私が同じ町に住むダイゴくんのことを、なんら特別感を抱かずに友達と思っていられたのは、今となっては驚いてしまうような事実だ。
とりあえず近くの森やどちらかの家に集まって、私はダイゴくんの興味に付き合い、ダイゴくんも私の興味に付き合いながら遊んで、夕方になったら深く考えずに明日も遊ぼうなんて約束をしていたなんて、ちゃんと思い出は残っているのに信じがたい。
 いつも新品のように清潔な服を着ていて、大きい家に帰るなとは思っていた。彼の立ち振る舞いを、なんだか綺麗だとは思っていた。ポケモンと触れ合うのがいつも上手で、すごいなと思っていた。けれどそれがどんな価値を持つかなんて、私は知らなかった。私は、ダイゴくんとの間に立ちはだかる壁に、気づきもしなかったのだ。

 大人になって遠巻きに見かけたダイゴくんは、噂に違わない素敵な男の人になっていた。トレーナーでも、トレーナーじゃなくても誰もが口にするのは、すごいとかつよいとかそういうダイゴくんを褒め讃える言葉。私は変わらない背筋の美しさとか、幼い頃に抱いた期待を裏切るどころか悠々と超えた整った横顔に視線を奪われた。
 だけどダイゴくんを見かけると、私はなんとなく目線を下げてしまう。見つけたのがカナズミの町の中なら、石畳の模様へ意識を向けて、彼の靴の先さえ見ないようにする。
 別に喧嘩別れしたわけでもない、話せないわけでもなんでもないけれど、大人になった彼から無言で目線を外してしまうのは、私に現実が襲い掛かるからだ。

 何も知らなかった頃は良かったけど、今はもう物の価値をあまりに知らなかった幼い自分が我ながら恥ずかしい。
 彼に気づかなかったふりをして通り過ぎるなんて、薄情だと言われてしまうかもしれない。でも歩き続ける私に広がるのは後悔や後ろめたさはあまりない。こうなるのが当然だ、という安心感が何よりも勝る。

 だけどふと、地面の模様に蘇る、横顔の残像に思う。彼は存外寂しげな大人になったな、と。

 休憩時間となったのに仕事から気持ちを切り替えきれずに、考え事をしながら歩いていたせいかもしれない。

「やあ」

 ダイゴくんは私を見つけていて、しかもそれが近所の子のと分かっているようで、思わず私も足を止めていた。ここからもう通り過ぎるなんてできない状況だった。

も休憩かい?」
「あ、うん」
「僕もだよ」

 そうなんだ。少し意外に思う。
 この時間で休憩している、ということは。ダイゴくんは今日、彼の後ろにそびえ立つデボンコーポレーションで仕事かなんかをしていて、彼はこのカナズミの道端にある自動販売機前まで降りてきた、ということだ。

「お父さんの会社にも結構来てるんだね」
「ここ最近は、ね」

 ダイゴくんがお父さんの会社に入って、副社長という立場になったことはそれこそ噂に聞いた。けれど会社にいつもいるわけではないということも、母や母の友人たちが喋っていたことだった。
 確かに、私が知っているダイゴくんはいくら大人になったとは言え、オフィスにこもりっきりになるようなタイプではなかった。もちろん仕事でもなんでも、やるとなるとダイゴくんはやすやすとなんでもこなしてしまうのだろうけど。

 ダイゴくんはちゃりちゃりと小銭を手に取り、自動販売機に入れている。
 指先が押した先、がこん、と音がして落ちて来たのは優しいオレンジ色のパッケージを見て、「あ」と、声が出た。

「ミックスオレ、美味しいよね」
「……確か甘いよね、とっても」

 そう、その甘さがいいのだ。確かに甘ったるいけれど、フルーツを凝縮したジュースは確実に暑さや疲れに負けない元気をくれる。サイコソーダの炭酸が苦手で、おいしいみずでは物足りない私は、結局気づけばミックスオレのボタンを押しているのだ。私の休憩時間には欠かせない、絶対のお供である。

