※ゲーム本編終盤のビートくん
ビートくんは今日も口をへの字に曲げて、わたしに意地悪なことを言います。
「バトルをしましょう」
これがなぜ意地悪なのかというと、わたしはポケモンバトルでビートくんに勝ったことがないからです。
わたしは、アラベスクジムのお手伝いをしながら、ジムトレーナーさんたちが週2回ほど開催してくれるポケモン講座にこつこつ通って、アドバイスをもらいながらポケモンを育てる身です。ちなみに相棒はイエッサン。私と生活を一緒にする女の子です。反対にビートくんはポプラさんがある日連れて来た、次のジムリーダーになり得る逸材です。この街に現れた時から、街の誰よりも育てられたポケモンたちを連れていました。
もしかしたら、100回に1回は勝てるかもしれませんが、とうていわたしが敵う相手ではありません。なのにビートくんは、わたしにバトルをしようなどと言うのです。ビートくんは必ず自分が勝つとわかっていて、さらなる意地悪を付け加えます。
「勝った方が負けた方の言うことをなんでも聞く。どうです?」
絶対勝てるバトルに、こんな条件をつけるなんて、ビートくんは意地悪がすぎます。これならまっすぐをぼくの言うことを聞けと言ってもらった方が良い気もします。
もちろんわたしはいやだと言いました。わたしのポケモンたちはもはやビートくんのポケモンたちへの苦手意識が芽生えつつあります。
でもビートくんはしつこくしつこく、同じ条件でバトルを仕掛けてきます。断ることに疲れ切ってしまったわたしは一度だけ、ビートくんとバトルをすることにしました。
あえなくわたしは負けました。わたしのポケモンのことは知っているんだから、少しは手加減してくれるのかと思いましたが、そんなことは全くありませんでした。こてんぱんでした。ビートくんのいつもの澄ました表情はぼろぼろと崩れていて、「絶対に負かす」という強い意志を感じました。
バトルのあと、まずはお互いポケモンセンターに行きました。お互いのポケモンたちが元気に回復したのを確認して、そしてビートくんのポケモンたち相手なのによく頑張ったねとイエッサンの戦いぶりを褒め称えて、それからわたしは、こちらから視線を外すふわふわ頭に聞きました。
「ビートくん、わたし、負けたよ。何が望みなの?」
あんなに何度も何度も、わたしにバトルをしろと言ってきたのです。なにか、どうしてもわたしに言いつけたいことが、ビートくんにはあったはずなのです。なのにビートくんは教えてくれませんでした。
わたしに言うことをきかせる権利を手に入れて、ビートくんは一応は気が済んだようです。そのあと、彼がまたバトルをしろと言ってくることはなくなりました。ビートくんがお願いを言わないことは少し胸にひっかかります。でも断り続けることに疲れてバトルをしたわたしにとって、それはありがたい変化でした。
ビートくんが一体わたしに何をさせたいのか知らないまま、薄暗いけれど穏やかな、アラベスクタウンの日々が過ぎました。一番大きなネマシュが進化して街から姿を消して、代わりに新しく街にいつくようになった小さなネマシュを見つけた日。
今日もジムトレーナーさんにポケモンを育てるアドバイスをもらった帰り道で、青白い顔をしたビートくんがわたしを待ち受けていました。紫の瞳に、どこまでも誘い込むルミナスメイズの森のような暗さがありました。一生懸命頭の中を探して見つけだした言葉を当てはめれば、わたしの目の前に立つのは鬼気迫ったビートくんでした。
「ちょっと、来てもらっていいですか」
イエッサンを顔を見合わせると、イエッサンは小さく頷きました。ビートくんは鬼気迫った様子なのに、不思議なくらいに落ち着き払ったイエッサンがまるで、大丈夫と言ってくれているようでした。わたしはおずおずと頷きました。
ビートくんが歩いていく方向に、わたしは気づいていました。ビートくんが寝泊まりしているという家です。このまま家の中に招いてくれるのかなと思いましたが、彼は家を越えて裏の林でわたしにつむじを向けたまま願いました。
「手を握ってください」
この状況、言われてすぐ「うん、わかった」とビートくんの手を握れる人間はあまりいないのはないでしょうか。思わず「え?」と聞き返すと、ビートくんは顔をくしゃくしゃにして言います。
「ぼくがバトルに勝ったでしょう?!」
「う、うん? うん……」
なんだかわかりませんが、わたしはビートくんに「手を握れ」と命令されているようです。おずおずと左手を差し出すと、とげとげしく言われました。
「反対だよ」
「え、手の指定があるの?」
「はやくしてください」
「は、はい……」
左手を引っ込めて反対の手、右手を差し出すと、ビートくんの右手に重ねられました。ビートくんがずっとポケットにつっこんでいた、あたたかな右手でした。
しばらくは、ビートくんもわたしも何も言いませんでした。わたしはただ思ったよりやわからかなビートくんの手のひらに驚いて、これ以上の力を込めて握って良いのかどうかをぐるぐると考えていただけですが。でもじきに、ビートくんがしっかりと私の手を握りなおしました。
「分かっているんです。まやかしだと」
「は、はい」
はい、なんて言ったものの、ビートくんが何を話しているかすぐには分かりませんでした。まやかしとは。なかなか身近でない響きの言葉です。わたしの疑問を見透かす、じっとりとした濃い紫は、まやかしを知っているのでしょうか。
「あなたがぼくに言ったことを、ホンモノだと信じると決めました」
「ご、ごめんね。何を言ったか、わたし全然覚えてないや」
「忘れましたか?」
「ごめん、なさい……」
「別に、それでいいです。いつもあなたは全てを当然のように言うんですから」
