私がワタルさんにバレンタインデーのチョコレートを渡したのは、そんなに不自然なことではなかったと思う。ワタルさんには常日頃からお世話になっている。ワタルさんというすごい人物と平凡な私をつなぐのは、紛れもなく間にミニリュウという存在があるおかげだ。トレーナーでもない私が怪我をしたはぐれミニリュウを助けたところ、随分懐かれて、今も一緒に暮らしているのがドラゴンつかいとして気にかかるのだろう。ワタルさんは忙しい身だと思うのに、体調はどうかとかミニリュウとの仲はどうだとか、細やかに声や気遣いをかけてくれている。
 だからバレンタインが近づいてきたある日、不意に思い立ってミニリュウに声をかけた。

『たまにはワタルさんへのありがとうを形にしてみよっか』

 ミニリュウも喜んで同意してくれた。私はどうってことない、でも失敗知らずのチョコレートクッキーを焼いた。ミニリュウはどこからか拾ってきたちいさな綺麗な石を渡してくれたので、その二つを一緒にして、2月14日にワタルさんに渡したのだった。
 ミニリュウからの可愛すぎるプレゼントのおかげで、ほっこりとしたバレンタインデーを過ごせた。ワタルさんの照れ笑いの表情も拝めて、私も大満足だった。
 満足してたが故だろう。ワタルさんからの提案にはすぐに頭が追いついてこなかった。失礼にも、え?と聞きかえすとワタルさんはからりと笑う。私の反応を予想していたかのようだった。

「つまり、バレンタインデーにもらったプレゼントのお返しがしたいんだ」
「そのお返しにワタルさんのカイリューに乗せて、どこか好きな場所に連れていってくれるってこと、ですか……?」

 先ほどワタルさんが言ってくれたこと。おうむがえしのようになぞれば、ワタルははっきりと頷いた。

「あんなに素敵なものをもらったら、おれもお菓子だなんだで済ますことができなくてね。ただ申し訳ないけど、半日程度しか時間はとれないんだ。その分ポケモンの力を借りて、きみたちの行きたいところにひとっ飛びするのはどうかと考えてね」
「なるほど。……なるほど?」

 さらりとワタルさんは言ってのけるが、やっぱり私は状況を飲み込むのに戸惑っている。
 なんだかすごいお誘いを受けてる気がする。ミニリュウからの贈り物はまだしも、私のクッキーは凝ったお菓子でもなんでもなかったのに。いいんだろうか、と躊躇している間もワタルさんはすっかりその気になっているようでぐいぐい話が進んでいく。

ちゃんはどこに興味があるんだい? カントー地方かジョウト地方の中ならどこにでも行けるよ」
「ええっ、そんな。どこでも、ってすごいですね。さすがポケモン」
「おれのおすすめはエンジュかな。今の時期は雪が積もって一段と美しいよ」
「わぁ、雪化粧をしたエンジュシティかぁ……。絶対素敵ですね!」

 冬のエンジュは素敵だろう。けど、私はまだ気楽に頷けないでいる。

「つまりカイリューたちの手を借りて、短い短い日帰り旅行をする、みたいな感じでしょうか」
「そうか、旅行か。なるほど。おれにしたら遠出じゃないが、きみたちにしてみたら」
「十分遠出ですよ!」

 ワタルさんはまるで隣駅に行くみたいな気軽さで話を進めていく。だけどもし私がエンジュに行こうと思ったらリニアのチケットを予約して、その他交通機関のことも調べて時刻表も確認して、近くで食事がとれる場所があるかも調べて……。例え日帰りでも、準備が山ほどある。その手間が旅の楽しみを膨らませてくれることもあるので嫌いではないのだけど、とにかく、ただのお出かけとは同列に語れない。だけど、ワタルさんにとっては世界は違う。
 私は胸の中ですっかり熱くなった息を吐いた。

「やっぱりポケモントレーナーって、すごいですね。価値観が違う、というか……」
「そうだな!」
「同意しちゃうんですね」
「前に、きみが言っただろ。ポケモンの背中から見る景色はポケモントレーナーの特権だ、って」
「わー……。私そんな恥ずかしいこと言ってましたっけ、いや言ったかも……」

