わたしという子どもはいつまで経っても泣き虫だった。世界の悲しみにぶつかってしまったら、もうどうにも耐えられないのだ。それが道ばたの小石ほどの悲しみだったとしても、つまずけば悲しみがつま先から駆け上がって、全身を暴れ回った。わたしの泣き虫が周りの人々を戸惑わせ、どうしようもなく困らせていることは分かっていた。感受性の強い子なのねと、幾度となく呆れ混じりに言われ、その度に深く落ち込んだけれど、やっぱり小さなお別れや、悲喜劇や、失敗なんかがやがてこの世の終わりに繋がるんじゃないかと思い始めると、暗い想像は雷雲のようにたちまち広がった。黒いそれは今までの良かった出来事も全て覆い尽くしてしまう。恐ろしくてたまらず、気づけばしとしと泣き始めてしまうのだ。
夕陽の砂浜を歩くわたしの胸は、やはり悲しさでいっぱいだった。咽び泣きをこらえて、歯を食いしばっているところだ。
気持ちが沈んでいると悲しみが連鎖を起こして、今までの泣いた記憶までもがよみがえり、ますます呼吸を苦しめる。泣き虫なわたしだ。見事な夕焼けの中で泣いていた記憶は数え切れないほどある。ある日は迷子になっては孤独に泣き叫んで。またある日はサンダルを片方、波にさらわれて。ある日は草むらで足を切り、歩くたびに痛みに涙をこぼした。
あの日は、何だっけ。何で泣いていたのだっけ。ただ赤く染まった岩肌に膝を突いて、波の音に負けないくらい泣き声をあげていた。
感情を止めどなく涙に変えていっても、悲しさはどこからともなく泉のようにい湧いてきて、なかなか枯れてくれないのだ。だけど、ハウが。家に帰ろうと、わたしの汚れた手を握ってくれた。
「ハウ……」
幼なじみの名をつぶやいて、涙はどっと量を増やした。
感情に振り回され疲れ果てたわたしを、ハウは柔らかな手の熱さで安心安全のわが家へと導いてくれる。ハウが現れたら、それは夕焼けと涙ばかりの記憶が終わる合図だった。迷子も、サンダルをなくしたことも、足についた無数のきり傷も、全部だ。
「ハウぅぅ~……」
喉の痛みより、呼吸の辛さよりもずっと悲しみは強かった。もう随分泣いたのに。ずっと止まらない涙に正気が失われていく。足首を濡らす波が冷たくて気持ちがいいが、頭には熱がぼうっと溜まっている。
なぜわたしが夕暮れの砂浜をさまようのか。それは幼なじみのハウがこの町から旅立つからだ。もう、すぐに。
ヨウくんが、カントー地方から引っ越してきてからだ。このあたりの空気はぴりりと変わって、ハウも、それからリーリエもかすかに心を変えた。
しまキングの孫であるハウがいつかしまめぐりすることになるのは分かっていたことだった。けれどヨウくんさえ引っ越して来なければ、わたしもみんなも変わらずにいたのかめしれない。ヨウくんのせいではないのに、そう考えてしまう卑しい自分を見つけてまた目の奥が痛くなる。
ああ、頭の中が海と涙の塩気でいっぱいだ。溢れる涙を、寄せては引いていく波に落としながら、わたしは浅瀬に繋いであるボートを目指していた。
どこにも行けないわたしだけど、リリィタウンからちょっとでも離れたところに行って、涙が枯れるのを待ちたかった。ボートに寝そべれば周りから姿は見えなくなるし、涙が止まらないとしても空を見て泣けるのなら微かに気持ちが軽くなると思った。
それに、リリィタウンはハウの思い出だらけなのだ。
「どこいくのー?」
急な声に驚きすぎて、一瞬涙が引っ込んだ。ハウが砂浜の側に立っていた。たったったと足の裏も柔らかそうに跳ねて走ってきて、近くでもう一度笑う。
「
、探したよー!」
わたしは一生懸命に涙を拭って顔を背けた。わたしが泣いているくらいでうろたえる幼なじみでは無いけれど、今は見られたくなかったという思いが強かった。
「えっとー、どこいくの?」
二度目の質問にわたしは無言で首を横に振った。どこにも行く気なんて無い。ただひととき、海の上に逃げたいだけだった。
「
が乗るなら、おれも乗るねー」
そういうと、ボートにハウは先に乗ってしまった。それから手をひいてわたしを船上へ引き上げる。
わたしの行動を分かって、理由も聞かずに手助けまでしてくれる。この優しさが、いなくなっちゃうんだ。すぐに毎日のことになるだろう喪失感が目の前に突きつけられて、拭った後の顔がまた濡れた。
えぐえぐと泣いていると、ボートが海面を滑り始めた。繋いでいたロープを外したのはハウだった。
ボートは揺れたけれど、すぐに落ち着いて、浅瀬での揺れ方になった。
「んーっ。気持ちいーねー」
「………」
「もしかしてー……、おれのことで泣いてたー?」
泣くに決まっている。ハウがいなくなっちゃうなんて。なのにハウは自分で言ったことをすぐに自分で否定した。
「そんなことないかー。
が泣く理由は、いろいろだもんねー」
