※シリーズ「フラットホワイトの憂鬱」の番外編になります



 バレンタインデーが近いことは知っていた。シーズンに合わせ、お店を飾り付けたのは先々週のことだ。赤いハートのカードを飾り、真っ赤なソースのチョコレートケーキを入荷した。ポスターを貼り替え、いつもと違うトッピングのチョコレートドリンクの販売も始まった。
 カップルがコーヒーを持ち帰りに来店したなら、二人の様子を伺いながらカップにハートを書くなどした。そして喜ぶお客さまの顔を見て、私は私なりにこのバレンタインデーという季節を楽しんでいたのだ。

 しかし、当日になって家に届いた花たちとカードには驚いてしまった。自分が貰う側だとは思っていなかったのもある。そしてまさか、複数のカードをもらうだなんて全く思っていなかったのだ。
 複数、と言っても三つの贈り物に三枚のバレンタインカードだ。世のモテる人々はこんなものじゃないだろう。けれど平凡に働いて暮らす一般市民に三枚のカードというのは、かなり、すごいことなのではないだろうか。

 いつの間にか私にもモテ期なるものが来ていた……?
 私は呆然と青い空を見た。

「うん、今日は良い天気だなぁ……。空があおい……」

 何気ない休日になると思われた一日は、こうして思わぬ幕開けを迎えたのだ。





 3つものプレゼントが家に届いた時点では、私はかなり平常心を失っていた。ひとりの人物が3回送ってくれた可能性も考えたけれど、3枚のカードはどれも違う文面、違うデザインで、送り主がそれぞれ違う性格を持っていることがわかる。
 自分に一生に二度しかないと言われるモテ期なるものが到来していたことに改めて驚いた。ただ淡々と働く日々だったというのに、いつの間に。

 でもどれだけ頭をひねっても、送り主に心当たりがないのだ。
 バレンタインデーのカードには送り主の名前は書かない。それが通例だ。世の女性陣は、名前の書かれていないカードが一体誰からか、想像を膨らませて恋のロマンに浸るらしいのだけれど、そのロマンの気配がない。私は自分に情熱的な愛を注いでくれる人の姿が思い浮かべることがどうしてもできないでいた。

 たくさんのカードをもらったのに、上手に幸せに浸れない。でもこのいたたまれなさ、やるせなさは身に覚えがあった。まさに私が抱えている恋の煩わしさと同じじゃないか。
 そんな考え事をしながら、家を出て、いつもの大型スーパーに出向いて、棚と棚の間をどこか心ここに在らずのまま歩いていたせいだろうか。

「よお」
「うっわぁあぁ!!」

 後ろから肩を叩いてきた気楽な声に、ねこだましを受けたポケモンたちに負けないレベルのリアクションをしてしまった。振り返るとそこに立っていたのは一応変装をしたキバナ。さっき私の肩を叩いた手は今彼の心臓に当てられている。

「おおおお驚かせるなよ……!」
「ここここっっちのセリフだよ……!」
「一体何考えてたんだよ、オマエ」
「あ〜……、あとで言えたら、言うよ。キバナは、どうしたの? 偶然だね」
「まあな! 店先で見かけたから追いかけてきてやった!」

 人を勝手に追いかけて来た報告をするだけなのに、キバナは随分なドヤ顔をするな。なんて思ったら、次に言われたセリフは私にとってかなり嬉しいものだった。

「重い荷物を手分けして持ってくれるポケモンもいないだろ」
「もしかして買い物を手伝ってくれるの……?」
「オレさま、珍しく暇しているんだなあ」
「え、嬉しい! ありがとう、ありがとう……!!」

 働いている身としてはたまの休日に日持ちする食材は買い貯めておきたいものだ。しかも我が家はちょうど、まめカンなどのストックが心もとなくなって来たところ。かなり嬉しい申し出だ。
 みんなの憧れのジムリーダーさまを荷物持ちに連れ歩くなんて、嫌な緊張も覚えるけれど、自分の生活のため、そこは見ないふりをすることにした。

