ネズと私のオフが重なったのは、今月初めてではないだろうか。とはいえ偶然である。今日がバレンタインデーだから、お互いにわざわざ他の予定を跳ね除け顔を合わせた、というわけではない。私の恋人・ネズは、内包している愛情はたっぷりだが、あいにくとそんな甘ったるい人物ではないのであった。

 朝いつもよりやや遅く起きて、私は私で個人的にオフの日を満喫しようとしていたところ、ネズは普段着姿で私の家に突然来た。「おまえこれ好きでしたよね」とスーパーで売ってるブラウニーのパックをくれた。人の家に邪魔するということで、一応手土産のつもりらしい。かと思ったら今は背中をいつも以上に丸め、何か考え込みながら書いたりしている。おそらく何か、曲やら歌詞やらのアイデアをまとめているのだろう。

 眩しく晴れる窓辺に座って自分の精神の奥深くへと潜り込んでいくネズの背中は植物じみていた。ふと我が家のクスネがネズの近くに座ったかと思うとうたた寝を始めている。私が日々可愛がっているクスネなのに、彼女はネズにもすっかり懐いてしまっているようだ。
 そういえば付き合いたての時は、こうして我が家に現れて様々考え出した彼に話しかけるタイミングがわからず戸惑っていたっけ。でもどうしたらいいかわからないと不安をぶつけるとネズは言ってくれた。話しかけられるのがいやなら、ここにいねーです。おまえといて、何が起こってもいいって思えたからおれは気持ちを伝えたんです、って。

「へへ……」

 ひとり勝手に、にんまりしてしまった。急に笑い出す女は相応に不気味だったのだろう。ネズが顔をあげてこっちを見ていた。

「あ、ネズ、お昼はうちで食べてくんだよね?」
「頼んでいいですか?」
「いいよー、簡単なのしか作らないから」

 それだけ言えばネズは今日のランチもパスタになることを察した。茹でたスパゲッティに、それぞれ好きなパスタソースをかける。それだけである。だけどあまり食に執着のない彼が、今までこのスパゲッティとパスタソースのランチに注文をつけたことはない。

「あとさ」
「はい?」
「やっぱりネズは今年もバレンタインデーは何もしないんだよね?」

 ネズとの付き合いは季節を何度か数え、長いと呼べるものになってきた。だけど私は世間で行われるロマンチックなバレンタインデーを過ごしたことがない。
 これも彼に、付き合い始めて最初の頃にきっぱり言われたことである。おれはバレンタインデーは苦手です、なので期待は捨ててください、と。その言葉通り、私はネズからバレンタインのプレゼントや、カードなどをもらったことがない。ネズにアンコールがないように、彼に二言はなかった、というわけだ。
 私の今更な質問に、案の定、ネズはわずかに顔をしかめる。

「カード一枚で伝えられる気持ちなら世話ねーですよ」
「だよね」
「そんな世間と同じやり方で気持ちが治るなら、おれは歌なんて歌わない。あえて苦しいやり方なんて選んでない」

 帰ってきた言葉のひとつひとつ、その隅々にまでネズが行き渡っていて、私は幸せすら感じてしまった。ジムリーダーとしてのネズも、ミュージシャンとしてのネズも、そして私の目の前にいる姿でさえも。ネズという人は細部まで、他の何にも代えられないもので出来上がっているのだ。そんな生き方している人、この世界に何人もいない。
 でも優しいネズは「」と名を囁いて私を近くまで呼び寄せると、私の髪を撫でながら聴いてくれるのだ。

「……おまえはおれからのカードが欲しかったですか?」
「ううん、考えたこともないよ。ネズからじゃないなら、全部いらない」

 平凡な私がこんなことを胸を張って言えるのもネズのおかげだ。ネズが私に、ふと明日死んでしまってもいいと思えるくらいのたっぷりの愛を注いでくれるおかげ。

「私が好きなのはネズだから。ネズと一緒にいる事で起きる全部が好きなんだよ。ネズをバレンタインデーに合わせようなんて思ってない! ……あれ、これ恋人として100点満点の回答じゃない?」
「自分から言った時点で満点じゃなくなりましたよ」
「ええ? じゃあ言う前までは満点だったってこと!?」

 焦って問い詰めても、ネズはちょっと歪な彼らしい笑みを浮かべて、それ以上は答えてくれなかった。
 でも私もそくれいでやられるようなやわな女ではないのであった。今日はとっておきの反撃の切り札を私は持っているのだった。

「でもじゃあ、そっか?」
「……ん? なんです」
「このカードは、やっぱりネズ以外の誰かからだってことだ?」

 ポケットから取り出した赤いカードは、今朝、バラの花々たちと一緒に届けられたものだ。
 この通りネズと付き合って長いので、バレンタインに何かを贈られたは何年振りだろうか。一瞬、ネズからかと思ったけれど、ネズが急にスタンスを変えて贈ってくるはずが無いと思っていた。
 念のため彼自身に確認したら違うと言ってくれて、安心したくらいだ。

「はぁっ!!?」

 さすがボーカルなだけあってかなりの声量がびりりと耳を貫いた、と思ったらさらにおいうちをかけられる。

「どこのどいつからです!?」
「いや、私が知るわけないでしょ……。カードも当たり前だけど匿名だよ」
「……抜かしやがりますね」
「あ、妬いてくれてるんだ?」
「冗談でもおれを妬かせないでください」

 ネズという男はなぜこういう時に笑ってみせるのか。しかも眼をギラつかせる、不穏極まりない笑顔が出てくると思わなかった。
 余裕をなくした顔をネズがするので、私からも余裕が奪いさられる。

 私はやっぱり、彼の彼女になった時から、私はバレンタインデーのカードをもらえるはずのない女だった。悲しい響きじゃない。私はこのネズと一緒にいることで起こる全てを愛してるのだ。私は諸手を挙げて受け入れよう。
 文字通り私は両手を上げた。その勢いでネズ以外の誰かから届いたカードを手放せば、我が家の天井近くまでくるりと舞い上がる。直に地に落ちるであろうカードの行方を見届けることはしなかった。
 そんなことより私はもっとネズでいっぱいになりたい! 私はそのまま彼の、骨ばった腕の中に飛び込んた。