 不意打ちで過去の発言を持ち出されて、顔が熱くなる。でも確かに私の発言だ。その時もカイリューに乗って颯爽と現れたワタルさんが「空からきみが見えたよ」と何気なく言うのが痺れるほどかっこよくて、思わず熱く語ってしまったのだ。

「どこも恥ずかしくないさ。それを聞いた時、おれは新しい風を吹き込んでもらった気分だったよ。ポケモンたちと暮らすことは当たり前の日常だ。けど、ちゃんとポケモンたちに向き合っていなければ過ごすこともなかった日常なんだ。空を飛んだ時だけじゃない、ポケモンたちの背中越しに捉えるバトルもおれにしか見えない景色だって気づかされたよ」

 まっすぐすぎて他の人じゃ口にできないことを、まっすぐに言えてしまう。ワタルさんらしい眩しい心の動きに私は目を細めた。そして、私もそっと口にして見る。

「ポケモントレーナーの特権なのに、私が体験しちゃっていいんでしょうか……」
「ああ、未来を少し先取りするだけさ!」

 曇り知らずのワタルさんの言葉で私もようやく決心できた。行こう。ミニリュウも一緒にカイリューの背中に乗って、未来の景色を一足先に覗き見しよう、と。



 決心してしまえば私のやる気は一気に高まった。
 ぜひ素敵な1日にしたい。そう思った私は、ワタルさんと一緒にホワイトデーのプランについてとことん話し合った。

 行き先ははやりエンジュシティに決まった。いかりのみずうみに、アサギの灯台、海を渡ってうずまき島を見にいくのも良いという案も出た。ジョウトだけじゃなくクチバの港を見にいくだとか、ヤマブキで買い物という案もあった。けれど、やっぱり私たちが空を飛ぶことに不慣れを考慮し、遠すぎないエンジュに決まった。
 予定はシンプルに。雪の積もったスズの塔を空から眺めて、街で昼食をとって、お土産をちょっぴり買って帰る、というプランだ。

 空を飛ぶときの注意点もワタルさんによく聞いて、防寒具を買い足したりした。
 ミニリュウは私の両肩にてぬぐいのように乗っかっていることが多い。私と移動する時はほとんど私の方のひっかかっているのだが、空の上では不安定で危ない。ワタルさんと共にミニリュウにも空を見せる方法を模索した結果、リュックサックをひとつ買い足してそこにミニリュウに入ってもらうことにした。ミニリュウが背中側だと私がミニリュウに十分な注意を払えない可能性を考え、おなか側にリュックを持ってくることも決めた。
 リュックの中を居心地の良い場所と思ってもらうため、ミニリュウには1日に何度か実際にリュックの中に入ってもらう”慣らし”も行うなど、私とワタルさんは細やかな準備を協力し、話し合って進めていった。

「ついに明日かぁ……」

 すぐ近くに小さな冒険が待ち構えているということは、ミニリュウも感づいているらしい。いつもよりそわそわとしていて、落ち着かない様子だ。寝床と私の横を行ったり来たりしている。そういう私も実は落ち着かない気持ちで、荷物の確認などをしている。明日着る服ももう決めてある。

 こんなにわくわくが高まるホワイトデー前夜があっただろうか。
 体調のためにも早めに寝なければならない。けど、電気を消して横になっても体がうずうずしているのがわかる。強制的に目を閉じても、今度はまぶたの裏に蘇ってくるものがある。それはワタルさんの声であり、ワタルさんの体の先であり、ワタルさんの様々な表情だった。
 私は暗い天井に向かってため息を吐いた。布団の下で、自分の心臓が騒々しく鳴っているのを感じる。そっとミニリュウが寝床を見ると、あの子はちゃんと眠りにつけたようだった。どきどきとした高揚感が続いているのは私だけらしい。

「はぁ……」

 何度目をつぶっても、気づけばまぶたは上がって、瞳は暗闇の中にあの人の思い浮かべている。こんなんじゃ眠れやしない、という思いが強くなって、私は静かに起き上がった。





「どうしたんだい? もしかして、今日が楽しみで眠れなかった、とかかい?」

 ワタルさんが朝の挨拶をして、次にそう言い出すのも無理はなかった。なんとかごまかそうと思ったけれど、一睡もできなかった私の顔はひどいものになっていた。前日の方が元気だったまである。
 ワタルさんは柔らかく息を吐いて、私に視線を合わせてくる。