 しかし。今日はバレンタインデー当日。恋人たちが一番盛り上がるのが今日で、そしてバレンタイン商品を売り切ろうとお店が張り切っているのも今日だ。商品を探しに店内を歩けば、そこかしこに赤いハートの風船が飾られ、バラの赤が目に飛び込んでくる。売り場にも心なしかあまいかおりが漂っているような気がする。
 この状況、もはやバレンタインの話題をしない方が不自然だ。これはやはり、キバナに言わなければならないだろうかと思っていると、キバナから先手を打たれてしまった。

「バレンタインだな」
「! そう、だね」
「なんかバレンタインらしいこと、あったか?」
「バレンタインらしいことかぁ……」

 私が迎えた今朝のことをキバナに話すのは気が重い。けれど腹をくくる。キバナに事実を伝える覚悟を、私は決めたのだ。

「うちにもお花とカードが届いたよ」
「そうか!」
「うん、驚いたなぁ。でも私も年齢的にはこういうことがあって良いんだよなって。感慨深いというか……」
「はぁ……?」

 なんだその泥のような目は。見なかったふりをしたくて、無理をしてキバナの数歩先を歩くも、視線が背中から離れることはない。

「だ、だってさ。三つも届くとは思わないでしょ」
「みっ、つ……」
「そうなんだよ……」

 キバナに呆然と驚かれるとやはり顔が赤くなるのを抑えきれない。自分でも柄じゃないとわかっている。
 私に何かが変わった自覚がない。だけど届いたカードの数は変わった。自分でも不思議で仕方がないのだ。

「相手に心当たりはあるのか?」
「まあ、うん……」
「!」

 このことも、キバナに話そうとすると気力がいるというか、相応の覚悟が必要だ。深く息を吐いてから、私はあの夜のことを思い返した。

「ダンデが、言ってたんだよね。私が誰かに気を持たせてるんだって」
「は!?」

 そこまで驚くことだろうか。まるで上から覆い被さられそうなキバナのオーバーなリアクションに、私は一瞬ひるんでしまった。

「誰だよ」
「し、知らないよ! 自分では気づいてないだろう、みたいなこともダンデから言われたの」

 あの夜のダンデは、意図して私を困らせようとしていた。私の無意識が、誰かを苦しめてると言外にも言われた気がして、彼の策略通りに私の意識のどこかに、その誰かは存在し続けている。

「時々、その人のことを考えるんだけど、さっぱり分からないんだよね。そもそも誰かが私を好きでいてくれてるというのが、信じられないし」
「……もし、そのカードの送り主が分かったら、どうするんだよ」
「もちろん、私を好きになってくれてありがとうと、ごめんなさいを伝えたいかな」

 ダンデの忠告を半信半疑で受け取って、私は疑いながらもその人のことを探してはいた。もし気づけたら、感謝と謝罪ををすることは、心に決めていた。誰かを好きになるという素敵な気持ちを私に向けてくれてありがとうを一番に伝え、そして、私はあなたが思うような人ではないということを伝えられたらいいなと常々考えていたのだ。

 ふと、気づくとずっと後ろをついて歩いて来てくれてたキバナが立ち止まっていた。気づかぬうちに置き去りにしてしまっていたキバナはどんよりと肩を落として、彼の頭頂部が私からも見えるくらいだ。

「ど、どうしたの」
「オレさま失恋気分……」
「なんで!?」
「オマエはカードの送り主が分かったらゴメンするって言うからだろうが」
「キバナに言ったんじゃないから!感情移入しすぎだよ!」

 ほとんど真下を見ていたキバナがのそりと顔を上げて、私を見る。
 その目に宿ったものが本物の切なさに濡れているように思えて、胸がどきりと鳴った。

 あまり、考えないようにしてきた事がある。キバナは恋を知っているのか、どうか。誰かをひどく好きになったことがあるか、どうかについてだ。
 付き合いは長いけれど私はキバナの恋愛事情については全く知らない。私たちはもう子供じゃない。キバナの魅力も、爽やかな少年のそれではない。成長するにつれ自然と私の気持ちが芽生えたように、キバナにも自然と生まれたものがあって然るべきだ。だけどその存在の有無についてだけは、私は確かめたことがなかった。

(キバナは今日、誰かにカードを送った?)