自分が全く覚えていないことをつつかれるのは居心地が悪いものです。
「まやかしは、何をするの?」
ビートくんは答えようとする仕草も迷うそぶりも見せてくれませんでした。
「もう少しだけこうしててください。ぼくが身勝手に、あなたの言葉を嘘にしてしまわないように」
まやかしというよりは、まぼろしのような時間でした。ビートくんはなんでもないかのように、がむしゃらに、だけど澄ました顔でジムリーダーとしての修行を重ねています。仕方がないのでわたしも何もなかったように過ごしています。だけど頭の中は大嵐です。
あの日のまぼろしを、周りに上手に伝えることは難しい。けれど確かに心を奪って、今もまどわされてしまっている。まぼろしのポケモンに会ってしまったら、こんな気持ちになるのではないでしょうか。
家の裏で手を繋いだこと。わたしとビートくんが交わしたものはそれだけに思えるけれど、実際はわからない部分がとても多いです。とても手を繋いだだけとまとめきることはできません。
わたしがどうしても、ビートくんの手のひらの熱を飲み込みきれない間、イエッサンは静かにわたしを見つめてくれました。何も言わないことを、まるで頷いてくれているようだと感じました。だけど自分にとって都合よく受け取っていいのかは、さらに迷いました。イエッサンは瞳のきらきらをただわたしに向けました。
澄ました顔をして、だけどがむしゃらにジムリーダーとしての修行をして、いつもより乱れて膨らんでいる髪の毛のビートくん。近づいて、まずわたしは冷たいみずのボトルを差し出しました。いつも白い顔が今は、赤い花の色です。きっと冷たいみずが必要なはずです。
ビートくんは無言で受け取って、のどを大きく揺らして、息継ぎなしでボトルの半分を飲んでしまいました。
「で、なんですか?」
あっという間に飲まれてしまったことに驚いているわたしへ、ビートくんが言いました。
「……ビートくん、バトルをしませんか?」
「………」
「勝った方が負けた方の言うことをなんでも聞くんです。どうです?」
もちろんわたしが100回に99回は負けてしまうであろうポケモンバトルです。イエッサンの眼差しがなければ、わたしはこんなことを言うつもりはありませんでした。
「何か望みがあるんですか? あるなら直接言えばいいのに」
「ええ?」
わたしがずっと飲み込んできたそれをビートくんは簡単に言いのけてしまいます。わたしだってずっとある程度のお願いなら、べつにいいよと言うつもりでいたのに、強引にバトルを挟んだのはビートくんの方でした。
わたしがちょっと仰け反ってしまったのを、不思議そうに見てくるビートくんの様子には、ますます力が抜けました。でもわたしがビートくんに勝てる見込みは100回に1回、あるかないかです。バトルをしなくても願っていいのなら、そちらの方が断然ありがたいのでした。
「じゃあ、わたしがビートくんに何を言ったのか、教えてくれない?」
なぜビートくんがわたしに言うことを聞かせたかったか。わたしの言った何を、ホンモノと信じていたいのか。わたしはビートくんをもっと知りたいのです。
「あなたはぼくのポケモンたちを褒めてくれた」
「そうだっけ?」
「忘れたんですか?」
「褒めた、とは思うよ。だってビートくんのポケモンは褒めるところ、いっぱいあるもの。だけど……」
「忘れたんですね」
「というか、そんなこと?」
「ほら、当然のことみたいに言う」
それこそ当然のことを、取り立てて言う意味がわからない。ビートくんの言い草はまるで、当然じゃないと言いたげです。
なぜ普通に感じたこと、思ったことを口にして、それは普通じゃないとつつかれてしまうのは、不本意なことでした。眉と眉を寄せていると、逆にビートくんは口端と口端を引き離しました。
「ぼくにとっては、ポケモンを褒められるのがあなたが想像しているよりずっとずっと大事なんですよ」
「な、なんで……?」
「ぼくはが信じたものは簡単に嘘になるけれど、ぼくのポケモンたちは嘘にならないですから」
「それこそなんで? どうして? ビートくんもすごいでしょ」
「多分、そうなんでしょうね」
ビートくんの弱気を口にするのは珍しいことです。
彼はいつも自分の強さを信じたいと願うように、自信に溢れた口ぶりをします。
「でも、バトルはしましょうか」
「え、これわたし負けたらまたビートくんの言うことを聞かなくちゃいけないの?」
「当たり前です」
この前も今日も多分明日でも、まっすぐをぼくの言うことを聞けと言ってもらっても良いのに。ビートくんはもうやる気でバトルコートがどこか空いていないかを探しています。
でも今のビートくんには、理由が必要なのでしょう。わたしに「嫌だ」と言われる心配をしたくない瞬間があるのでしょう。
なんでも言うことを聞く。大胆な言葉です。だけどビートくん相手なら、まあいいか。きっと小さな意地悪は言ってもものすごい意地悪は言わないだろうと信じていられるのは、わたしが彼のポケモンたちに触れ合ったことがあるからです。ビートくんのポケモンたちは、強いだけではありません。
その時ふと、わたしがビートくんに初めて出会った時にたしかに彼のポケモンについて話したことを思い出しました。
『このポケモンを育てたひとは、絶対に……』
絶対に、絶対に何と、わたしは言ったんだっけ?
『自分の中からたくさんの愛情を生み出せる……』
もう少しで自分の口から飛び出た音たちを記憶の底から引っ張り出せそうというとこまできました。けれどビートくんがボールを投げてしまいました。わたしも慌ててボールを投げ返して、イエッサンの瞳のきらきらに頷きを返しました。イエッサンもきっと、頷いていました。