「ダイゴさん、カナズミに数日滞在するらしいわよ」
同い年で同じカナズミ育ちの親友、ツツジちゃんは、そういえば、と前置きした上で時限爆弾みたいなそれを投げかけてきた。
二人で真面目に勉強会をしていたはずだったのに。私は持っていたペンの頭を思わず眉間にグリグリ押し付けた。
「あのさ……」
ダイゴさんとツツジちゃんはポケモントレーナー同士であり同時に石好きとして通じ合う”石友”らしい。石友は、顔をあわせるたびに石について語り合うとのこと。それは別に良いのだ。同じ趣味同士、つながりがあるのはいいことだと思う。だけど、ダイゴさんの近況をツツジちゃんが私にこまめに教えてくれるのは、ちょっとわからない。
……ほんと、なんでそれを私に言うのかな。がっくし肩を落として、隠さず重たいため息を吐くも、ツツジちゃんは白々しく目を細める。
「だってあなた、好きでしょう。ダイゴさんのこと」
「好きだったけどー……。それ、ちっちゃい頃の話だからね」
私が幼かった頃、まだダイゴさんがカナズミで生活する、近所のお兄ちゃんだった頃の話だ。確かに私は彼に初恋をしていた。
ダイゴさんに初恋をしてしまった理由は多々ある。ダイゴさんは基本的に人当たりがいい男の子だったので、私にも分け隔てなく優しくしてくれた。好きこそ物の上手なれで、ダイゴくんは石やポケモンについての知識が豊富で、物知りな彼の話を聞くのが楽しかった。それにちょっとしたしぐさ、言葉遣いが他のやんちゃな虫取り少年とかとは全然違って素敵だったし、幼い私には少し年上のダイゴさんが、とにかくかっこよくて、王子様のように見えたのだ。
あの頃はダイゴさん、じゃなくて”ダイゴくん”なんて呼んでたっけ。ダイゴくんに手を振り返してもらえるだけで嬉しくて、いつも気をひきたくて必死だった。道端で詰んだ花で作ったブーケなんかの、精一杯の贈り物をいつもしていた。バレンタインのチョコなんかも渡したりしていたな。
探せばどの街にも転がってそうな私の初恋は、これまた平凡な形で終わりを告げる。
成長するに従って私は”ダイゴくん”が違う視点の高さで物事を見て、違う世界で生きていることに気がつかされたのだ。それに幼い私の視界では、ダイゴくんの存在は大きく、景色のほとんどを占めていた。だけどダイゴくんは、他にもたくさんの物事を見つめなければならない。トレーナーとして、大会社の社長の息子として、たった一人の自分として。そういった重たい物事に比べて、私は近所の年下の女の子。ダイゴさんが見据える世界を広い海原に例えるとしたら、私はその足元で波にさらわれていく貝殻みたいなものだ。
憧れでは追いつけない。だって、世界が違うのだから。ダイゴくんが私の歩く先、延長線上に立つひとではなくて、段差違いの世界にいると知った時、私の初恋は力をなくして、ほろほろとほどけてしまったのだった。
「じゃあ今は違うとおっしゃるの?」
「はいそうです」
「……本当に?」
「そうなんです!」
改めて否定しても、ツツジちゃんは意味深な視線を送ってくる。
「あーっ。ツツジちゃんがまだその話続けるんなら、私、帰ろっかなぁー」
「帰っていいんですの? 最後の文章問題、詰まってるんでしょう?」
「うっ」
苦手な科目の重めの長文問題。回答は200字程度で答えよとの指定がある。200字って結構長い。成績優秀のツツジちゃんに手伝ってもらわないと、終わらせることもできなさそうだ。
「もうちょっとでとりあえず書けるので! チェックお願いしマス……」
「ええ、待っていますので。頑張ってくださいね」
やっぱりツツジちゃんは幼馴染。私の扱いを知りすぎている。彼女の目論見通り手のひらを返した私に、ツツジちゃんは楽しげに、でも優しく目を細めたのだった。
重たくなった頭と、どうにか提出できるレベルになった課題を抱え、家に帰る。