「体調はどうだい?」
「大丈夫です、問題ありません」
「なら、もしきみに何か心配事があるなら飛び立つ前に聞かせてもらえるかい?」

 昨晩、夜闇の中に何度も思い浮かべていたワタルさんが、私のことを思って眉を下げている。今だにすっきりと動き出さない頭を、私は左右に振った。

「不安とかじゃ、ないです。眠れなかったのは……、わくわくしてたからですよ。今日までの準備をワタルさんと一緒に進めるのが、すごくすごく楽しくって……」

 本番である小旅行はこれからだ。だけど今日までの日々は、まだ始まっていない旅行に負けず劣らず輝いていた。想像力を膨らませて、膨らませたものを今度は二人ですり合わせ合って。懸念事項に対しては二人でアイデアを出し合って決める。そして楽しみだね、と微笑み合う。
 今までは私がワタルさんに気遣われてばかりだった。だけど事前準備の日々は、二人で考え、二人でひとつずつ進めた、言って見れば共同作業だった。

 贅沢な時間だった。そう思うと同時に、私は苦しくなった。

 エンジュに行くことを楽しみに、日々準備を進めていたはずだ。けれど、始まってしまったら今日までの時間が終わってしまうことに気が付いた。
 まだ始まっていない明日の終わりを思って苦しくなっているなんてバカだ。けれど昨晩私を眠らせてくれなかったのは、期待であり、興奮であり、恐怖だった。終わりが目前に迫っている。そう思えば募る胸の痛み。こらえて闇を睨みつければ、眼前で花火のように閃いてやがて散ったのはワタルさんの笑顔だった。

「……ワタルさんが、好きです」

 そんな単純な言い方でも、私が燻らせてる想いがどういったものかはちゃんと伝わったようだった。
 ぽかん。大きな口がまあるく開いていて、そんな音がつきそうな表情だった。そんなに可愛いワタルさんを初めて見た。ここ数日間、ワタルさんといつも以上に濃密な時間を過ごしてきた。だけどここにきて見られた新しいワタルさんの表情が、私の胸をさらに苦しくさせる。そういうのが、もっと見たいんだと思ってしまう。

ちゃん……」
「はい」
「それを今言うのかい?」

 確かに。これから二人で出かけるって時に言うことじゃない。
 ワタルさんの言葉でようやく、私は自分が後先を全く考えていなかったことに気づかされた。
 私の吐き出した気持ちが、今日という1日を台無しにするかもしれない。考えればすぐわかることなのに、計算することさえ忘れていた。二人で時間を見つけては話し合ってきたのは、ひたすらに今日のためだったのに。

 ふ、と柔らかい息がうつむいていた私に聞こえた。

「きみは、何度でもおれの先を行くね」

 顔を上げた先にあったワタルさんの表情は一見すると、困っているようだ。だけどそうじゃないと囁きかけるのも、積み重ねた今日までの時間だった。
 確かに眉毛は下がっている、その眉につられて目元も微かに歪んでいる。だけどワタルさんの瞳の奥底には今日までと変わらない暖かさが燃えている。

「さ、出発しよう。おれもカイリューも準備はできてるよ」

 準備万端のカイリューの元へ私を手招くワタルさん。寝不足のせいもあるようで大げさに感情が揺れてしまう。ちょっとだけだけど、うるっと来てしまった。

 今、一番に感じるのは安心だ。昨日までの日々が終わらない。新しい季節を見せ付けながらも、続いていくんだ。
 いろんな感情がごちゃまぜになっている。バレンタインデーにチョコレートクッキーを渡した時には自覚も存在もなかった気持ちは予想外に大きくて、抱えきれていない。それゆえに動けずにいる私を、ワタルさんは笑った。

「ここで帰るとか言わないでくれよ? おれも、今日までのきみに応えたいと思って今日を待っていたんだ」

 最初はいたずらっぽい笑顔だったのに、ワタルさんは後から声も笑顔も深めてまっすぐに嬉しいことを伝えてくれた。
 こんなワタルさんとの日々がまだまだ続くなんて、私、たえきれるのかな。今頃そんな新しい不安が生まれてしまった。だけどいっそ憎いくらい大好きになってしまったワタルさんが待っているのならば、飛び込むしかない。戸惑っていた分、全てを振り切るように私はワタルさんの元へと走り出した。