20代になって、うみのかがくはくぶつかんの職員仕事を得たことは良かったと思う。あの時からずっと、本当にずっと、自分が成長できている気がしなかった。カレンダーをめくっても、一歩も前へは進めていないようで、実際、わたしは何も変われていなかった。
それでも仕事をするようになって、ささやかな肩書きが増えると、否応なしに時が流れたことを感じられた。
うみのかがくはくつぶつかんが、元から好きだった。そこへ就職できたことに加えて、自然の中でポケモンたちと遊ぶのが大好きな、幼い頃からの性質が身を結んでのことなのだから、いっそう誇らしかった。わたしにも行き着く先はあって、ここがそうなのだ、と。
カイナシティの朝の日差しを受けながら、出勤する。朝の早いうちのカイナシティは、真新しく生まれ変わったように光って、とても美しい。今日も生まれ育った町に見惚れながら、心地よく歩いていると、わたしを止める手があった。ととん、と肩を二度叩き、わたしが振り返るよりも早く振り返らせられる。
強引さに目を丸くしながら手の主を見ると、それはダイゴだった。
「ダイゴ?」
わたしが彼の名を呼ぶと、驚きで彼の髪がわきたったように見えた。そうその髪の色、目の色のおかげだ。数年ぶりの彼が、ダイゴだと分かったのは。
そして彼も、何を基準にしたのか分からないけれど、わたしを見つけてくれたのだろう。この早朝の町で、急に足を止めさせたのだから。
「やっぱり、?」
「そうだよ。よく気づいたね」
まぁ、わたしはあまり変わっていない方だと思っているけれど。働いていてもまた大人になれた自信がないくらいだ。
「驚いたよ、急に。ちゃんと知り合いのわたしで良かったね」
「……、ああ」
「久しぶり」
「そうだね」
「ね……」
相づちをうって、わたしはこの先、急に再会した彼に何を言ったらいいか分からなかった。
ダイゴは、10代の頃の恋人だ。わたしが自然の中で遊ぶのが大好きで、好きなポケモンがあまり女の子らしくなかったせいか、ダイゴとはよく話が合ったのだ。お互いに好きなものを分かち合っているうちに、友達の線を越えて仲良くなっていた。我ながら甘酸っぱい恋をしたものだった。
緊張を覚え、口ごもるわたしとは正反対に、ダイゴはふっと顔を柔らかくした。彼は何も言い出さない。だけど、話題に困っているわけじゃなさそうだった。どちらかというと、言いたいことが山ほどあって、けれどどれを一番に口から出せば良いか分からない。そういう顔だ。あの頃のダイゴも、今と同じ顔をして、結局言葉が出てこずにモンスターボールを取り出した。ダンバルというポケモンと初めて出会った時だった。
「ごめんなさい、久しぶりに顔が見れて嬉しいけど、わたし行かなくちゃ」
「えっ」
「出勤するところなの、遅刻しそう」
嘘だ。ちゃんと時間に余裕を持って行くようにしているから、こんな数分の会話で遅刻したりしない。
「うみのかがくはくぶつかんで働いているから」
嘘、なんで働いてる場所ダイゴに教えてるの。思わずカバンを握る手に力が入りすぎる。
「うみのかがくはくぶつかんか……。しばらく行ってないな」
「わたしは毎日行くようになっちゃった」
「ふふ。それじゃあ僕は久しぶりに行こうかな。開館時間になったら」
ああよかった。このまま一緒に歩くのかと勘違いしてしまった。小さく手を振って別れる。わたしは小走りだった。早くダイゴに表情を見られない場所へ行きたかった。
駆けてしまったせいで、思ってもいなかった出来事のせいで息は苦しい。ダイゴ、笑った顔、変わっていなかった。むしろ変わっていないところばかりだ。彼の良い部分は全部そのまま、大人になっていた。
