副社長は私を混乱に陥れる名人ですが、あのひとは、その他いろいろ、私を異常にさせる達人です。
私はあのひとに出会ってからというもの、自分でも知らなかった自分を目の当たりにしてばかりです。
以前からあったマグマ団、アクア団という組織を、危険に思い始めたのは、やはりデボンのにもつが盗まれた事件からでした。
いえ、それよりも前にふたつの組織が存在感を増していくにつれ、なんとなく感づいてはいたのです。このホウエンで何かが起こるかもしれない。二つの組織が引き金となって。
社内の掲示板では、件の事件を受けて注意喚起する文言が貼られています。自主的に残業をしようと思っても、18時には社長が降りてきて、まだ明るい中を帰ることになります。
副社長とは、しばらく会えていません。ずっとどこかへ出かけていて、居場所は誰も知りません。
やだな、やだな。そう思いながらも心が凍ったようにできないことばかりで、ただ会社へ通う日々を私は続けたのでした。
定時を過ぎて、陽が傾く18時が差し迫る。私はあえて新しいコーヒーをいれた。いれたてのコーヒーの香りが、眉間のもやもやを散らしてくれる。
「やっぱり君は、わざと残っているんだね」
やんわりと私のことを呆れているのはツワブキ社長です。
副社長と社長の言葉遣いはところどころ似通っています。親子だから当然だと言われてしまえばそれまでですが。私はツワブキ社長へと振り返りながらも、副社長の面影を探していました。
「帰る時間だよ。君が最後のひとりだ」
「申し訳ありません」
「……私もコーヒーをもらおう」
「っは、はい」
社長にコーヒーをいれさせるわけには行かない。驚きながら、私は給湯室へ駆け込みました。
コーヒーを社長の前に置く手は震えた。社員の安全を思っている社長の気持ちを無駄にするようなことを繰り返して、評価を下げられるのは当然、そろそろ本格的なお叱りか処分が来てもおかしくない。
「ありがとう」
私は言葉もなくて頭を下げた。
「まあ座って。毎日最後までいるが、君はそんなに手いっぱいなのかい。それなら私がきちんと把握しておきたい」
「いえ、そういうのではありません。普段の業務で手を抜いているわけでもありません。お手を煩わせてしまって申し訳ありません……」
「じゃあなぜ、君はここに残りたがるのかね?」
「それは、会社にいたいからです。ひ、一人暮らしですし、家に帰っても寂しいだけですし」
苦しい言い訳だろうか。
本当の理由ならとうに見つかっている。副社長の存在を探しているからだ。しばらく行方のわからない彼と私を唯一繋いでくれるのが、会社だからだ。
「……副社長は、今はどこにいらっしゃるんでしょうか」
「ああ、どうかな。この前、若いトレーナーさんにデボンのにもつを預けてね、届けてもらったんだ。その時はやはりいしのどうくつにいたらしくてね」
「副社長はムロタウンにいるんですか」
「まあ今はどこで何をしてるか分からないが」
「………」
「倅を気遣ってくれてありがとう。けれど心配には及ばないよ」
「そうだとは思うんです」
副社長はつよくてすごい人物だ。私もそれを嫌というほど聞かされ、嫌というほど目の当たりにして、嫌というほど知っている。
「でも……」
「君の気持ちは否定しないが……。何かが起ころうとしているのも事実だ。が、あれに私は何度も"心配して損した"と思わせられていてね。きっと今回もそうなる」
「………」
「君もじきに分かる。コーヒーをありがとう」
きちんとカップを片づけていってくださったツワブキ社長の言葉は、ちゃんと本当になったのでした。空と海と大地が荒れて、でもその後真っ青な晴天が訪れた頃、本当に。
台風一過というか、天災一過というか。あんなに荒れていた天候は今はすっかり鎮まってしまった。
窓の外はパソコンのモニターを最大限に明るくしないと空の色で何もかも見えなくなってしまうほど明るく、それでいて柔らかな風に緑が揺れている。
「ちゃん」
貴方が帰ってきてくれたら、ちゃんと無事でいてくれたら私はおかえりなさいを言いたかった。なのに、副社長の挨拶はただいまでは無かった。
「おはよう」
「……おはようございます」
「手は離せそう? 少し手を貸してくれるかな」
「………」
「ちゃん?」
私は無言でファイルに保存をかけ立ち上がりました。PC用のめがねは外しませんでした。顔を隠したかったのです。
副社長より先を、私はつかつか歩きます。どんな顔をしたらいいのと迷っている表情を隠したかったのです。
そんな私に一切困った様子の無い、なんだかまったりとした声が、つかず離れず投げかけられます。
「ちゃん」
「………」
「ご機嫌ななめだね」
「………」
「次の角を右に曲がってね」
「………」
ご指定の角を直角に曲がる瞬間、横目で副社長の顔を盗み見ます。ばっちり目が合いました。もうひとつ悔しかったのは、私が必死に早足の割に副社長は一歩を大きくゆったりと歩いていたことです。
端から見た姿はきっと、自分で思う以上に子供と大人に分けられていたことでしょう。
