何よりも、同じ夜空に輝いている、ということが肝心なのです。




 随分、ぼんやりした子だと周りにからかわれ、可愛がってもらった記憶は数え切れないほどありますが、そのかわいがりを受けながらも、私はそれらの言葉を真に受けたことはありませんでした。どんなにぼんやり、おっとり、どんくさいと言われても心の中では「これでも私は精一杯やっていることだし」と、根拠の無い自信がありました。だから少し肩を落とすことはあっても、心くじかれたことは無かったのです。

 ぼんやり、おっとり、どんくさい。この年まで言われ続けた言葉は漂う煙のようなものでした。薄ぼんやりと視界にベールをかけ、時々鼻孔をつつきますが、慣れてしまえば香りも気にならない、煙です。それが、今になって、蜘蛛の糸のようになって私の体に絡みつき、力なく引き留めます。

「あの子だよ」

 そうです、その通りです。私は言われる通り、ぼんやりとした性格でした。
 だから、エンジュの人たちが囁く陰口も大丈夫。響きません。

「ああ、お家が」
「人生何が起こるか分からないものね」

 町を出歩くとこうして声が聞こえることがまだまだあります。
 エンジュシティがしばらく平和だった証拠でしょうか。見晴らしの良い坂の上に立つ古い家に、私達家族が住めなくなったことは、私にとってはもう立派な過去なのですが、ひとの噂が消えるのにはまだ、時間が足りないようでした。
 肩を寄せ合っている奥様方を見ると、目が合ってしまいました。軽く笑み、会釈をするとゆったりとした動きで返してくださいます。
 エンジュシティに古くから住む人々は優しくて、趣と、品がある方ばかりです。けれど、別の側面もあるのでした。

 よそよそしくされることを、悲しくないと言ったら、それは嘘になります。ですが、私はぼんやりに生まれた人間。きっともっと悲しまなくてはならない出来事に見舞われているのだ、とは思うのですが、私にとってはひとつまみの塩を舐めているようなものなのでした。

 けれどふと、「マツバさんもマツバさんよねぇ」なんていう呟きが聞こえると、気持ちが傾きます。
 私なら平気です。ただ、マツバさんのことを言われると私は少し弱いのです。

「マツバさんのところで厄介になってるんでしょ」

 その言葉で、気持ちは持ち直しました。だって、マツバさんのところにご厄介になっているのは私、のこと。私への言葉ならいくらでも平気なのです。厄介。そうですね、間違ってなどいません。

「可哀相に」

 私はぼんやりです。自分が可哀相である理由に、思い至りません。
 不幸はありました。家族は離ればなれです。けれど、言葉は響きません。世間から見て、私は可哀相なのでしょうか、分かりません。






 昼の暖かさが去ろうという時間に、私はお買い物を済ませ帰ってくることが出来ました。ご厄介になっている、マツバさんのお家です。お勝手口から敷地に入ります。

「帰りました」

 それはこの家や、マツバさんに懐いてここで過ごす、ゴーストタイプのポケモンたちへの言葉でした。
 いつもこの時間にはマツバさんは帰りません。が、台所に入るとちょうど、冷蔵庫を開けようとしているマツバさんがいました。

 緩やかな目が少し見開いてから、細められます。私も同じような表情をしています。

「おかえり」

 そう言われると、あえて選ばなかった"ただいま"の言葉が息を吹き返してしまいそうでした。

「帰っていたんですね」
「うん。今日の予定がなくなって。ジムにいても良かったんだけど」

 冷蔵庫の取っ手をさする長い指。もう片方の手には、紙袋があります。
 袋にはジムの近くにある和菓子店の判がおしてあり、生菓子・お早めにお召し上がり下さいと書かれたシールまで貼られています。

「マツバさんのおやつですか」
「ううん。おやつじゃなくて、食後に」

 急に出来た余暇に、甘い物を買って帰るなんて。私もやってしまうであろうことを、このひとも同じようにしていることがくすぐったい。思わず顔がゆるんでしまいそうで、「食後のデザートですね、分かりました」なんて言いながら、私は買い物袋からお野菜を取り出すことに夢中なふりをしたのでした。





 星が出て来るのに合わせて、私は夕食の支度をします。火をたき、鍋をたくこの時間は、体にも熱がたまり、頭がぼおっとしてきます。
 重ねて、自分をぼんやりした性格だと自覚が進んでいくのは、ふとした瞬間に昔のことばかりを思い返しているからです。最近は過去のことが何度も顔を出し、私もそれに簡単に心奪われてしまいます。

 夕暮れには、夕暮れの思い出が宿ります。光り始めた星を見ると思い出します。その時はまだ、私とマツバさんは許嫁という結びつきでした。許嫁。私たちが何かと顔を合わせる言い訳がそれでした。お互いに休日を何度も差し出しました。
 あの日は、マツバさんを我が家にお招きしたのでした。最初は家族で食事をしていたのですが、母が話し飽きると私達は、二人でゆっくりと話でもしてらっしゃいと家を体よく追い出されたのでした。
 まだ明るい時間帯。私はマツバさんにお願いをしたのでした。街の外まで歩きたい。

 初めてのお願いではありませんでした。
 私は常々、憧れていました。家の屋根裏に登って窓から身を乗り出すと遠くに見える、ハネッコたちの姿に。自分だけではあのハネッコたちの元にはたどり着けないけれど、マツバさんは大人にも負けない、腕の立つポケモントレーナーです。彼の腕と彼のポケモンを頼りにすれば、野生ポケモンが飛び出す草むらを越えた向こうへも私は行けるのです。

