突然だった。あの日のをいくら思い出したとしても、前触れのようなものを見つけることはできないだろう。
ポケモンスクールからの帰り。急に、だけれど決定的に、はいつも通りに行動する事が我慢ならなくなった。スクールから家にまっすぐなんて、帰りたくなくなったみたいだった。親の言いつけを破ってしまうことより、その後両親に失望されることよりもずっと恐ろしいことがあると、は気づいてしまったのだ。
良い子なの誕生日祝いに、と連れてこられたイーブイが、ブラッキーに進化したのもその晩だった。友人に、にはなんだか似合わないね、と言われたブラッキーに。
「ブラッキー、出ておいで!」
空に投げられたボールから、ブラッキーは極小の音だけをたてて着地した。周りを見るともう、学校から家とは反対方向に来ている。ブラッキーもすぐには今日も簡単には帰らないつもりだと気がついた。
「よしよし、いいこ」
頭を撫でられて、ブラッキーは目を細めた。
の手を心地よく思いながら、ブラッキーはを案じていた。一度は治ったの夜遊びがまた、ぶり返してきている。
がいつ、どこへ行こうとブラッキーは構わなかった。が行く場所ならどこへでもついていくつもりだ。
けれど、が夜の道を無防備に歩き回るのを、心配していないわけではなかった。
『ちゃん、あなたはスカル団になるような奴らとは違うのよ。間違えてもスカル団とは、特にグズマなんかとは関わり合いにならないこと』
警告するママの甘い声を、ブラッキーは何度もの横で聞いていた。
スカル団や、グズマとかいうやつと関わり合いにならない。はまだその言いつけを破るまでには至っていないけれど、このまま行けばいずれそうなるだろうと思えた。
ブラッキーはグズマを知らない。スカル団は見かけたことがある程度だ。けれどには、とにかく悪いことが起こらないで欲しいとは願っていた。
ふと、ブラッキーの耳がひくついて音を拾う。それは忍ぶような足音だった。
ゆったりと何気なくサンダルで歩いている風を装って、暗さに紛れようとする音。ブラッキーはすぐにピンと来て、見知ったその音を一直線に目指した。
「あれ、ブラッキー? ブラッキーどこにいったの?」
の元に、ブラッキーはすぐに戻って来た。けれどブラッキーの後ろについてきた人を見て、は眉をしかめた。
「おいおい。また戻ってきちゃったの」
「………」
「おじさんあんなに親切にしてあげたのに」
はしかめっ面をしている。だけどは本音は違うことはブラッキーは分かっていた。
ブラッキーがクチナシの元を離れての膝に寄ると、体を撫でてくれる手に落ち着きがない。それに体温が上がっているようで、の香りがいつもより強くブラッキーの鼻をつついた。
すぐ隣のブラッキーから見ると、はいつもわかりやすい。煩わしそうにしながらクチナシを無視はしない。今夜だっては密かに、このクチナシに会えたら良いと思っていたに違いない。
「何かあったのか」
警官だからか、クチナシも、こうやってを見放さなかった。
「別に何も」
「おじょうちゃんちはこのこと、知ってるの」
「さあ」
「もうしないって言ってたくせに、おじさんとの約束を破ってさ。訳があるんじゃねえの」
「……だから何もなかったってば。親の言う通りにしても、楽しいことなんて無いって分かったから今こうしてるの」
は反抗の理由も単純で分かりやすい。親の言いつけを守っても自分にとっての良いことが無いと気づいてしまったからだ。
ブラッキーは思っている。多分は自分で選択したくなったのだと。いろんなことを自分で選びたくなったのだと。
何か良いことがあっても、悪いことがあっても、誰かの選んだ結果じゃなく、自分の選んだ物事の先に出会いたくなった。だからいつものスクールからの帰り道を辿らなかった。
「むしろ、悪い子になったからクチナシさんに会えたんだよ」
「……ほう」
「あのね、クチナシさん、私の言ってることわかるでしょ? 良い子になっても、良いことなかったの。だから悪い子になったの。それって、悪いこと?」
ブラッキーはぴくりと耳を動かした。の膝下から見上げたクチナシが、微かに口端を上げたからだ。
「じゃあ明日おじさんと待ち合わせするか」
「え? クチナシさん。それ、ほんと?」
「昼間に良いことが無いと、悪い子になっちゃうんだろ?」
「そう、だけど」
「分かったら早く帰るぜ。夜更かしで寝坊なんてしたら、おじさんは待たねえよ」
「寝坊なんてしないから!」
期待を滲ませるを交わしながら、クチナシがの前を歩く。の家がある方向だ。
もうこれでは心配ない。後ろから二人を見守るブラッキーはあくびがしたい気分だった。
ブラッキーも、この男がを構うのは、クチナシが警官であるからだと思っていた。けれどブラッキーはある時、気がついた。
その時はブラッキーも、まだクチナシをただの警官だと思っていた。やる気があまり見えない警官に。
『のブラッキーか。おいおい。あのおじょうちゃん、またうろついてんのか』
ウラウラ島にいるブラッキー。その組み合わせで、クチナシはすぐを連想したようだった。
『ったく、しょうがないね。お前さんを見りゃあ、が良い子なのは痛いほど分かるんだけどね』
しゃがんだクチナシが、ブラッキーの頭を撫でる。けれどブラッキーがその男の手の感触よりも忘れられないのは、クチナシの表情だった。
「デートだと、思ったのに……」
待ち合わせと聞いてすぐにデートだと思い込んだだった。が、今はクチナシに良いように言いくるめられて、クチナシが保護しているたくさんのニャースたちのブラッシングをしている。
「騙された」「せっかく気合い入れて来たのに」とぶつぶつ言うものの、は一匹一匹丁寧にブラッシングをしている。
機嫌よく喉を鳴らすニャースたちにブラッキーも胸を張った。のブラッシングは世界一気持ちいいのだ。
「わりいね」
「……絶対悪いなんて思ってないんだから」
から顔を背けるクチナシ。ブラッキーから見るとそれは、眠気を堪えている表情に見えた。
に合わせて行動しているけれど、普段は寝ている時間なのかもしれない。そう思っているとまたクチナシがコーヒーを煽った。
「ほら。ニャースたちがありがとだってよ」
「クチナシさんは…?」
「ん?」
「クチナシさんは、少しでも嬉しかった?」
その答えはクチナシには言えなかった。彼にとって嬉しいのはニャースたちを丁寧にブラッシングしてくれたことじゃなく、がこうしてここにいることだ。
クチナシの様々な行動は、その気持ちはもう、ラインを超えている。
はもちろん気づいていない。けれどクチナシも、自分の気持ちを理解しているか怪しいとブラッキーは思っていた。
「……まあなんか、食いにでも行くかな」
「答えてくれないの!?」
「おじさんのことは気にしなさんな」
全てに気づいているのはひょっとしたらブラッキーのみかもしれなかった。
ブラッキーはあくびがしたい気分だった。それと同時に、夜にぎこちなく遊ぼうとするを心配する役目が、なくなってしまうのを寂しく感じた。