ハウの目線は夕空に溶けていくケララッパの陰を追っていて、表情は見えなかった。
わたしが、人が驚くような様々な理由で泣き出してしまう。それは否定しない。けれど今まで何度も助けてくれたひとがいなくなるんだ。泣いて当たり前じゃないか。
抱えた膝の向こうからケララッパを振り返ってるハウをこっそりとにらんでしまった。なぜハウは、そこには気づいてくれないのだろう。泣いているわたしを見つけるのはさらりとやってのけるのに。
「うっ……、うぅぅ……」
まだまだ視界は潤む。明日になればいなくなるハウがひとつボートの上にいてくれるのに、言葉が出てこない。思い出ばかりがぶり返して、喉に詰まっている。
ああもう。なん、だっけ。さっきボートへと引き上げて貰った右の手の指同士を擦り合わせる。
まだハウの手の柔らかさを肌が覚えている。擦っても擦ってもまだ探し当てることのできる、手のひらの違和感。
迷子でもケガでもなくて。あの日は、何で泣いていたのだっけ。泣いた理由は何だっけ。
「…、……」
「あ、ゆっくりになったー」
何だっけ何だっけと考えている間は、悲しさを一瞬忘れられたらしい。たしかに目から涙が押し出される速度はゆっくりに、涙腺は閉めきらなかった蛇口のようになっていた。
ハウは同じボートに揺られながら待っていたみたいだった。わたしが泣き止まないまでも、言葉を聞き入れることができるくらい落ち着きを取り戻すのを。
「あのねー、………」
口調はいつもと同じなのに、ハウの雰囲気は微かに違った。言葉が途切れてしまう。
「な、っに……?」
ハウが何を言いたいのか、わたしはぎゅうっと引きつけられてハウを見ていた。
「おれ、リリィタウンからいなくなるけどー。……
の泣き虫は、あんまり心配していないんだー」
「……ぅ、くっ……」
「だけどー、うーんとー……」
ハウはやっぱり、はっきりとは言い終わらないまま、ポケットに手を伸ばした。
ハウのゆったりしたズボンの、大きなポケット。そこからハウが取り出した。
「おれの宝物、あげるー」
「………、……!」
涙が、嘘みたいに止まってしまった。ハウがわたしにプレゼントをくれようとしたのが嬉しかったからじゃ、ない。
「これ、って……!」
嬉しいよりも先に、わたしは驚きすぎていた。ぼやけていた頭がすとんと整理されたような、目の前が急に明快になる、閃くような驚きだった。
「綺麗だよねー、へへ」
ハウの手の中から目を離せないでいると、ハウはわたしの手にそれを握らせた。それは、簡単に言えば石だった。ただし一部が、遠い海のエメラルドグリーンから銀のスプーンで掬いだしたような、透き通った緑色の石だ。
わたしの手のひらに握りきれないサイズの石。手にとって、やっぱりそうだと確信した。泣いていた理由。指同士で擦り合わせていた違和感。この石は、わたしがハウにあげたかった、だけど無くしてしまったペリドットだ。
ペリドットは、アローラ地方で昔よく採れた。テンカラットヒルがあるおかげだ。そう教えてくれたのはククイ博士だった。ククイ博士は、こんな石から宝石を削り出すのだと、写真も見せてくれた。
家からも見上げられる火山から、緑の美しい宝石が採れるんだな。そう思っていたら件のペリドットをテンカラットヒルを探検中に見つけた時は驚きながらも疑った。自分が宝石の原石を拾うなんてふつう信じられないものだ。
けれど、透き通るグリーンの綺麗さに間違いなく胸はときめいて、わたしはそれを握りしめて、酷く焦って町へ戻ろうとした。見たこともない、素敵なものを拾った。これをハウに見せてあげたい。いつもわたしを助けてくれるハウに。ハウがもし気に入ったならその場で「あなたにあげる」と一生懸命になって言おう。もし遠慮されたらあなたにもらって欲しいと何度も言えば良い。わたしはこのペリドットで、ハウが喜ぶ顔が見たい。一番、喜んでもらいたい。
けれど、舞い上がりすぎていたのだろう。テンカラットヒルのふもとでわたしは転んで、その拍子に手の中のものを離してしまって。あっと言う間にその石をなくしてしまったのだった。
痛みに泣きそうになりながら必死で探した。けれど、あっと言う間に陽は暮れて、土と石の区別もつかなくなって、自分の手には何も無くて。
それで、大泣きしたのだ。
「……、
……?」
手の中の石に、涙が落ちる。ペリドットはそれを弾いて光る。
「ハウ!」
「ええっ?」
「これ、ハウの、宝物なの?」
「うん、そうだよー」
「すごく、すごく綺麗だもんね」
「うん。ずっと見ていたくなるー」
「そうだね、安心っていうのかな、気持ちが落ち着く気がするよね……」
「おれもそう思ってる。だから手にとって、この石を見るんだー。そうすると、いつの間にか元気が戻ってる」
「うん、うん……」