夕暮れを迎えるカナズミシティ。キャモメたちが寝床へと飛び、街の建物はそれぞれの窓に明かりを灯していく。ひとつ、またひとつ。部屋にいた各々が、夜に気づいたタイミングで窓が点灯する。そんな窓の群れにしんみりと見入ってしまうのは、ツツジちゃんのせいだ。彼女が、私の初恋を思い起こさせたから。
私は海の方角を見た。カナズミの街の北西、海辺を背にして建つあのビルがデボンコーポレーションだ。ダイゴさんが本当にカナズミに滞在してるとすれば、きっとその場所はデボン本社だ。
民家とは対照的に、ポツポツと明かりが消えゆく格式高いビル。近所のお兄ちゃんだった”ダイゴくん”は、あの大会社の副社長だ。
大きくて綺麗で、遠いビルを眺めると、今だに切ない気持ちがやってくる。
ダイゴくんのことが好きだった。その気持ちはもうほどけた。目で見えないほど細く引き伸ばされて、糸のようになった。その糸はちょっとした出来事に舞い上がっては私が見る景色の中にほんのかすかな切れ目を入れて、私の気持ちをここじゃない場所へと連れて行く。
「こんばんは」
夕暮れのビルを見上げ、感傷に浸っていたところだった。夜風のようなごく柔らかな声だったので、私も流れるように振り返った。だから、驚いたのは声の主を見つけてからだ。
最初に目に飛び込んで来たのは、控えめな光沢を放つ、スーツとベストの胸元だった。左胸には白銀のピンが差してあり、トップに置かれた石にも目を奪われた。夜のわずかな光を集めて光っている。それはダイゴくんの持つ目や、髪の色も同じだった。
「久しぶり、ちゃん」
「ぁ……」
「元気そうだね」
私は思わず会釈をした。ツツジちゃんの前ではあんなにふてぶてしく振舞っていたくせに、実際ダイゴさんを目の前にすると、ちっちゃくなって固まってしまう。
うわ、本当にいる。ツツジちゃんを疑っていたわけじゃないのだけど、本当にダイゴさんがカナズミにいて、そして会えるとは思っていなかった。さっきまで自分の初恋を思い出していたせいだろう、私はダイゴさんの顔が見られず足元に視線を逃した。
「ああ、まだ頑張ってるみたいだね」
ダイゴくんは隣に立つと、私がさっきまで視線を注いでいたビルを同じく見上げた。
「会社のみんなにも帰るように声をかけたんだけどね、開発がいいところまで進んでいてやめるにやめられないらしいんだ」
「へ、え、そうなんだ……」
「すごく楽しそうにしてたけど、ボクは別の大事な用事があったからね」
ダイゴさんはビルから目を外すと、今度は隣に並んだ私を見下ろした。不意にその視線の角度が記憶と重なる。ダイゴさんも私も大きくなったけれど、身長差は案外変わっていないようだ。
「今日はホワイトデーだね」
「あー、そう、でしたっけ?」
「昔はバレンタインデーになると必ず、ちゃんが真っ赤な顔をしてボクに会いに来てくれたよね」
「ち、ちっちゃい頃の話です!」
今となっては恥ずかしい記憶を急に思い起こされ、一気に余裕を持っていかれる。
ツツジちゃんだけじゃなくてまさかダイゴさんまで私の幼い頃の話を持ち出してくるなんて。もしかしてこれ、ホワイトデーのたびに二人に掘り返されるんだろうか。絶望しかかったが、ダイゴさんの声色はちょっぴり意地悪だったツツジちゃんのそれとは違っていた。
「そうだね、昔のことだ。今更な話だよね。でも、ボクは……」
ダイゴさんは少し眉毛を歪めてから、胸元から小さな箱を取り出した。
「これをちゃんにあげたくて!」
「私に、ですか……?」
頷いて、笑顔を輝かせてくるダイゴさん。私がそっと手のひらを差し出すと、その小箱が手渡された。
透明なケースの中身を見て、思わず吹き出してしまった。石だ。ケースの中、小さな石が白い綿のクッションにつつまれながらちょこんと座っている。
そういえば昔、ダイゴくんからも石をもらったな。子供の目から見ても綺麗な石たちだったので、純粋に嬉しかったっけ。
「ダイゴさんってば……、今もこうやって石を誰かにあげてるの?」
