ある時、ダイゴのまとうものが僅かに変質した。いしのかたいひと、なんて呼ばれた彼が変化し、目に見えぬ胸の内で確かにそれを受け容れた。見た事の無いダイゴの横顔に気づいた私は酷く驚かされて息を詰めたのだった。
 ダイゴに何があったのか。顔では何でも無いふりをして、けれど時を変え、場所を変え。あの手この手でダイゴを探り辿り着いたのは、ダイゴがある女性を気に入っているということだった。



 潮の香りがする。

「ミクリ」

 ダイゴが伸びやかな背筋を少し反らす。最初はダイゴが何をしようとしているのか分からなかった。が、ダイゴが体をずらした背景に、海風に吹かれているひとがいた。髪も服も風にはためかせて、そのまま飛んでいきそうな華奢な印象を受けた。

「彼女がちゃん。僕が今お付き合いしているひとだよ」

 そう紹介されて拍子抜けした、というのが私の正直な感想だった。
 遠巻きの風景の中に示された彼女が、あまりに普通そうな女性だったからだ。

「って……。付き合い始めたのか」
「そうだけど?」

 私が聞いたのはダイゴが思わず目で追ってしまう存在がいる、という一途なニュアンスだったのに、いつの間にやらダイゴは意中の彼女を手に入れていたらしい。
 まあ、ダイゴはこの手の苦労を知らない方だろう、表面的には。

「おめでとう、なのかな」
「ありがとう。少し話していくかい? 紹介するよ」
「いや、良い」

 彼女を呼ぼうとしたのを止められ、ダイゴは不意をつかれたように静止した。

「このあとすぐ予定があるんだ。ダイゴ、また会おう」
「そうか。じゃあ、また」
「すまない」

 予定があることは嘘では無かった。だが直接彼女と言葉交わすことを戸惑われた。私と彼女は他人のまま、ダイゴとは別れた。


 ダイゴが一度、と呼んだその子が、ダイゴの恋人だと知ると、私はをホウエンの景色の中で見付けられるようになっていた。その度に私は、彼女に声をかけずに視線さえも交わることが無いように、遠巻きに見送った。

 私は、私自身の期待を壊したく無かったのだ。

 あのダイゴが好いたのだから、彼女には何かあるはず。第一印象で"普通そう"と表したのも私なりの期待を込めた表現だった。見た目では分からないが、彼女にはダイゴが惚れる理由があって然るべきなのだ。
 きっと愛することの出来る人間だと思う。けれど、傍目から見ると彼女には無さそうなのだ。何も。

 箱の中身は、開けてしまえば中身がわかりきってしまう。けれど開けなければ私は彼女の真実の程を謎めいたままにできるのだ。
 だから私は、彼女の風景の一部に留めたまま、そっと逃げ続けた。彼女を知ることから。







 抉られるフィールドに舞う砂塵。ダイゴがポケモンバトルをする瞬間に立ち会ったのは久しぶりだった。
 そもそもダイゴがそこらのトレーナーと簡単にバトルをしなくなって久しい。本気で相手をしても、もう良いバトルにはならないから。対戦数を絞り始めたダイゴはそう言って、自分のポケモンとそれから趣味の石集めに没頭するようになっていった。
 そのダイゴが、人の集まりきらないスタジアムで、ポケモンバトルをしている。

「珍しいな……」

 私は引き寄せられるように観戦席に座った。

 ダイゴと見た事の無いトレーナーの対戦。私は戦況を読もうとするのに、どうしても目が行ってしまうのはダイゴのポケモン、ダイゴの手先だった。

 メガメタグロスの豪腕。それを目視不可能なスピードで撃ち出す強靱な駆動軸。硬い爪に速さが加わり暴力的だと言うのに、それを司るポケモンとトレーナー、双方の頭脳は冷徹に冴え渡り、相手を襲う。