 項垂れる彼に対し、そんな問いが、喉のすぐ真下までせり上がってきている。
 もう誰かに会った? プレゼントを届けてきた? だから今日は私服なの? その帰り道だったりする? そんな品のない想像が、次から次へと浮かんでくる。
 でも聞いてこなかった答えが今、目の前でふたつの暗い光となって浮かんでいる。その失恋気分に浸る瞳には、彼の恋愛事情が滲み出ている、ように思えた。私の知らないキバナの恋愛事情が。

 あ、どうしよう。キバナの失恋気分が私にも伝染してきたようだ。喉が、ひとりでにきつくきつく、締まってきた。一度、息を飲み込んで、私は努めて明るい声を出した。

「っ、なんの心配をしてるの、もう! キバナのことだから失恋なんてないない、ありえない!」
「………」
「そうでしょ?」

 茶化したはずなのに、キバナはぽかんと口を開けている。

「なんでオマエが泣きそうになってんだ……」
「キバナの失恋気分がうつったんだよ……」
「ええ……」

 スーパーの店内は甘くきらめくバレンタインデーに染まっているのに。なんだこれは。お互いにもしも話で失恋気分に沈んでいるなんて、いつの間にかかなりおかしな状況になってしまった。

「私まで悲しくなるからさ、だからキバナが失恋するなんてあり得ない、って事にしといてよ」

 キバナはいまいち納得のいっていない顔をしている。

「キバナは失恋しない、絶対大好きな人と結ばれて、ハッピーエンド。ね?」
「そういうことにしておいてやるか」
「キバナが幸せそうだと私も嬉しいよ」
「……そういうのは別に望んでないんだがな」
「え、じゃあ私が先に恋人見つけて高笑いした方が……」
「それ以上言ったらどうなるか知らねえぞ」
「うわあ、こわいなぁ」

 キバナは失恋しない、その方が私も悲しくならない。とは言ったものの、でもキバナの恋が実った時、私が本当に笑えるわけではない。
 それが片思いの大原則だ。大団円なんて無い、存在しない。

 バレンタインデーとはもっと甘い一日のはずだ。でもしょっぱさが口の中に広がって来て、思わず苦笑いをしてしまう。けれど私は、すでに見知ったルールに今更落ち込んだり悲しんだりするような人間ではない。小さく息を吐いて、彼に笑いかける。

「キバナ、どれがいい?」
「……ん?」
「ガラルでは男性から女性に何かしら贈る日だけど、他の地方では女性から愛する男性にチョコレートを贈ったりするんだって」
……?」
「それに、お世話になった人にもチョコレートを贈ったりするらしいから。今日のお礼にどれか、好きなのを選んでよ」
「ああ、なるほどな……?」
「どれがいい?」
「オマエが選んでくれよ」
「いいの?」

 キバナが自分で、食べたいチョコレートを選べばいいと思ったのだけれど、彼はすでに待ちの姿勢だ。チョコレートの売り場は、店内で一番はなやいでいる。もともと女性に贈られるものなので、パッケージは女性向け。見ているだけで楽しくて、私も目移りしていたところだ。

「えっと、じゃあ……」

 キバナの言葉に甘え、チョコレート選びを楽しませてもらう。いくつかあるチョコレートボックスの中から私が選んだのは、カップルのフライゴンが描かれた可愛いパッケージのものだった。

「どう?」
「いいじゃねえか」

 フライゴンが描かれているおかげか、キバナの反応は上々だ。彼の笑顔を見れば、やっぱり私は幸せになれる。今日は良い日だった、なんて早くも決めつけてかかってしまうくらいだ。
 いつか私に、これ以上の甘い甘いバレンタインデーはやってくるんだろうか。でも私はキバナ以外の人間を好きにならないような気がする。未来のことはわからないとしても、今はキバナ以外考えられないような、そんな感覚に満ちているのだ。ならずっと、おばあちゃんになってもしょっぱいバレンタインデーが続くんだろう。
 でも仕方がない。私が好きなのは、かわいいチョコレートの箱に溶けるような笑顔を見せてくれる、この男だけなのだから。