体でトレーナーの腕に飛び込み、トレーナーはそんなポケモンの無事を喜んで抱きしめる。そんな場面を見ていれば、自然と笑顔になれる。だからポケモンセンターが大好きだった。
 けれど私は母の言う通り、一匹のポケモンもゲットしたことのないただの民間人。今までは、トレーナーとポケモンのための場所だとここに来るのは気後れしていた。
 だけどこのアローラ地方のポケモンセンターには必ず、カフェスペースが併設されている。美味しいドリンクが200円もしない値段で飲めるのもそうだけれど、一番嬉しいのはカフェがあることで、トレーナーでも無い私もここに自然といられるのだ。

 今日もお小遣いで、日替わりのメニューからパイルジュースを頼んだ。
 カウンター席から体を少し後ろに反らすと、ポケモンとトレーナーの笑顔がある。
 ここで払うお金は、飲み物のためじゃなく、ポケモンとトレーナーの世界の隅っこにいさせてもらえるために払うお金だ。パイルジュースのグラスを握りしめ、舌も目も楽しむ至福の時間だ。

「っお客さん!」

 焦った声。だけど私に向けられているわけでないことは分かった。すぐに隣から男のひとの声がした。

「……え、わ、わあっ」

 続いて、私のうしろで騒がしい音。びっくりして振り返ると同時に、私の足に熱い液体が垂れて伝っていく。香ばしいかおりに気がつく。私のひざを濡らしたのはコーヒーだ。多分、グランブルマウンテン。隣のひとのカップから零れて、机に立って私の足に落ちたのだ。

「ご、ごめん!」

 男のひとはすぐにハンカチを取り出し、スカートの染みにあてる。

「お客さん、やけどになってないかい?」

 カフェのマスターが、机のコーヒーに布巾を被せながら改めて濡れた白布巾を手渡してくれた。
 けれど尚も男のひとはスカートの染みを拭おうとしている。

「だ、大丈夫ですから! そこまで熱くも無かったですし……」

 けれど私の声が届いていないみたいにうろたえているそのひと。あまり足元にすがられるのもなんだか恥ずかしくて、私は彼を止めようとした。

 その手が、彼の手に触れてしまったのは、ちょっとした間違いだった。

「………」

 両手を両手で握ってしまい、動きが封じられたそのひとがようやく顔を上げる。
 柔らかくハネた麦穂色の髪。スチールフレームのメガネの奥では丸くて小鳥っぽい目が瞬いていた。
 彼の眼が私を見て、反らされず瞬き続けている。初対面の彼がどんなひとか、何を考えているのかなんて分からない。けれど呼吸は伝わり、彼のリズムに重ねるように私も息を詰めた。



 どうやってそのひとと別れ、どうやって家に帰ってきたか、よく覚えていない。
 スカートには確かに染みが出来ていて、すぐに洗ってもらわなければならないのに、私はスカートに巣くう茶色の雲をぼうっと眺めてしまう。

 すっくと立つと彼はかなり長身のひとだった。猫背をただしたら、もっと見上げなきゃいけないような。力を抜いてゆったりと構えた立ち姿だった。それがそのひとの起筆を表しているんだとうなと思った。するりと離れていった手は、私が握っていると一冊の本のように大きく厚みを感じたのに、彼の体に戻るとやはりピッタリのサイズだった。
 見た目より声より態度より、私の手に余るものを、しっかりと所有していると感じさせた手が、一番私に知らしめてくれた。彼は大人だ。



 サンダルのストラップを留める。

「ちょっと出かけてくる」
「またポケモンセンター?」
「うん」

 母が呆れ気味に言う。

「そんなにポケモンが好きなら、誰かに頼んで教えて貰って、ゲットに挑戦してみれば?ほら、この辺りはキャプテンっていうのがいるんでしょう? ジムリーダーよりはなんだか親しみやすい感じよね」

 母の言葉はごく普通で、まともな助言だった。だけど私の胸は、今は別の大きな問題が占拠している。
 私は母宛に愛想笑いをして、それ以上の言葉は見付けられずに家を出た。


 アローラの強い日差しが私を責める。腕をじりじりと焼かれながら、ポケモンセンターを目指した。
 焦る気持ちがあった。この身からポロリと欠落したものを、すぐに取り返しにいかなければいけない、というような。きちんと確かめて自分の中にきちんと埋め込まないといけないと逸るのだ、全身が。