 珍しいことは重なるようだ。私はぞくりとしたものを覚え、自分の肌をさする。
 こちらまで巻き上がる砂埃から顔を庇いながら、ああ、あの顔だと思った。品の良い顔立ちを突き破って現れるそれ。彼と対峙した時に、その者だけが幻のように見る剥き出しの彼だ。

 こちらを捕らえようとする眼光、けれど彼の歯はただ白く笑っている。
 関われば圧倒的な力で潰されると全身に警告が走るのに、意識は勝手に彼へと張り付こうとする。
 ダイゴは本気を見せていた。名も知れぬトレーナー相手に、チャンピオンをも獲得した男が本気になっている。





 チャンピオンのダイゴがポケモンバトルをしている。その評判で人が集まりきる前にバトルは終了した。
 またも私は驚かされた。勝ちを収めて、対戦相手と一言二言交わし、去ろうとする。対戦相手にしか気を配らないさっぱりとした態度は、ダイゴが本当に私的にバトルに臨んでいたことを示していた。

「やあ。見ていたんだね」

 ダイゴが私に近づいてくる。その表情は、開放的な輝く笑顔だった。

「随分満喫していたじゃないか」
「うん。最近調子が良くてね」

 それは私も感じていた。ダイゴは元から"すごい"という稚拙な表現でしか表せないような、理解を振り切ってしまうセンスの持ち主だ。が、今さっきの彼はさらに進歩していた。
 ダイゴは調子が良いと軽くまとめたが、言うなれば、全てに於いてなめらかだった。まるで最初から全ての流れが決められていたように戦況を絡めとり、対戦相手に手も足も出させなかった。

「すごかった。見ていて恐ろしかったよ」
「はは、ありがとう」
「ただ相手にもう少し歯ごたえが欲しかったな」
「そうかな」

 その言葉にダイゴは笑みを作ったり崩したりした。

「僕は彼のこと、嫌いでは無い。ああいう戦いをするトレーナーは、必ずいて欲しいものだ」
「私には、そこまでのセンスに思えなかったが」
「じゃあ僕が、彼のこと過小に見せてしまったかな」

 本気なのか嫌みなのか区別のつかないことをさらりと言って、歯を見せて笑う。ダイゴらしい。

「ねえミクリ。この前はありがとう」

 突然の感謝。何のことか分からなかった。
 自分が唐突なことを言っている自覚が、ダイゴもあるらしい。含みのある笑みを保ちながらダイゴは私の隣に座った。

 怪訝な顔で首を傾げているとダイゴは答えをくれた。

と話さずにいてくれて」

 分かるはずもない答えだったが。

「……あれは、本当に用事があったんだ。君の新しい恋人と喋る気分では無かった」
「それでも僕は、ミクリとちゃんが知り合わずにいてくれたことにほっとしたんだ。ありがとう」

 スタジアム備え付けの、サービスのおしぼりをダイゴは取り出し、手を清めながらぽつぽつと喋る。

「時間が経てば経つほどに思う。僕は過ちを犯すところだった。寸のところで君がそれを回避してくれた」
「話が見えない」
「そうだね」
「……ダイゴが話さない方が良いと言うのなら、今後も私たちは接触することは無いだろう。ダイゴのためというより、悪いが私が興味を持てないんだ、彼女に」
ちゃんは"普通"だからね」

 私が知りたくなかった答えを、ダイゴはさらりと吐き出してしまう。そう、それを見ないふりしていたのだ。ダイゴと番になろうとしている人物が普通なことを受け容れられない。

「普通な彼女は、普通にとどまれない僕や君とはかけ離れている。ミクリにとってはそれがつまらなく感じるんだろうね」
「………」
「だけど僕にはちゃんが必要だ」

 横から私を見てくるダイゴ。先ほどの風格のある攻撃性とは打って変わって、穏やかな、それでいて最近変容したダイゴがそこで笑んでいた。まるで、スイッチが切り替わったように。