開館時間になった行く、という言葉にわたしは無意識に期待を抱いていたようだった。開館準備を終えると、すぐに彼が来るんじゃないかと、入り口の方へずっと耳を立てていた。誰かが入ってきた気配がするとすぐさま視線を走らせて、ダイゴじゃないことに息を吐く。
心臓に悪い一日を過ごして、いつもよりぐったりと疲れた閉館間際に、ダイゴは来た。
遠慮がちに、夕日とともに入り口に立っている。わたしが営業スマイルを浮かべると、そそくさと近づいてきた。
「やあ」
「本当に来たんだ」
「まぁね。今、話して大丈夫なの?」
「うーん、少しだけなら。今、来館者もほとんどいないし」
「がこんなところにいたなんてね」
「わたしにしては立派な働き先でしょ。じゃあ入場料、50円です」
「変わってないや」
「そうだね」
同意して笑った。うみのかがくはくぶつかんの入館料は、確かにこどもの頃から50円だった。
ダイゴがちまちまと50円を出しているのを見ると、不思議な気持ちになる。このひとは、チャンピオンにもなったのに。
「チャンピオン、おめでとう」
「……、知ってたんだ」
「うん。なったのはずっと前なのに、今更ごめんね」
「いや。嬉しいよ」
チャンピオンになったこと、ずっと知っていてプレゼントも電話も、メールのひとつも書かなかったというのにダイゴは喜びを滲ませている。それほどにチャンピオンになれたことが嬉しいのだろう。
「本当にすごいね。ダイゴはきっと、いつか何か大きなことをするひとなんじゃないかって思ってたよ」
「そうかな」
「うん」
目線を外してはぐらかされたけれど、ダイゴはそういう自分のこと、ちゃんと分かっていたはずだ。
きっと気づいていたと思うのだ。自分が周りよりずっと好調なトレーナーだったこと。ポケモンへの理解、バトルへの理解が誰よりも深かったこと。バトルしたポケモントレーナーが全員、彼に一目置いたこと。そういう目線は近くにいたわたしも痛いほど感じていた。当の本人にはさらに強く突き刺さっていたはずだ。
「だからだったのか?」
「え、何が?」
間髪入れず、素で聞き返してしまった。ダイゴが何を問いかけているのか、全く分からなかった。
「ごめん、何の話だっけ?」
「いや、なんでもない。せっかく来たんだから、楽しんでくるよ」
「いってらっしゃいませ」
いつもの仕事用の言い回しをダイゴ相手だからといって崩せなかった。職員らしく彼を見送ると、そのまま展示物の影に隠れて見えなくなった。
あの頃から時間は流れて、全ては過去で、わたしたちは大人になった。だからもっと割り切ってダイゴと話せるんじゃないかと思っていた。けれどわたしもダイゴも昔に比べればぎこちなさばかりが勝っていた。
あの頃は、こんなんじゃなかった。二人で、好きなものを分かち合う時間は楽しすぎた。このひとは分かってくれる。例えどんな話をしても、眉をしかめることは無い。そう信じきってわたしはダイゴを見つめて、ダイゴも同じ目でわたしを見た。
好きなものを好きということが許されている。ダイゴはいつだってその安心をくれた。甘酸っぱい恋だったと振り返るけれど、与えられたあれは愛というやつなのだろう。あたたかで、深く安心して、けれど胸の奥にはさわさわと風が吹いていた。あれが愛だった。
わたしに、彼へ別れを告げさせたあれも、愛だった。
春の花を散らす雨の日だった。
ひとつも欠けたところの無い好きな気持ちを抱えたまま、別れよう、ううん別れたいのとわたしがダイゴに突きつけたのだ。
『ダイゴと笑って語り合う時間が、今は嫌いな時間なの。楽しいけど、楽しいばかりで、何も前に進んでいない』
言い訳では無かった。
『きっとあっと言う間に大人になっちゃうのに、遊んでばかりいられないよ』
まだ、好きで、ずっと一緒にいられたらって思うけれど。その気持ちは伏せた。だけど嘘の気持ちは言わなかった。
