初めてその質問を受けたのは、11月の終わりで、ずいぶん気が早いなと思いました。


「ね、さん、25日ってなんか予定入ってる? もしくは24日」


 本当は決まった予定なんて無いのに、「ありますよ」と答えたのには、とにかくいろんな理由がありました。

 聞いてきたその人が、同じ会社の人間と言えどあまり面識の無い方というのも一因です。
 実際、24も25も予定は決まっていませんでした。けれどお仕事の終わりにあれをしたい、これをしたいという個人的な願いのようなものはありました。

 それに、決まってはいない予定ですがもうひとつ、友達との約束のようなものがありました。約束のようなもの。それは、友達とその彼氏の喧嘩が続けば、友達は私と過ごすし、仲直りができたなら私はひとりになるという、曖昧なものです。

 そんなふわふわした約束で私をキープする友達に「私はやっぱりつき合えない」と言えない理由は、なんとなく自分でも気づいていました。


(クリスマス、かぁ……)


 クリスマスに何もすることが無いのを、恥ずかしがる理由は私には分かりません。
 会社に行って、ただひとり、自分を癒すためにい自宅に帰ることを、わざわざ責める理由も分かりません。

 ただ、ないよりはあるほうが良いという考えは、分かります。
 副社長だって、ないわけないのですから。


 本当は誰とでも遊びに行ける自分の予定を、ぼかした理由はもうひとつあります。
 私には今年一年で身にしみた教訓がありました。社内の発言には気をつけた方が良い。それは誰に伝わるか、分かりませんから。



 * * *




 案の定、何週間かの時間を経て、人づてに私の予定は副社長に伝わったみたいでした。
  といっても副社長の口から直接聞いたわけではありません。

 副社長が私のクリスマスの予定を知った、というお話がまた、人づてに、私の元へ知らされたのです。
 お昼時の社員食堂で、同僚はこう語ります。


「何でもね、『クリスマスはさんとお楽しみですか』って掃除のおばさんがちゃかしたらしいんだよ。
 そしたら、副社長は知らなかったみたいで『えっ』って顔して、一瞬かたまったらしいよ」
「はぁ、そうですか」


 私には当然のお話に思えます。だって、副社長にクリスマスの予定なんて言ったこと無いのは自分が重々承知していることです。


さん、副社長とつきあってるのかも思ってた」
「そんなこと無いですよ」


 確かに、私が副社長に気に入られていた時期がありました。何かとサポートとして呼ばれたり、差し入れの購入要因だったり、たわいもない付き合いに指名されたり。そうして副社長と関われていた時期が、ありました。

 私は、皆さんもうとっくのとうに気づいているものと思っていました。そういった副社長からの誘いはもうぱったり、無くなってしまったことに。
 季節の流れとともに、副社長は私に飽きてしまったようでした。


さんがフッたってことだよね?」
「………」


 私は答えられません。
 副社長に「好きな人」と呼ばれたことが一度ありました。それに応えなかったことは、フッたことになるのかもしれない、とは思います。


「実は好きな人でもいた?」
「そう、ですね」


 好きな人はいます。それはもちろん、副社長です。

 だから、「25日空いてる?」と聞いてきたのがもし、副社長だったら、私はまた別の嘘をついていたような気がします。25日の予定は何もありません、と。

 けれどそんなチャンスは私には巡ってこないでしょう。副社長の気持ちを受け止めるタイミング、自分の心を打ち明けるタイミング、私は全て外してしまったのです。副社長に飽きられた今になって「私は副社長が好きでした」なんて言うのは虫のいい話だと分かっています。
 だからこの気持ちを誰にも言うことは無いでしょう。

 こじれた恋の事情なんて知らない同僚は、私の恋を励まします。


さんだったらいけるよ」
「そうでしょうか」
さん、一見地味で静かでおとなしいけど、よく見てると魅力が分かってくるタイプの人だよね」
「ありがとうございます」
「ここだけの話なんだけど。他の部の人なんだけど、副社長がいつもちょっかいかけるから『どうしてこの子が良いんだろう』って見ているうちにハマりそうになったって言ってた」
「………」
「……何でにやにやしてるの?」