 ふ、と。私は気づく。やわい風を受けて、香りに感づくように、悟った。

「ダイゴ」
「うん」
「このあと、彼女と食事でも」
「うん。ちゃんとデート」

 溌剌とも言えるダイゴの笑顔に、私は深く納得した。そうか、そうだったんだと体の力が抜けていく。

 私はを知りたくなかった。彼女という箱を開けずにいれば、私は箱の中身を自由に想像できる。ミステリアスな深遠なる存在とも、浅はかで取るに足らない人間と貶めることも自由自在だ。
 どこか嫉妬もあったのだと思う。ダイゴはつよくてすごい。そのダイゴの感心を独り占めしたのが、何も持たなそうな女性だったから。

 実際、彼女はポケモンやバトルを深くは理解していない。見かけた彼女はいつも、ポケモンに自分から近づこうとはしなかった。ポケモンを人間でない自然の生き物として遠巻きに距離をとるし、ポケモンと距離をとるからポケモンバトルの経験もほとんど無いだろう。
 彼女はポケモンを知らないようにポケモンバトルを知らないように、ダイゴというトレーナー、そのグロテスクな存在を知ることも無いのだ。絶対に。

「そうか……」

 無知の女性。だけどその無知が、ダイゴ自身の居場所を作り、強固に守る。

ちゃんが、この今の凪いだ僕をつなぎ止めておいてくれるから。今日のバトルも好調だったよ」
「そういうこと、なんだろうな……」
「うん」

 あくまで穏やかさを保ったまま、ダイゴは打ち明けた。狂気の住まう己を。

「僕は今まで自分自身で、僕というものを保ってきた。例えば言葉遣い。例えば身振り、肩書き。ツワブキダイゴという名前だって、僕と僕として留めておいてくれるものだ」

 打ち明け話をするのは初めてでは無い。私とダイゴは近い部分を持つポケモントレーナーだからだ。高みに指先をひっかけ、狂った部分を分かち合うことが出来るもの同志だ。

「けれどもう、その必要は無くなった。僕はもう、言葉遣いも身振りも肩書きも、名前さえ手放すことができる」

 私たちは知っている。
 高みへと近づくほどに恐怖は襲う。自分はどこへ行くのだろう、思考が自らの手を離れた時、自分はどうなってしまうのか。
 もしかしたら戻れないかもしれない。その恐怖は強烈に私たちの邪魔をする。

 でもダイゴは手に入れた。
 例えダイゴがツワブキダイゴという存在のカギを捨て去って、闇の中に落としてしまっても、それを拾って再び手に握らせてくれるひと。

 実際にの効果はてきめんだった。
 先ほどの鮮烈なバトル。そして今、私の横で落ち着き払っているダイゴ。この後、顔を合わす予定があるだけだというのに、ダイゴはきちんと己を取り戻している。


「嘘、ついてるんだ」
「ん?」
「……一目惚れってちゃんに、嘘ついてる。本当は声に恋したんだ」

 狂気の打ち明け話はいつの間にか終わったらしい。しかもどうやらのろけ話が始まっている。
 落差に調子を崩されながらも相槌を打つ。

「声かい?」
「そう。ちゃんの声で"ダイゴさん"って呼ばれた瞬間に、僕はただ僕のために、この子を手に入れなきゃいけないって思ったんだ。僕が最高のバトルをするために」
「………」
「そういう本能に近い欲求だから、僕の行動を恋をしたからだと見なされると少し後ろめたいよ」
「声なあ……」

 ダイゴの友人を自負しながら、今後も彼女とは関わりを持つつもりは無い。けれど、そう語られたら聞きたくなってしまうではないか。の呼び声を。

 最後、ダイゴは肩をすくめて「それじゃあ」と軽い挨拶で去って行った。私も「ああ」という相槌だけで彼を見送った。
 行き先は知れている。に名を呼ばれ、この世界に呼び戻してもらうため、去ったのだ。