「気をつけてください」
そう言われたけれど、ヤローさんから私に手渡されたのはりんごジャムの瓶である。瓶がガラス製ではあるものの、重さなんてそう大したものじゃない。なのに、ヤローさんは恐る恐る私の手にジャム瓶を下ろした。このひとは、やっぱり優しい。病気療養のためにターフタウンに引っ越してきたと伝えたとはいえ、知り合って数ヶ月の私をいつでも過剰なくらい心配してくれている。
波立つ気持ちを抑えながら、私は瓶の中身を覗き込んだ。
「綺麗、ですね」
思わずそんな言葉が漏れた。さいころ状に切られたりんごの粒が透き通って輝いている。絶対に美味しい。そうに違いない。瓶の中身へ、子供みたいに見惚れている私に、またヤローさんが笑顔を上から落としてくれる。
「さんがひとつひとつ丁寧に扱ってくれたからじゃあ」
「ヤローさんのジャムのレシピが良かったんですよ」
「それはここターフタウン伝統のレシピじゃからなあ、すごいのはターフタウンとこのレシピを引き継いで来た人たちじゃあ」
「そのレシピを完全再現できるヤローさんがすごいんです、それに教え方も優しくて上手でした」
「さんがおらんかったら作れんかった。飲み込みが良くて教えがいがあった」
「ヤローさんがいなかったら作れなかったです」
ばかみたいな褒め合いだ、だけどいつまでも続けられそうだ。ヤローさんと出会って数ヶ月だけれど、このひとはいつまでもそのままでいて欲しい素敵な部分で溢れている。
ヤローさんを褒めるのはいいのだけど、褒められるのはそろそろ暑くて参ってしまう。と思ったら、ヤローさんも困り果てた顔をしているので、そのままお互い無言になって、褒め合い合戦もそこで終わりになった。
ゆっくりと、顔の熱を冷ましながら私は手の中の瓶を角度を変えて見つめる。
数日前のことだった。形が良くないからと出荷用の箱から取り出されたとくせんりんごをジャムにするから手伝ってください。そうヤローさんに呼ばれた。私は張り切って家のキッチンでは使ってないエプロンまで引っ張り出して駆けつけると、ひたすらりんごを剥いて、切って、煮込んだ。それがおとといだ。
キッチンで、ヤローさんの横に立つ。それだけで楽しくて仕方がなかった。山ほどのりんごを鍋で煮込んで、体力を使い切った私をヤローさんは褒めちぎり、そして言ってくれた。
『このジャムを瓶に詰めたら、ぼくがさんの家まで届けます』
だから私は、今日という日が楽しみで仕方がなかった。ジャムを家に届けるためとはいえ、ヤローさんが私に会いにきてくれるのだ。
だけど今、私は宝物のように瓶の中身を眺めなら、密かに悲しくなっていた。
ヤローさんが訪ねて来てくれるのを、楽しみにしていた。だけど同時にばかな期待もしていたのだ。だって今日はバレンタインデー。ひょっとしたらヤローさんがカードをくれるのではないかと思っていたのだ。
もらえる見込みがあったわけじゃない。ヤローさんの優しさは、生来のもので、勘違いしてはいけないこともわかっていた。だけど、どうしても期待していた。夢を見ていた。も
しかしたらジャムと一緒にカードが添えられているんじゃないか。行き過ぎた想像が、何度も頭に浮かんで、それを否定することが、日々ヤローさんをどんどん好きになっていっている私には上手にできなかったのだ。
でもやっぱり、期待しすぎたようだった。
手の中にはジャム瓶。私はまだこのターフタウンにおいては来たばかりの新参者。ヤローさんにとっても、知り合ったばかりの、病弱なせいてちょっと心配になる近所の人。これ以上を求めるのは、身の程知らずだ。
「それじゃあ、ぼくはここで」
「はい、ありがとうございました。また何か、私にお手伝いできることがあれば声をかけてください」
「無理せんでください、さんをあまりコキ使ったら、折れてしまいそうで怖いからなあ」
「まさか。折れたりなんかしませんよ」
「でも、本当に気を使ったりせんでください。ぼくはさんが元気でいてくれたらそれでいいですから」
忙しい彼が、わざわざ来てくれたのだ。私は切なさを押し殺し、笑顔を形作ると、ヤローさんが確かに見えなくなるまで彼を見送った。
自分の家に戻ると、部屋のあたたかさに驚いた。家の外は自分が感じている以上に冷えていたらしい。まだ春は少し先らしい。ガラス製のジャム瓶を握りしめていた私の手も冷たくなっていた。
指先とすっかり冷えた頬をさすりながら、私は思案した。さてこのジャムをどうやって食べようか。大切に食べたいけれど、あっという間に食べきってしまうかもしれない。そう思わせるほど、瓶の中身は魅惑の蜜色をしている。
ふと、私の顔を上げさせたのは家の外の物音だった。家の外周をぐるりと回ろうとする、何者かの気配。ポケモンだろうかと思ってこっそり窓から覗いて、私は驚いた。さっき見送ったはずの麦わら帽の鍔が、窓を横切ったからだ。慌てて私はドアから飛び出した。
「ヤローさん?」
さっき見送ったはずの人が、そこには立っていた。
「あ、さん! す、すみません、ぼく、忘れ物しとったんです!」
「そうなんですか?」
「はい、でももう済んだので。ぼくは帰ります」
そのままヤローさんは大股で歩いて行ってしまった。さっき見送った時とはまるで違うスピードで遠のいていく彼を呆然を見送る。
けれど、彼の忘れ物とはなんだったのだろう。しかも私の家の外にしてしまった忘れ物とは。
答えは、ヤローさんが歩いて来た方へ向かえば、すぐに見つけることができた。
庭に面した、ささやかな我が家のテラスに増えている、朝は見なかったもの。小さな花束と封筒が、風で飛ばないように石で押さえてあった。
「……っ」
私はびゅうびゅうと二月の風が吹く中、座り込んだ。熱がどこからか絶え間無くやってくるので、寒いのは平気だった。むしろ辛いのは、寒いことではなくて、私の中に表現しようのない感情があることだ。そしてそれはまた育とうとしている。
凍える指先で封筒の形をさすると、涙が唇を伝って、心臓がぎりぎりと痛んだ。
欲しいなと夢を見ていたくせに、目の前にそれが形を持って現れると私は中を見ることもできなくなってしまった。そのまましばらく私はうずくまることしかできなかった。感情を受け止める術は、今はそれしかなかった。
だけどもう少しして、自分がこの熱に慣れることができたなら、その時は、私も伝えよう。彼の家を尋ねて、気持ちの一端を詰め込んだそれを、ヤローさんへ贈ろう。そんな春をきっと迎えにいこう。