「やあ」


 ワタルで大きな手の平をあげる。今宵の暗さに慣らした目には、彼の手の厚さまで見えていた。
 夜闇で彼の顔ははっきりとは見えない。けれど今まで散々重ねて来た記憶たちが、ワタルの端正な顔立ちとその笑顔を補完してくれたようだった。


「ほら。冷えたんじゃないか?」


 ワタルは私の隣に腰を下ろして、そのまま双眼鏡を構える私の横に袋からサンドイッチと蓋のされた紙カップを設置していく。
 カップの小さな口からふわりと香ばしさが鼻をついたのだから、中身はコーヒーで、まだ暖かいのだろう。


「よくここにいるって分かったね」
「最近の満月の夜はお月見山でピッピ見てるって言ってたじゃないか」
「毎回じゃないんだけど……」
「君は今日随分着込んでいた。その上満月ときたら、ピッピたちを見に行くに決まってる。当たってるだろ?」


 わざわざ同意はしなかった。そのことへの後ろめたさも極小だ。ワタルとはもう律儀な会話はしなくて良いほど長く付き合ってきたから。

 そう、ワタルとは長い付き合いだ。お互いがポケモンと出会って、様々な経験を重ねて行く。子供から大人へ、大人からその先へ。成功も、挫折も。生きて今にたどり着くその過程。私はワタルを、ワタルは私の過程を知っている。
 ほとんど何でも知っているのに、私は最近ワタルに言えない言葉の多さに辟易している。

 今だってそうだ。
 片手で食べれるサンドイッチ。夜更かしのための暖かいコーヒー。それを選んで差し入れてくれたワタルを、気がきくなぁと思っている。こう言うところが、みんなを引きつけるんだなと感心している。
 だけど、素直には言えない。


「こういうこと出来ちゃうのが、ワタルって感じだよね」
「何言ってるんだ。だってそうしただろ」
「……どういうこと?」
「俺が寒い夜の中、じっと耐えて何かを待っているとしたら。君だって暖かい飲み物でも持ってそばにきてくれるだろ」
「………」


 否定はできない。実際に私はそうするだろうと思えた。
 ドラゴン使いとしての才能を持ちながら、努力家でもあるワタルが何かに独り耐えていたら。わずかな助けにしかなれないとしても、その行動を起こすだろう。でも、素直にはなれない。


「それは、ワタルだからだよ」


 誰かに助けてもらえる。誰かの良心を信じきっている。それはワタルがワタルだからだ。誰からも慕われる、憧れを一身に受けるワタルだから、人を信じきったようなセリフが言えるのだ。


「その言葉をそのままに返すよ」
「………」
「ここにいるのがだから、俺は今夜ここにきた」


 私はそんな人間だった覚えはない。一時でも、ワタルのように人望が厚く慕われる、そんな人間だったことが無い。

 話にならない。ワタルは私の何を見ているのだろう。だけど屈託無く誰かを信じているのも、眩しいくらいにワタルだと私は思った。
 私は言い返すこともしないで、もう一つの双眼鏡を取り出した。


「ん?」
「これ、使ってもいいよ。ピッピが集まってきてる」
「なんで予備の方がでかいんだ」
「性能が違うのよ、性能が」
「分かったよ。そういうことにしておこう」


 やがて、ピッピたちの時は満ちたようだった。お月見山の天頂に集まったピッピたちが、皆動きを合わせて揺れ出す。


「綺麗だな……」


 ワタルの感嘆する息がすぐ隣で聞こえて、思わず感覚が耳にばかり行った。
 ワタルがこんなにピッピに興味があるとは思わなかった。ドラゴンタイプとは真逆なのに、満月の下でのピッピたちの踊りで感動するなんて、意外な一面だ。


「ワタルって案外ピッピが嫌いじゃなかったんだね」
「ん? ああ……」


 今までもこんな風に、二人で思い出を重ねて来た。

 私たちは何なのだろう。
 ワタルはコーヒーとサンドイッチを持って、ピッピのために寒さに耐えている幼馴染の元に来てくれた。それは当たり前のことだからと言っていた。
 私はワタルだったからだ。こうして隣にいるのが他の誰でもなくワタルだから、しまっておいた大きい方の双眼鏡を、彼に差し出した。

 私たちは何なのだろう。
 お互いに昔と今を知っているけれど、”私たち”は今、何なのだろう。
 こうして、私はワタルに言えない言葉をまた見つけて、辟易するのだ。


「……差し入れ、ありがとう」
「ああ」


 やっとありがとうが言えて、肩の力が抜けていく。

「来た甲斐はあったよ」とワタルが言う。私もそれには同意だった。
 星が瞬いてる。満月にも霞まない光が、夜空を飾り付けている。その中で、私たちだけだった。月夜に踊るピッピたちを盗み見るために、岩陰から双眼鏡をのぞいている。良い年してそんな変なことをしてる大人は、私とワタルだけだった。
 それは暗闇の中で微かに笑ってしまう、くすぐったい事実なのであった。