 同僚が教えてくれたその言葉、私は同じようなことを聞いたことがありました。


『ただの石なんて思っても良いから、よく見てごらん。奥深さがよく分かるから。気づいたらきっと戻れないから』


 それは副社長が私に石の魅力を、初心者向けに語ったものとよく似ていました。


『まぁストーンゲッターの僕は見ただけで好みの石を見分けられるし、触っただけで、冷たさ、堅さに好きだ!って思うけどね!』


 聞いてもいないのに話は大きく展開して、きらきらとした目で、自慢げにそう語られたことも思い出してしまいました。あの時の副社長、ほんとおかしかったな。思い出し笑いしてしまう私を、同僚はちょっと気味悪がる目で見ました。




 * * *




 結局、友人とその恋人はクリスマスまでに無事仲直りを果たしました。つまり、私の予定はフリーになりました。
 クリスマス当日ももちろん平日。私はいつも通りに出勤し、デボンで働きました。
 どことなく浮き足立つ周りを見ていると、微笑ましいですが、うらやましい気持ちはあまりありません。むしろ私自身はクリスマスの予定なんて無くてよかったと思っているくらいでした。

 定時が来るなりせかせかと荷物をまとめる同僚たち。この後の予定があるのでしょう。
 クリスマスの予定ならあると言ったはずなのに。私はだらだらと残業を続けています。

 最後のひとりが帰ってしまい、ついに部署に私はひとりになりました。


「はぁ……」


 無気力から出たため息でした。何もやる気がおきません。明日のためにさっさと帰宅して、こっそり自分のためにケーキでも買おうかなと思っていたのに、その気力すら湧きません。

 でも、クリスマスの予定は無くて良かった。その思いは変わりません。

 私が欲しかったのは結局、副社長との25日なのです。それが手に入らないなら、何もいらない。0か1かで良いのです。私の気持ちはいつの間にか、あの人以外のものは受け入れられない、と思うほどになっていたようでした。

 副社長は今、誰と会っているのでしょうか。今は誰が好きなのでしょうか。今度は私のような地味な人間じゃなく、華やかでお話も上手な女性なのかもしれません。
 その人を前に、副社長は笑顔でいるのでしょうか。その人にも石好きを全開にしておつきあいをされているのでしょうか。


「………」


 なんだか耐えきれないものがせり上がって、私は机につっぷしました。

 当日になって、行く場所もなくて、初めて私は思います。
 ひとりのクリスマスって、寂しい。

 違う、ひとりだから寂しいのでは無いのです。副社長との遠い遠い距離が切ないのです。自分の気持ちに気づくのが遅く、それも伝えきれなかった私の、自業自得なのに。
 ああ、シンオウの実家の、ビッパをぎゅうと抱きしめたい。あの子のぽけっとした顔が見たいと、かなわぬ願いを持ってしまいます。

 外の、廊下を歩く音。隣の部屋で電気を切ったのか、パチリという音がします。
 ここで起きあがって、残業してる人間がいると知ってもらわねば、この部屋の電気もパチリと切られてしまうでしょう。ゆるゆると頭を上げると、そこに照明のスイッチに手を伸ばす副社長がいました。


ちゃん?」
「副社長……」


 いつぶりでしょうか。言葉を交わしたのは。


「寒くないの? 暖房くらいつけなよ」


 そういえば、無駄遣いになるからと暖房はさきほど切ったのでした。


「シンオウ出身ですから。これくらい寒いのうちに入りませんよ」


 そう言ったものの、副社長の指はパネルをぴっぴっと操作し、部屋に暖かい空気が流れ出しました。平気だと思っていたのに、私はその温風を受けてふと体が軽くなるのを感じます。
 部署の出入り口に立ったまま、副社長は言いました。


「まだ帰らないのかい」
「そう、ですね……」
「こんなところにいないで、早く、行きなよ」
「………」


 クリスマスの予定は0か1か。その1を担う人は、何とも思っていない様子で私を送りだそうとしています。


「副社長こそ」


 そう返すのが精一杯でした。
 入り口で副社長が苦笑いでため息をついたのがわかりました。ふてくされる心境で、視線を外すと、副社長は部署の中まで入ってきます。そして、デスクの横に立ちました。


「僕のことは良いんだよ」
「そんなことありませんよ」
「ほら、今日中じゃなきゃいけないことも無いんだろ?」
「無い、ですけど……」
「早く行ってもらわないと、困るよ」


 困る? 副社長は何を困るというのでしょうか。私がここにいると困る理由、副社長にとって不利益になる理由が私には思い浮かびません。
 動かない私に痺れを切らしたようです。副社長はその眉を歪なかたちにして、私に言い放ちました。