変わっていない彼からのプレゼントに笑いをこらえながら言うと、ダイゴさんは少しだけ拗ねたような表情をする。
「誰にでもじゃないよ、ボクが気に入ったひとにだけ」
「うんうん、そうだったよね」
「……ちゃん?」
「ダイゴさんらしいなって思って、ご、ごめんなさ……、っふふ」
「ボクが自分の気持ちを表そうと思ったら、やっぱりこれしかなかったよ」
「この石が、ダイゴさんの気持ち……?」
「うん」
笑いをこらえていたせいで滲んでいた涙をぬぐいつつ、改めてダイゴさんがくれた石を見つめる。私は石について詳しいことはわからない。この石が何からできているのか、どれくらいの時を重ねたのか、なんと呼ばれる石なのか、どこから来たのか。なんにもわからないけれど、ただ綺麗だ、ということだけ感じる。
「バレンタインデーも、そうじゃない日も。ボクの中でずっと輝き続けるような、気持ちをボクにくれてありがとう」
「ダイゴさん……」
「ちゃんにとっては小さい頃のことなんだろうね。けど、受け取ったボクにとっては違うものだった。少なくとも、今日も忘れられてない」
「えっと……なんていうか……その……」
「うん」
「受け取って、もらえてたんだ……」
素直な感想がそれだった。
ダイゴくんが見てる段差違いの世界に気づき、自分の幼さでは到底たどり着けないことを思い知った。私が送り続けていた想いは取るに足らないものだったのだ。その想いが初恋に、最初のひびを入れた。
あれから何年経ったんだろう。予想外の事実に私は唖然としていると、ダイゴくんはまた困ったように笑い出す。
「本当に気づいてなかったんだね、ボクから態度を変えたことは一度もなかったんだけどな」
「ええっ!?」
「ちゃんはどんどん成長していったけど、ボクはずっとボクのままだよ」
「そっ、かぁ……」
ダイゴさんの言うことがすとんと胸に飛び込んできた。確かに、私は歳を重ねていくうちにダイゴくんをただの男の子として見られなくなった。成長して、変わったのは私の方だ。
ダイゴくんはダイゴくんのまま。だけど、私が彼を見る角度を変えたことで、別の一面を見つけては感情を揺らしていた。
「多分ちゃんはボクの気持ちに気づいてないんじゃないかと思ったんだ。だから今日、ボクはちゃんに会いに来たんだよ」
もう一度、ケースの中に大切に守られている石を見て、それからダイゴさんを見た。
近所のお兄ちゃんだったダイゴくんと、ホウエンの景色に飛び込んでいったダイゴさん。私のことを見ていてくれる、だけど断絶していたふたつの形。それぞれが、黄昏の光の中で重なり合う。ぴったりと、ひとつに。
「あの」
「うん」
「すっごく、嬉しい、です……」
「喜んでもらえてよかったよ!」
そう不器用に伝えると、ダイゴさんは笑顔を弾けさせた。私はそれをもじもじしながら受け止めた。
急に昔の恋を思い出したのだ。ない、と思い込んでいたものが急に形を帯びてきたのだから、様々な気持ちが私の中で渦巻いている。それでも一番に手に取れる感情は、やっぱり”嬉しい”だ。だけどもその先、どう進めば良いのかわからない。迷い子のようにダイゴさんからの石を握りしめて、ただ妙に早く脈打つ心臓に体温をあげていると、ダイゴさんはくすぐったそうに笑って私を呼ぶ。
「ちゃん。ボクもまた会いたくなったらちゃんに会いにいく。だから、ちゃんも会いたいときにボクに会いにおいで」
「はい」
「約束だよ?」
約束。成長した私にとっては頼りない響きをしている。だけどダイゴさんはそんな頼りないものを持ち出してきてまで願ってくれた。会いに来て欲しい、と。大人の顔の中に、ちらりと少年の顔がちらつく。
針先を時間をかけて押し込めたような、そんな鋭い痛みが胸に走った。恥ずかしさ、苛立たしさ、切なさ、やるせなさ。初恋の気配を感じるたびに明滅していたシグナル。その全てを射止めて、痛みが言っていた。私はまだ、ダイゴさんが好き。