※もちろん百合
※もちろん夢主→オリーヴです。ちょっとは救われる
ある日、オリーヴの白衣を変えてあげた。完全なるお節介だった。
汚れた時にいつでも着替えられるように一式揃えていた予備の中から、白衣を取り出し押し付けたのだ。
オリーヴは、研究所の大多数に人間とって、よくいる”変わり者”であった。頭の良さは当然として、興味の持てるもの以外は全て投げ打って没頭する凄まじい集中力。反対に関心が持てないものへの冷たさは両極端だった。
おとなしい彼女へ親切心で話しかける連中もいたが、いい加減な知識で関わろうとするとマシンガントークのすえ、少しでも戸惑うそぶりを見せれば「オリーヴ、キレそう」とぼそりと言われてしまう。その声色、それに分厚いメガネの下の目は凍てつく容赦のない冷たさだ。なので、現在は放って置かれていることの方が多いのが彼女・オリーヴである。
なぜそんな腫れ物扱いされている変人相手に、人間関係をそこそこにこなせる私が、お節介を起こしたのか。彼女がひとつ年下だったので、先輩風を吹かせたというのもある。私自身、潔癖症の気配があったので、手入れの怠ったオリーヴの端々が気に障っていたというのもあった。
でも、結局のところ、私がオリーヴに関心を持っていたから。それが最たる理由だった。ずっと、白衣くらい変えなさいよ、と心内で悪態をついていた。彼女は私にとって、なんだか放っておけない同僚であった。
オリーヴと私は女性同士で背丈も体型も同じようなものだったので、問題なく着替えることができた。
オリーヴ自身は真新しい白衣を最初は物珍しそうに見ていた。けれど興味の対象ではなかったのだろう。お礼もそこそこにまたモニターに向かってしまった。迷惑そうにも申し訳なさそうにもされない、あっさりとした対応だった。
袖が黒かったり、コーヒーの染みが残っていて、一体いつ洗ったのかわからない白衣を彼女から引き取った時。私の胸は、人に親切にしてやったという自己満足以上の何か、すっきりとしたものがあったのを覚えている。
「また、お願いしていいですか」
風のような声だった。ぼそぼそっと早口で呟かれたのもあって、最初は何を言われているのかいまちち分からなかった。けれど目の前に差し出された、オリーヴの白衣を見て、また白衣を洗って欲しいとの依頼であることをかろうじて掴んだ。
オリーヴの白衣をわが家で洗い、アイロンまでかけて返したのはもう先月のこと。気まぐれからのやりとりは、てっきり終わったものだと思っていた。私が戸惑っている間も、オリーヴは白衣を取り下げる様子がない。
「え、本気……?」
「………」
のりを効かせたアイロンが良かったのかな、それとも単純に便利に思われたのか。でも清潔な白衣を着たいと思ってくれたのは、私にとっては喜ばしい出来事だった。なにせ職場の不潔要因が減るのだから。
「しょうがないなぁ」
本心をそんな言葉で隠して、白衣を受け取る。その日をきっかけに、私はオリーヴの面倒を見ることが増えた。
大したことはしていない。白衣を洗うこと以外は、飲み終わったカップを回収してあげたり、ゴミを出してあげたり。
いつの間にか研究所に現れ、彼女に懐いたヤブクロンにも悪態をつきながら付き合ってあげた。潔癖症にしては頑張ったものだ。
最初はオリーヴもなんとか私の白衣を洗って、なんとなく畳まれた状態で帰って来たりしていたのだけれど、途中から全く畳まれなくなった。
洗濯待ちの白衣はぐしゃぐしゃに袋に詰め込まれて渡される。これがオリーヴの気取らない姿なのだろう。デスク周りも資料やら何やらで散らかりがちの彼女だ。なんとなく、家の様子まで思い浮かぶ。
私はまんざらではなかった。むしろ気を許してもらえたんだろうかと前向きに捉えていた。そういう勘違いを積極的に起こすくらいには、私は彼女のことが好きだったのだ。