『だから離れていた方が、それぞれ上手く行くと思う。別々に生きてた方が、全部が良いようになる。そうとしか思えない』
わたしがダイゴに別れを告げた理由の全てが、それだった。
会う度に無邪気さたっぷりにわたしとなんでもない話をしてくれる彼の才能に、気づかないはずが無かった。少し変わったところもあるけれど、ダイゴはたくさんのひとを軽々越えていく。負け知らずのダイゴを近くで見ると、きっといつかジムリーダーとか、もっとすごいポケモントレーナーになるんだろうと感じさせた。
だけど、彼は案外大きく、心のスペースをわたしのためにとっておいてくれていた。
彼は嬉しいことや発見があると、カイナから特に旅するでもないわたしの元に帰ってきて、そしてわたしに話して聞かせる。時には実物の石を触らせてくれたり、実際にポケモンのわざを見せてくれたりしてくれた。
『家に帰る回数より、に会いにくる回数のが断然多いよ! ポケモンセンターと良い勝負かもしれない』
そんな言葉を聞いては照れていた。けれどいつからか、裏で重たく感じるようになっていた。
ダイゴはこんなところにいて良いんだろうか? 未来があるひとなのに、きっとすごいトレーナーに彼はなるのに、こんな場所にいさせて良いんだろうか? わたしは彼の足を引っ張っているんじゃないだろうか? 彼の旅を前に進めなくしているのは、わたしの存在? ダイゴにはもっと大切なものがあるでしょ?
彼のそばにいると得られる安心は急に蒸発してしまって、そのすぐ後だ。わたしは春の雨の日に、別れたいと願ったのだ。
結局その後、ダイゴはさらに腕を磨き、今やチャンピオンなのだから、あの日のわたしは
「間違ってなかったんだな……」
思わず出た言葉。目に何かが染みた。あの日の別れでダイゴは前に進めたんだなと思うと、よかった、とひたすらに思った。
よかった、よかった。わたしはあの日から何も変われずにいて、苦しいけれど、ダイゴにはちゃんと良いことがあったのだ。良いことがあってしかるべき人間だったのだ。わたしは、自分の気持ちに嘘をついた報いを受けている。それだけだ。
涙がどうにかおさまった頃に、閉館を告げる音楽が流れて、ダイゴも奥から姿を現した。うみのかがくはくぶつかんをしっかりと楽しんでくれたらしい。ここへ来たのが、わたしに会う口実じゃないことが嬉しかった。そんなつまらない理由のためにちまちま50円を払うような男ではないのだ、ダイゴは。
「、今日は来て良かった。今度、ゆっくり食事でもしよう」
「あ、ありがとう。でも、わたしも忙しいからいつ行けるかな……」
「いいよ、いつでも。僕は待ってるよ」
「いやいや。時間もったいないよ!」
「そう?」
「そうだよ!」
「何故?」
静かに問われる。急に冷えきったような声色に調子を崩される。わたし、何か変なことを言っただろうか。言っていないはずだ。
「どうしてだい。もったいなくないよ。のことを待ってる。もう先を急ぐような冒険は無いから」
どきりとした。あの時の別れの、本当の理由をダイゴは知らないはずだ。
「ほんとに、いつになるか、分からないから……」
「うん」
うんじゃないよ。チャンピオンが、昔の知り合いを待つなんて時間の無駄だ。
営業スマイルを浮かべて、ダイゴという来館者を見送る。明日は指輪でもしようか。左手の薬指につければ牽制になるだろうか。ダイゴにはその指輪の嘘を見抜かれて終わりかな。石にも詳しいし、高価なもの何度も見たことあるだろうし。わたしは高い指輪なんて持っていない。
どうしよう。彼を待たせたくない。わたしの地点でダイゴに待っていて欲しくないのだ。
我ながら、甘酸っぱい恋が、今も苦く煮詰まって続いているなんて。悪い冗談だ。