「早く出ていかないと、行かない理由を聞き出すよ」
「………」
「どうして行かないのか、そもそも誰のところに行くつもりなのか何をするのか、聞き出すよ。それだけじゃない、僕は君の話の中から上手いこと隙を見つけて、言葉でやりこめて、この後どこかに連れ込んで、僕だけと過ごさせた後に君がひとりで自分の部屋に帰るのを見届けるつもりだよ」
「………」
「ごめんね、僕はそういう風に考えている」
「副社長はまだ、……」
「好きだよ。まだ、君のこと」


 行ってもらわないと困ると、言ったくせに。副社長は今、私と出口、その導線を断ち切る位置に立っています。その行動が副社長の本音だと信じても良いのでしょうか。
 ふらりとイスから立ち上がって、私はその立ちはだかる人の真正面に立ちました。

 ああ、ダイゴさんだ。ずっと求めていた人だ。この人じゃなきゃと、何度も考えた人だ。そう思いました。

 いっぱいいっぱいの好きが溢れかえって、それは顔にも出ていたようでした。副社長は少しうつむいた私の後頭部に手を乗せ、そっと胸元まで引き寄せてくれました。
 私のおでこと、副社長のベストの布地が擦れ合います。


ちゃん」


 優しい色の声が、私のつむじに降りかかる。それだけで私の胸中がすべての色を変えます。


「僕は、ちゃんと言われなくても察することができるくらい大人のつもりだけど、今日だけは勘違いや自惚れじゃないと分かる言葉が欲しい」
「はい……」
「君の言葉で、舞い上がるくらい嬉しくなりたいんだよ」


 言葉を待たれています。私は副社長を見上げ、この人が望む言葉を伝えようとしました。けれど、唇は開いては閉じて開いては閉じてを繰り返します。
 この一ヶ月くらい、距離があったからでしょうか。伝えたいことが多すぎます。待たれて、求められるものをそのまま差し出したいのに、最初のひとつすら選べないのです。

 一向に言葉にならない、だめな私に、副社長は微笑みをくれました。


「言えないならそれで良いよ」
「すみ、す、すみません……」
「僕が喜びそうな言葉、考えてる?」
「考えて、ます。たくさん、たくさん……」
「ありがとう。それだけで十分だ」


 もうひとりでここにいる理由は無いだろうとばかりに、手をひかれました。けれど私は足に力を入れて、副社長に流されるのを阻止しました。


「待ってください」


 だめ、このままじゃ。私は副社長に甘やかされてばかりです。
 今は何も言わなくても、きっとこの後、副社長を私と一緒にいてくれるのでしょう。副社長は簡単に私の夢を叶えてくれる、そういう人です。

 けれど、副社長に飽きられたと思った時間私は後悔に後悔を重ねました。たっぷり後悔して、けれど今伝えるチャンスがあるのです。


「どうしたんだい?」
「……私は副社長の事情を何も知りません。知らないことばかりです。あえて何も知らないで言います。全部、関係無しに、今私が持っている気持ちだけを言いたいんです」
「……何だい?」
「副社長、今日は私と一緒にいてください」
「………」
「他の誰のところにも行かないで。私がクリスマスを過ごしたいのは、副社長だけです」
「………」
「だから私、ここにいるんです。どこにも行けないで」


 副社長への気持ちを言えば言うほど、私は再び後悔しました。

 私の目前で話を聞いてくれている副社長。その近さからか、伝わってくるのです。私の告白を聞いて嬉しそうに笑んでくれている様子、それに速まるこの人の鼓動。

 もっと早く知りたかったと思います。私に、この人を喜ばせられる鍵が握られていたのだと。なぜそれを使わなかったのかと、今後悔しています。


「副社長、いろいろ、すみませんでした」
「もう、全部許すよ。でも……」
「でも?」
「そろそろダイゴって呼んで」


 副社長の言う通りでした。いつもは外でも心の中でも副社長と呼んでいたので、すっかり癖になっていますが、これからは変えていかなければなりません。





 また、言葉を待たれます。待たれるから、簡単で愛しい響きなのに私は詰まりながら、呼びました。

 数度、ここぞをいう時にしか呼べなかったこの人の最後のおまじないのような名前を、本番と練習を兼ねて、けれど呼びたい唱えたい以上の理由もなく、わたしはそれを口にしました。


「ダイゴさん」


 そう意味も無く、呼びました。