 成人前の私たちでしたから、暗くなりきる前に帰ることが常でした。どんなに遠くを目指しても、夜にならないうちに家に帰ることを念頭に置いて冒険するのです。
 その日も、私たちは安全に家に帰るため歩きました。夜空を見上げ、時に足元をおろそかにしながらも。

 最初に細い三日月を。次に一番星を観測すると、エンジュの街が近くなるにつれ、星々が増えていくのを二人で眺めていました。

『ああ、見付けた』

 そう言ったマツバさんの、まだ少年の声を覚えています。

『なんですか?』
『リングマ座』
『本当……』

 マツバさんの指先を追うと、確かに私はよく光る星を見付けました。それを頼りに星々をリングマ座へと結びつけることができたのでした。

『……、あ』

 私も黄昏時の空に星座を見つけました。だけどすぐに口を噤みます。

『どうかしたかい?』
『いえ』
『何か見付けた?』
『見付けたは、見付けたんですけど……でたらめな星座なんです』

 夜空で私が結びつけたのは、私が考えた星座でした。
 星と星を結びつけたものを星座と呼ぶと知った幼い私が無知なりに考え出したものなのです。

『……、どれのこと? 教えてくれるかい?』

 気恥ずかしかった。けれどマツバさんは、優しく笑いながら聞くのです。大丈夫、大丈夫と私の内なる声が、囁きます。マツバさんなら大丈夫。私はマツバさんの目線の先に、指を動かしました。

『あの星と、その横の星を最後に結んで』
『うん』
『と、と……』
『と?』
『溶けないアイスクリーム座です……』

 顔が熱かった。永遠に溶けないアイスクリーム。子供らしすぎる発想にマツバさんの前にさらけ出すのは。
 けれどマツバさんは笑みはするものの、私の作った星座を笑いませんでした。むしろ感心したというように息を吐きました。

『そうか。そうだね。同じ夜空に浮かんでいるからね』
『え、あの』
『その星をどんな線で結びつけるかは、人の勝手だ』

 マツバさんの声が深みを増していくのを横で聞いて、声も無く、はいと頷きました。

『うん、あれは、溶けないアイスクリーム座だ』
『えっええ、良いんでしょうか……』
『いいよ。その方が面白い。君の物の感じ方、好きだ』




 ぱり、という音がしました。

「………」

 思い出に考えを奪われるあまり、箸の先をかみ砕いてしまいました。箸の先端を口の中探してみましたが見つかりません。どうやら白いご飯と一緒に飲み込んでしまったようです。
 僅かに背の高さが合わなくなってしまった箸をぽかんと見つめ、そういえばと思い出しました。
 そろそろマツバさんが買ってきた、デザートを出しても良い頃合いです。箸を置いて冷蔵庫の前へ舞い戻ります。

 お茶を入れて、菓子を盛りつけ竹の爪楊枝をつけて、マツバさんに出す分はこれで良いはずです。
 ひとつ迷うのは、マツバさんの買ってきた和菓子が、お早めに召し上がらなくてはならない生菓子が、揃いふたつあることです。迷いました。迷いましたが、私はもうひとつをマツバさんのお皿に無理矢理盛りつけ、居間へと運びました。
 マツバさんは背中を丸めて、ポケギアを操作していました。

「マツバさん。デザートです」
「ああ、ありがとう」
「いいえ」
「ねえ」
「はい」

 空になったお盆と一緒に居間から引き上げようとしたのを、心ここにあらずの声に止められます。

「明日も、入っていた予定が無くなったんだ」
「そう、なんですか」
「いつも色々なことを手助けしてくれて、ありがとう」

 何と言うべきか分からなくて、私は首を横に振った。マツバさんはまだポケギアを見ているから、見えやしないのに。

「大変だよね」
「大丈夫ですよ」

 私は言葉の意味を捕らえかねます。マツバさんが気遣う程のことはありません。大変なことがあったとしても毎日を、何のために過ごすのか。その答えは私の中ではすっきりと出ているのですから。

 ここに、居続けたい。
 何よりも、同じ夜空に輝いている、ということが肝心なのです。結びつけられない間柄になってしまうのが怖いのです。

「気晴らしになるか分からないけれど、二人でどこかに出かけるかい?」
「………」
「そんな、特別なことは無いよ。買い出しに、一緒に行くのとかどうかなぁ。重たい荷物を僕が持つよ」

 またすぐに答えが見つかります。

 それは、ダメです。一緒に出かけるのは、私の日常にマツバさんを触れさせるわけにはいかない。

『可哀相』

 あの響きは私だけが知っていれば良い。マツバさんに聞かせてはいけない。ここに存在する私は、可哀相であってはならないのです。

「大丈夫です、こう見えて力はあるんですよ。だから、お買い物は、苦労でも何でもありません」

 明るく言えば、マツバさんは「うん」と言って納得したようでした。
 マツバさんと出かけずに済んだ。私は全身の力が抜けるくらいほっとして、胸を何度も撫で下ろしました。




 何よりも、同じ夜空に輝いている、ということが肝心なのです。
 他のひとに何と言われたって、同じ空にいなければそもそも結びつけることすら出来ないのだから。
 その星をどんな線で結びつけるかは、人の勝手。少年の声をしていたマツバさんの言葉は熱く焼き付いていて、私は忘れられません。




 またおもしろがっているのか何なのか、分からない声が思い出されます。

『婚約者だったのに、今は家政婦扱いって。惨めよね』