 ポケモンセンター内の冷風に目を細めて、大好きなポケモンとトレーナーが再開するカウンターよりも奥を見ると、まだ名前も知らないそのひとの背中があった。麦穂色の苦摂家。青い作業着の猫背。

「マーレインさん、後ろ」

 先に、まだ息の整わない私を見付けたのは、カフェの店主さんだった。
 マーレインさんと呼ばれたひとが振り返る。

「やあ」
「こ、こんにちは」

 マスターが目を細める。

「噂をすればだね」
「噂、してたんですか……?」
「まあね。お客さん、今日は?」

 マスターが出したメニューはグランブルマウンテン、モーモーミルク、ロズレイティー。
 思わず彼の、マーレインさんの手元を見る。グランブルマウンテンはさすがに飲める気がしないけれど、少し気取ってロズレイティーを注文する。
 店主さんに促してもらったおかげで、私は自然にマーレインさんの隣に座ることができた。

「噂と言っても悪いことじゃない」
「そうだよ」

 数日前も彼は私の隣に座って、このマスターと談笑をしていた。だから決して初めて聞く声では無い。なのに響いた相槌がやけに胸を痛くさせた。

「君にもう一度謝らなきゃなぁと思っていたんだ」
「そんな。本当に大丈夫でしたから……」

 やけども無かった。あのスカートに落ちたコーヒーは結局染みになってしまったけれど、自分が損をしたという気持ちはかけらも無かった。

「それにもう一度君に会えたら、言おうと思っていたことがあるんだ」
「えっ?」

 その言葉がどぎまぎしている私を振り向かせた。
 目が合うと、マーレインさんは随分な大人なのに、イワンコにも似た子供っぽい笑い方をする。

 もう着られない、だけどまだクローゼットにしまわれているスカート。あれを何度も出しては眺めた心地に私はまだ名前をつけられないでいる。
 けれどあのスカートが捨てられない理由ならはっきり言うことが出来た。マーレインさんとの出会いで、私から欠落したものが、私が未発達ゆえにあやふやに忘れられてしまわないように、かたちあるものにすがっただけの話だ。

 今日私は、記憶しきれなかった出来事を確かめたくて、マーレインさんの隣に座りたくてここに来たのだ。

「僕は君にね」
「は、はい」
「天文台のパンフレットに載せるコラムを読んで欲しいんだ」
「コラム、ですか……?」
「うん。その下読みをやってもらいたい」

 マーレインさんは言ってコーヒーを一口飲んだ。
 私も怖ず怖ずとロズレイティーを口に含む。少し、酸っぱい。

「名前、マーレインさん、ですか?」
「うん。マーレインだ。君は?」
です」
ちゃんだね」
「どうやったらお手伝い、できますか? 手伝いたいとは思います。でも、私、ポケモンのこと、ほとんど何も知りません。見て、好きって思うだけ……。知らないポケモンもいっぱいです……」
「だから良いんだよ。このコラムは、色んなひとに読んでポケモンのことを知って貰いたいんだから。君みたいなひとに読んで楽しんで貰えるのが大事なんだ」
「………」
「何も知らないままで、それで良いんだ」

 不可思議なひとだ。たくさんのひとにはポケモンを知って貰いたいと言うのに、私には何も知らなくて良いと言う。その矛盾にこの大人は気づかないんだろうか。優しげな目は考えを全て隠しきっていて私には見透かすことなんて出来ない。中身が見えないことが、途方もなく視線が引っ張っていく。

 落ちていく隕石の気持ちはこんななんだろうと思った。重力には逆らえない。無力感と共に落ちていくしか無いんだ。
 私はこの気持ちに正しく"恋"という名前をつけ終えた。それからずっと、もうなんでもいい。どうなってもいい。でもどうなってしまうんだろう。その三つを何度も何度も頭の中で繰り返している。

「どうしたら、良いんですか?」

 私は隣の大人を見上げた。マーレインさんはその返事を待っていたとばかりに微笑んだ。なんでもいい、どうなってもいいけれど。すでに落ちているくせに考える。私はどうなってしまうのだろう。