ホウオウについての夢は間違いなく僕が、僕の意志で志した夢だ。けれど幼い頃にはやはり僕の様々なことを決めようとする大人がいて、僕がどんな人間になるか、どんなポケモントレーナーであるべきかをありったけの時間を浪費して説き、僕の価値観へと染み込ませたがっていた。僕に許嫁がいたという事実はその最たるものだったと思う。あの日々の大人は、僕に文句のつけどころの無い人間になってもらうべく、僕に完璧な配偶者をあてがったのだ。
 ある娘が僕の許嫁になるまでの課程。それは大人になってから思い返すと驚かされてしまう。
 十にも満たない子供の頃、目的も知らされず僕らは一度顔を合わせ、その場でとりとめのない言葉を交わした。そうしたら、後日彼女は僕の許嫁になっていた。たった一度の顔合わせ。初対面の少女を、少年だった僕には無碍にできなかった。だから彼女がせめて気分の悪くならない言葉を選んで、彼女も一目見て分かるほど優しい性質の持ち主であったから、社交辞令の意味もあってか笑んだ。しかしそれが結局大人たちに、次の行動を取らせたのだった。
 僕が、話しかけたばっかりに。少し楽しくなって彼女を笑わせたばっかりに、ひとつの未来を縛ってしまった。彼女が木なら、僕はその木に咲く花のつぼみを数え切れないほど北風で吹き飛ばしてしまったのだ。その時の衝撃が今も僕の中にトラウマのようなものを残し、結果的に彼女を遠ざけてしまうひとつの理由になった。
 結局、僕はその子と夫婦になることは無かった。

 僕が家に帰ると、ただひとりの女性が僕の帰りを待っていてくれる。彼女は僕がいない間に家中を掃除し、庭に水をやり、洗濯をたたみ、買い物を済ませ、僕が言いつけたことがあればそれをこなし、お風呂をわかしてそして僕に夕飯をこしらえて、僕の帰りを待っていてくれる。

「おかえりなさい、マツバさん」

 聞かずとも帰ってきた僕がとりあえずお風呂に入りたいことを彼女は知っていて、荷物とマフラーを受け取ると、慣れた手つきで所定の場所に置き、台所に戻ってしまった。
 彼女の背を、僕もなんとも思わない。風呂場に行くと、お湯の柔らかな香りが脱衣所に充満している。新しい手ぬぐい、着替えなんかが全てかごに用意されている。汗を吸った衣服を脱いでいると、ゴースたちが脱衣所に顔を出す。

「きみらも、入るかい」

 胸までお湯につかり、身を清め、そろそろいいかと上がると、だいたいいつもと同じ時間にお風呂が終わる。楽な浴衣姿で居間へ行くと、ちょうどちゃぶ台に湯気立つお味噌汁のお椀が置かれたところだった。
 炊事で水の気配が残る、短い指の爪。まとめたのにこぼれてしまった黒の後れ毛。ちゃぶ台の足で夕暮れが光っている。
 彼女がお盆を棚に立てかけたのを見ると、さっきの味噌汁で今夜の食事は全て出そろったらしい。

「いつも、ありがとう」
「……恐れ入ります」

 はにかんで、彼女は小さく頭を下げると部屋を出ていった。たぶん、庭へ。夕方の水まきがこれからなのだろう。

 一度笑わせてしまったがために僕が未来を縛ってしまったその子。結局、その子と僕が夫婦になることは無かった。彼女の家に不幸があったのだ。家を支えていた人物の死、負債の発覚、裏切り、だめ押しの火災。不幸はひとつじゃなく、いくつも続いた結果、彼女の家柄はがたがたと音が聞こえそうなほどに急激に傾き、彼女の一族はほとんど全てを失った。
 だから婚約が解消となった理由は、文字に書くならこうだ。
 彼女が僕にふさわしくなくなったから。
 元々大人たちが、僕に完璧であれと願望を抱いたのが発端だ。そして完璧なトレーナーには、完璧な配偶者と、彼女を強引に舞台に立たせたのだ。
 誰かの理想にふさわしかったから登場人物であれた彼女は、不幸によってそのチケットを失い、舞台からの退場を言い渡されたのだ。彼女の家にあったことに、僕は心の底から同情しているが、婚約が流れたことは不幸中の幸いであった、と思っている。

 僕は一度箸を置いた。そして、そのまま掃きだしの窓に手をかける。からからと戸を引くと、夜混じりの風。それと、彼女がポケモンと戯れる声。

「あはは。上手に避けるのね」

 首を伸ばしてみると、庭で彼女はホースをゲンガーに向けていた。ゲンガーは放たれた水が当たる部分だけを、上手に体を透けさせている。
 彼女がまたいたずらにホースを動かすと、水しぶきが上がり、夕日に虹が見えた。

「あ……」

 彼女がしぶきと一緒に振り返って、僕を見とめて固まった。

「ご、ごめんなさい……」
「ううん。僕こそ、ごめん。良いんだよ、遊んでいたって。ゲンガーも楽しそうだ」

 彼女は顔をそむけて、そそくさと水を撒き、ホースを片づけ始める。何も言わないので機嫌を悪くしたかなと思ったけれど、どうやら違うらしい。覗く耳が赤くなっている。よく見るとそれは首筋から指先までうつっているので、どうやら相当恥ずかしかったらしい。

「きみは、幸せかい?」

 ゲンガーとみずあそびをして、笑い声を聞けたからとそんなことを口走ってしまった。すぐに後悔した。家に大変なことがあったばかりなのに。
 訂正をする前に彼女がこっちを見る。赤みが残る顔で、微笑んでいた。

「はい。お仕事は楽しいです」
「……、そう……」
「ありがとうございます、マツバさん。私を雇ってくださって」

 彼女の家にあった不幸に、僕は心の底から同情していた。彼女の家は、エンジュでも目立っていた邸宅をも失うことになった。家業を失い、家族はばらばらになり、住み慣れた町を離れようとする彼女の背中は痛ましくぼろぼろで、僕はたまらずに投げかけたのだ。

『僕の家で働くかい。まだエンジュにいたいなら、おいで』

 優しさのつもりだった。彼女の働く先と衣食住を提供する。家で、お手伝いさんのように働いてもらうことはそのための方便だった。
 迷っている様子だった彼女の背を母親が押して、は僕の元にやってきた。小さな身ひとつで。

 救いの手を差し伸べたつもりだった。けれど今では僕は、僕自身を疑っている。
 彼女との別れを受け居られなかった僕のそれは本当の優しさと呼べるだろうか。元は婚約者だった彼女は僕は未だ縛り付けて、何をあげるとのたまっているのか。むしろ何を一体いくつ、捨てさせたのかと。

 僕が本を持って部屋にこもる頃、彼女が夕食をとり始める。僕は主人で彼女は使用人だから、食事は一緒にとらないのだ。
 そうして解き放たれたはずの僕らはこの家で、他人では無いはずなのに果てしなく遠い、なんだかよく分からない距離を保って互いに呼吸をしている。