誘導されてついたお店で、私と副社長はワッフルを買いました。ワッフルの間にフルーツや様々な種類のクリームが挟んである、もはやケーキのようなワッフルです。
事前の連絡で用意してもらったものを二人で確認しました。
「今日はまたたくさん差し入れるんですね」
「うん、久しぶりにみんなのところに戻って来られたからね」
「………」
「帰りたければもう帰るけれど、その前に考えてることを全部、僕にぶつけてみるかい? ちゃん」
そう言って、副社長は私の目の前にドリンクメニューを差し出したのでした。
「……ずっとどこに行ってたんですか」
紅茶を一口飲んでそう切り出すと、副社長はなぜかぴかぴかと目を輝かせたのでした。
「そんなに楽しいところ行ってたんですか!」
「違う、これはそういうのじゃないよ。嬉しかったんだ、君が僕がいないことにちゃんと気づいていてくれて」
「………」
「うん、僕はホウエンのいろんなところに行ってたよ」
「……何、してたんですか」
「ちょっとね」
絶対に"ちょっと"じゃありません。
「ニュースで、怖い映像をたくさん見ました……」
「そうだよね」
「カイオーガとグラードンに、レックウザなんて……」
「彼らを鎮めたのは僕じゃないよ。僕はどっちかというと、託す側だった」
「なんでダイゴさんがそんなこと……」
私は何度も考えていたのでした。
「それは僕が、いちばんつよくてすごいからだよ」
副社長の言う通りです。このひとがこのひとであるから。
胸が苦しくなります。副社長が伝説のポケモン同士の争いという、ほとんど災害のような出来事に巻き込まれていった理由はそれだけなのです。
「ちゃんは何してた?」
「すっごく大変でした。雨と風に吹き飛ばされそうになりました。それに変な気温で、低気圧でとてもだるくて……」
「え、もしかしてあの天気の中、出社した?」
「………」
「したんだ……」
副社長がドン引いてる顔を私は初めて見ました。
「そ、それしかできなかったんです……」
「うん。ちゃんのやり方、僕は良いと思うよ」
「嘘です、絶対」
「嘘なんかじゃない。ちゃんはちゃんのやり方で、君の日常を守った。僕も僕のやり方で守ろうとしたよ」
私がしたこと、副社長がしたであろうこと。そのふたつには天と地ほどの差があるのに、副社長は簡単にふたつを隣に並べる。
副社長は感慨深げにそっか、と感慨深げに呟くと、次第に笑いをこらえ始めたのでした。
「そっか……。そ、っか、そうだったんだね、ふふ」
「な、なんですか」
「どうしてこの前新調したのじゃなくて、昔の靴履いてるんだろうなと思ったら、嵐の中出勤したからだったんだね、っははは」
さすがタイツ二枚履きを見抜いた男。私の靴が前のに戻ったなんて、よく気づくものです。
「ま、まだ渇かなくて……」
同僚に同じようにからかわれた時は、なんとでも言えと思っていられたのに。副社長があまりに笑うので、どんどん顔が熱くなります。
「ああ、良かった」
「何がですか……」
「ここでは多分、君の日常が続いているんじゃないかと思っていたから。僕がいなくても会社も君の世界もまわっていく。だろ?」
「………」
「もちろんそれで良いんだよ。だから僕は、ちゃんと僕から動いて欲しがらなきゃって思えるんだから」
もう買い出しにしては随分長く、私は副社長としゃべりすぎている。早く帰らないと、職務怠慢になってしまう。帰りましょう、ワッフルを届けましょうと言わなくちゃ、言わなくちゃと思う。なのに、私はそれ以上に副社長に言いたいことが溢れて苦しいくらいでした。
誰も責めなかったけれど、長めに机を空けてしまった罪滅ぼしとして午後の電話はすべて私が気合いでとりました。
けれど帰り時間だけは、定時であがることになりました。みなさんが早めに帰る中、意地でぎりぎりまで居座って仕事をしていたのが裏目に出て、やることが無くなってしまったのです。
もう、安全のため早く帰れなんて貼り紙はありません。
パソコンの電源を落として、私は着替える前にふと階段で上の階を目指します。
「やあ、ちゃん」
こっそりと覗いた私を、副社長はすぐに見つけました。
「僕がちゃんと仕事してるのか、見に来たのかい?」
「いいえ」
そんな理由じゃありません。
「ただ、ダイゴさんの顔を見に来ました」
気づけば私はそんな恥ずかしい言葉を口にしていました。
社内がきちんと元通りになっているかを確認したかっただけだというのに、これでは別の気持ちが伝わってしまいます。
「そういえばちゃん!」
「な、なんですか……」
「聞いたよ。一人暮らしで、家に帰っても寂しいんだって?」
一人暮らしで、寂しいって私が? 聞いたって誰から?
きょとんとしてから、すぐに事態を理解しました。理解してずるずると崩れ落ちました。最近でそんな自分の事情をしゃべった相手はひとりしかいません。我が社の社長です。
私はそこに日常があることを確認したかったのに、くらくらと目眩がする今を日常なんて呼べません。ただ回る視界の中にはずっと得ることのできなかった副社長の、よく分からないけど楽しそうな表情が戻ってきていたのでした。