「はい」
「え? いいの?」

 上手に断ることができなかった。だって、私がここに来たのはそもそもミックスオレを買いに来たからだ。

「あ、ありがとう。ダイゴくんは優しいね」

 まあものすごく高いものでもないので、悪いなあと思いつつも受け取る。ひんやりと冷たいミックスオレ。高価なものじゃないけれど、自然体では受け取れなくて、なんだか気恥ずかしくなる。

「それ、よく買ってるよね」

 よくというか、ほとんど毎日のように買っている。自動販売機に入れるためにお財布に小銭をとっておくくらい買っているけれど、ダイゴくんがどうしてそれを?
 不思議な状況にこんらん気味の私にダイゴくんは振り返ってデポンコーポーレーションのビルの上を指差した。

「あの辺り」
「え? なにが?」
「副社長室。つまり僕の仕事場ってこと」
「み、見てたんだ……」
「まあね」

 否定しないダイゴくんに心がざわつく。それにしてもよく気づいたなぁ。窓から見えると言っても、あの高さじゃ米粒くらいのものだろうに。
 ダイゴくんはもう一度お金を入れて、ミックスオレのボタンを押す。がこん、と冷たい缶がまだ落ちてくる。
 呆然とする私をよそに、ダイゴくんはプルタブを上げ、ミックスオレに口をつけた。

「久しぶりに飲んだよ。やっぱりとても甘いね」

 そう言って、ダイゴくんはまた缶に口をつける。一口飲んで、かすかに眉を寄せた。きっとミックスオレのフルーツとろける甘さに、眉を顰めたのだろう。美味しいと味わっているようにはとても見えない。

「苦手なのに買ったの……?」
「飲んでみたかったんだ。君は毎日飲むくらいこれが好きみたいだから」
「えええ?」
「どういう表情なんだい、その顔は」
「ダイゴくんが人が何を飲んでるかとかそういうの、気にするの、意外だなって……」
「意外?」
「うん、なんかイメージと違うっていうか……」

 私が幼い頃、微かな関わり合いを持てたダイゴくんという人は。自分の好きなものにいつも正直で、まっすぐだった。そういう彼のとくせいも、成長するにつれもっと突き抜けていったはず。だから私のことはかけらも気にしていないという方がしっくり来てしまう。

「どうしてだい。イメージって、なんだい。ちゃんの好きなものを気にしても気にしなくても僕は僕だよ」
「………」

 当たり前じゃない、と言いかけた心の声をダイゴくんが切り捨てる。

「そんなことより」
「そんなことって……」
「君にちゃんと言わないといけないことがあってね」

 体に緊張が走ったのは、予感が走ったからだ。
 私の知るダイゴくんは、そういう意味ありげな笑顔のできる男の子じゃなかった。表情一つで私に緊張を味わせられる男の人では、なかった。

「あの副社長室からずっと見ているだけだったけど、もう寂しいのを、認めるしかないなと思って」

 これは何? この状況は、これから起こることは何? 汗をかきはじめたミックスオレの缶を握り直す。
 何かいろいろと、今までと違うことが起こっている気がする。
 私はいつものように大好きなミックスオレを買いに来ただけなのに。そのジュースは手の中にあるけれど、まだ蓋を開けられない。何が起こっているの? 緊張か何かもわからない感情で心臓が苦しい。

「知っておいてね。君は僕を寂しくさせることのできるひとなんだよ」
「それは……知ら、なかった、かな」

 私にダイゴくんを寂しくさせる資格があったなんて。考えたこともなかった。かろうじて、どうにか繋ぎの返事をしたというのに、ダイゴくんはもう一撃、考えられないことを言う。

「うん。でももう、戻れないね」

 彼の言っていることがやはり理解できない。だけど私が寂しいだなんて感情をいただかせてしまったのなら、とりあえずごめんねと謝るべきか。そう思ったのだけど、ダイゴくんは私を責める表情なんてしていなかった。

 あれ、何かがおかしい。ダイゴくんの笑顔の傍に、きらきらしたものが見える。彼は晴れやかに喜んでいる、ように見える。
 貴重なもののように握りしめていたミックスオレが、その価値が急に変わる。これ、受け取るべきじゃなかったかもしれない。