「綺麗なところも好きだけどー、暗いところでもちゃんと緑色が分かって、忘れられなくなるんだー」
「これ、どうしたの。拾ったの? それとも貰ったの……?」
「拾ったんだよー。結構前かなー。テンカラットヒルのふもとで」
「そ、そっか……! ハウが拾ったんだ……」
「う、うん?」
「そっかぁ……」
ハウが拾った。わたしが落としたものを、わたしが落とした場所で。わたしがあそこで転んで、石を無くしたから。
だから彼は宝物を得られた。
わーんと、そういう子どもっぽい泣き声は久しぶりだった。いつでも周りを困らせる泣き虫に罪悪感を抱きながら泣いていたのに、今は全てを手放して泣かずにはいられなかった。
ハウはやっぱりすごい。涙の色を、泣く訳を、一瞬で変えてしまった。その本人は、わたしが涙をあふれさせているのを不思議がっているみたいだけど。
滲む視界のままペリドットの原石を見つめると、夕暮れに焼ける視界にさわやかな青緑が溢れかえった。
わたしはボートの上で、たぶん魔法に出くわしているのだと思う。
飼い慣らせ無い悲しみに、何度も負けては泣いていた。けれど涙は、ハウが何度だって「帰ろう」と手を握って終わらせてくれた。だけどこの魔法はもっとすごい。
転んで、ペリドットの原石を無くして、あんなに悲しかったのに、それがぐるりと回ったら、ハウの宝物になっていた。たぶん、ハウを時々助けてもくれていた。
わたしがハウに見せたかったものが、ちゃんとハウの元に届いていた。わたしが自分の手からハウに見せることはできなかった。けれど、手順なんてもうどうでもいいことだ。このペリドットの原石を握って走ったのは、ハウに喜んで欲しかったからだ。願いは叶っているじゃないか。
悲しみが、くるりと流転して、わたしの幸せに姿を変えた。その不思議に追いつく言葉は魔法しか知らない。
「ハウ……これわたしが貰っても良いのかなぁ……」
「あげるって言ったよー」
「でも……」
わたしが何も知らなかったように、ハウも何も知らないままだ。だけどにこにことしてわたしを見ていてくれる。
「あのさー」
「うん」
「さっきまでのが、おれのために泣いてるなら、って話だけど」
「うん」
そこだけはどうも、ハウは自信が無さそうな顔をする。わたしの知らないハウの空気があって、印象深かった。
「おれは大丈夫だよー。しまめぐりだから。大試練を乗り越えて、ぐるっと一周したら帰ってくるし。だけどその間に
がおれのこと忘れたら、それが一番やなんだー」
「忘れないよ……」
「忘れなくても、ちょっとでも
の中のおれが小さくなると思うと、悲しいよー。だから、あげる」
忘れるわけが無い、わたしの中にあるハウの存在がちっちゃくなることなんて無い。元から大好きで、小さい頃からずっと一緒に遊んで、たくさんの思い出もある。そして今日ハウはとても大事なことを教えてくれた。悲しみが終わるだけじゃなくて、めぐりめぐって喜びに生まれ変わるところを見せてくれたのだ。
けれど何度それを伝えても、絶対だと繰り返しても、きっとまたハウはらしくなく自信が無さそうにすると思った。もどかしくて胸が詰まる。けれど、それは泣きたくなるようなものでは無かった。
「あのね、ハウ……」
「なにー?」
「すごく嬉しいよ、ありがと、っ……」
素敵な出来事があったのに、またわたしは泣き出している。ほんと、ハウに呆れられちゃう。そう思ったのに、ハウはますますにこにこしていた。
「ほらー。
は嬉しくても泣くから。ねー?」
「ぅえぇえ……」
「嬉し泣きもすごいよねー、ナマエは」
確かに、ハウの言う通りだ。自分で自分に驚いた。思い返してみると確かに、わたしの泣き虫は嬉し泣きでもすごいのだ。悲しみばかりが目の前をふらついていて、そんなことはすっかり忘れていた。
「そんなにいっぱい泣けちゃうくらいの良いことだってあるよねー、この世界には。
はそれを何度も教えてくれてるよー」
そう言ってハウが両手で頭を撫でてくれる。その手からあったかさと、ハウがわたしの涙に困っていないことを実感して、情けなく泣きながら、うんうんって呟いた。
まだ目から溢れるものがあるけれど、もう大丈夫かもしれない。そう思った。泣かないわたしになったわけじゃない。またすぐに、わたしは悲しみにうずくまってしまうだろう。だけど永遠には続かない。そのことを本当の意味で理解した。
大泣きするくらいの嬉しいことはハウがくれて、だけどわたしが泣くからハウも気がづいてくれる。わたしが落としたものを、ハウが拾って、またわたしにそうとは知らずに贈ってくれる。
わたしとハウは不思議なところで繋がっている。
しばらくのお別れが少しだけ、こつんと蹴っ飛ばせる小石みたく思えた瞬間だった。
(参加企画
ecrin様へ提出いたしました)