お節介を焼く日々は、彼女が研究所を出て行く時まで続いた。
シュートシティの青空を行く飛行船。その白いお腹に、大会のハイライトが映し出されている。チャンピオンのリザードン、トップジムリーダーのジュラルドン。どっちも生では見たことないな、と考えているうちに挟まる、マクロコスモス社の企業広告。
最新CGで踊る、マクロコスモス社の企業ロゴ。あれが、あんな大企業が自分の勤め先になるかもしれないだなんて、いまだに実感がわかない。
先週。一通のメールで、私はいわゆるヘッドハンティングを受けた。
マクロコスモス側が提示した待遇は良いものだった。企業のためではあるものの、ダイマックス、あるいはキョダイマックスの研究をさらに良い環境、強い資金力の元で続けられるのだ。ねがいのかたまり保有量もダントツのマクロコスモスなら、研究中に扱える数も格段に増えるだろう。もちろん報酬もいい。
だから私のマクロコスモス社への転職は真っ当というか、普通というか妥当というか。メリットを感じるから仕事場を移すというだけの他意のないものだった。
美味しすぎる話を、逆に迷わせたのは、メールの差出人だ。肩書きを変えたオリーヴの名だった。
本当に彼女からなのか。名前を貸しただけかは文面から分からなかった。でも確かにオリーヴの名でもらった打診のメール。私の方が先輩だったのに。彼女が雇用者側として話をしてくるのにも一言、二言、ぶつけてやりたい衝動がわいた。それでも理性で了承の返事をし、今日が顔合わせだった。
空を行く飛行船を見送る。小さく、遠くなっていく。
顔合わせの相手はオリーヴではなかった。採用担当だというマクロコスモス社員と、研究業務に携わる部署の人が出てきたばかりだった。私は滑稽なことに、オリーヴに会えなかったことに気落ちしているのだ。
私とオリーヴの間にはいつも淡い関わりしかないのに、それらは今日も最大限に私を振り回している。
「さん」
名前を呼ばれて振り返った。同時に今の声は彼女だと、理解していた。でも立っていた彼女が、あまりに私の知るオリーヴとかけ離れていて自分の目を疑った。
「オリー、ヴ?」
「はい」
身長もそう変わらなかった。なのに今は高いヒールが彼女を美しく、私より強い生き物であるかのように見せている。俯いてばかりだった目が、今私を見下ろしていた。
「本当にオリーヴなんだよね?」
「ええ。以前はお世話になりました」
「び、びっくりした。なんでここに?」
かろうじてそう聞くとオリーヴはぴくりと、眉を顰めた。
面影があるような、ないような彼女。でも眉を顰めるわずかな仕草には見覚えがあった。
「顔合わせに行けずにすみませんでした」
「いいんじゃない。新規雇用者面接なんて、そんなに重要な仕事でもないでしょ」
「メールを差し上げたのはわたくしです」
「それは、読んだけど……」
オリーヴは変わった。変わった部分の方が多いくらいだった。肌の状態も、髪の艶も、身にまとう色も、その服の素材も。ハイライトの乗った鼻筋に、メガネの跡はない。カサついた頬は、今では血の気を消すように粉が乗っている。背筋も変わって高いヒールと一本の線のように伸びていて、話し方も変わったせいか、赤いリップの狭間から漏れ出る声さえも変わってしまったかのような錯覚を覚える。
撫でたかった頭。今はその髪に指を通してみたくなる艶が加わっている。目の前の彼女にオリーヴを見出すと同時に、オリーヴではなくなったものが主張してくるのだから、混乱が止まってくれない。
「もんのすごい他人行儀のビジネスメールだったから、私の名前も忘れて出してきたのかと思った」
「わたくし、そんな薄情じゃありません。白衣を、何度も取り替えてもらいました。洗い立てのものに」
「ああ。サイズ、一緒だったからね」
我ながら、ズレたことを言った。先輩と後輩は、サイズが一緒だったからという理由で白衣を取り替えたりしない。論として成り立ってない。
「まあ名前なんて、忘れられててもよかったんだけどね! 貴女からのメールは悪い気分しなかった」
「はあ」
「ほら。私とオリーヴって、研究の話をしたこと、ほとんどなかったじゃない」
同じ研究所にいた。触らない方がいいものとして扱われてたオリーヴと私が、なんとなく関係を保っていたのは、私とオリーヴの間で研究者にとって大事な話を交わさずにいたからだ。
「貴女はやっぱり、変わり者だったけど、才能も研究の進め方も飛び抜けていて認めざるを得ない部分がたくさんあった。そんな貴女と世間話くらいはできても、深いところまで話すことはできなくて、私は正直、相手にされていないのかと思っていた」
「………」
「認められてないんだから、話も盛り上がらないんだろうなって思ってた節があったのよ。だから、腕を買われたのは嬉しかったよ」
そして研究内容だけでなく、名前も覚えていてくれたらしいので、私としては万々歳だ。ただの白衣を洗濯してくれる人以上の認識が、オリーヴの中にあったのだ。なんだかそれだけで胸が満たされて行く。私はまだ昼の空に、掠れた月が浮かんでいることに気がついた。
「元気?」
「はい」
「声かけてくれて嬉しいけど、ものすごく忙しくしてるって聞いてるよ。副社長だもんね。時間は大丈夫?」
「はい。そろそろ行かなくてはなりませんが……。さんに聞きたいことがあります」
「何?」
オリーヴは顔色を変えずに続けた。
「柔軟剤、何を使ってるのか教えていただいても」
「……え? なんで?」
素直な疑問だった。オリーヴは表情を変えなかった。けれど黙ってしまったので、その顔の下では困惑してるのだろう。
「ふっ、あは、あははは。これから同じ会社で働くのに、忙しいくせに、そんなことを聞きにきたの?」
こらえきれず笑ってしまったというのに、オリーヴは特に恥ずかしがったりはしなかった。少し視線をずらしただけ。彼女は、自分の発言が不恰好なことをわかっているんだろうか。けれどその疑問は、オリーヴの言葉を聞くにつれ解けて行く。
「洗ってもらった白衣の香りが好きでした。あの頃は言えませんでしたけれど。貴女の白衣から嗅いだことのない香りがすると、一人じゃないと思えました」
「そう、なんだ……」
「さんの論文は読んでいました。ただ、研究の話をすると、いいえ気をつけていても、いつの間にか人がいなくなっていますから。さんとは話したくありませんでした」
オリーヴは、自分が告白していることをわかっていた。自分の弱さや恥ずかしさを認めて、後悔を受け止めた上で、言い放つ。
「あの時はさんが、唯一でしたから」
絶句する。オリーヴの中に、私という存在が、確かに存在していたことを知らされて。気を抜くと泣いてしまいそうだ。
電気を落としたあとの研究所でもモニターに向かい続けていた華奢な背中を思い出す。白衣に香りが残る限りは、彼女は私の気配を感じていてくれたんだろうか。
オリーヴのことを思い続けていてよかった、なんて思った。
私が彼女のことを考えていた時間や思いは、きっと白衣の残り香よりももっと長く貴女の周りを漂っていた。だから貴女が香りの中に見出していたものは幻じゃないんだよ。貴女が感じていたもの、縋っていたものは確かにあったのよ。そう恥じらわずに言えそうなのがなんだか嬉しかった。
そんな私にも気付かず、オリーヴは答えを急かすのだった。
「それで。柔軟剤は何を?」
私が答えに詰まっていると、次第に美しい顔に苛立ちが浮かぶ。彼女の表情にまた、言葉ではくくれない感情に見舞われる。苦しくって嬉しい。そんなスパイラルに囚われた午後だった。